ぬるいおでん
珍しい日もあったものだ。
コンビニのビニル袋を提げてリビングのドアを開ける。
ソファに腰掛けた48歳の妻の横顔。「お帰りなさい」とこちらを振り向く習慣が途絶えたのは何年前のことだったか。玄関までぱたぱたと駆けてきた新妻はとうの昔にいなくなった。僅かに不快感を漂わせた横顔には、気づけば小じわが刻まれている。
これが幾度となく繰り返す日常と化し、鬱屈とした気持ちで会社を出る時期もすっかり乗り越えてしまった。お役所へ家族になるための手続きをしに向かったのに、行き着いた果ては同じ屋根の下に住む赤の他人であった。
バラエティ番組から視線を逸らさない妻の背後を通る。コートとジャケットをいっぺんに脱ぐと、ダイニングテーブルに晩飯を広げる。コンビニ店員が袋へ詰めた350ミリと500ミリの缶ビールとペヤング。電気ケトルで湯を沸かそうとキッチンに立つ。コンロに置かれた鍋を覗き込む。残り物のおでんだった。ガスを点火して温め直す。具材をぼうと見つめていると、湯が沸いた。ペヤングに湯を注いで蓋をしたところで、かやくを入れていないのに気づく。蓋をめくって振り入れると、そろそろおでんも温まっているようで火を止めた。皿に盛って、ペヤングの3分を待つ。
こんな風に余り物があったのはいつぶりだろう。いつもの今頃は食器乾燥機が稼働して、なんの食事も残されていない。相変わらず動かぬ妻の後頭部と液晶テレビのくりぃむしちゅーを眺める。妻のスマートフォンが震えた。
のそりと動いたので、反射的に視線を後ろのキッチンへ向ける。とうに3分は経っていた。湯を捨てて麺にソースを絡める。何度やっても満遍なく絡まない。卓について、もそもそと食べる。ちらちらと妻の頭とスマートフォンの画面を視界に捉える。この距離では、誰かとメッセージのやりとりをしていることしか認識できない。
相手は男だろうか。もし妻が不倫をしていたら。若い男とまぐわう妻を想像する。親の性事情を知ったようないやな心持ちがした。彼女とはもう何年もそういった行為には及んでいない。笑った顔や乱れた姿をまた見られるのなら頑張る所存であるが、喜ばれやしないだろう。今のあの冷めきった瞳を前に、ただでさえ衰えている自身が機能するとも思えない。
妻を満足させられる男がいるならば、潔く身を引くべきだろう。むしろよくもこの状態で引き伸ばしてこられたものだ。
「なあ。離婚しようか」
スマートフォンを触る背中に投げかける。私の口元はペヤング焼きそばでいっぱいで、日本語として成立しなかった。
尻ポケットのスマートフォンが震える。みやこさんからのメッセージだった。意図せず表情筋が緩む。先日私が勧めた映画の感想らしい。全文を表示する。
尻まで読み終えると、また文頭へ視線が戻る。撫でるように読み返す。
ペヤングばかりに気を取られてすっかりぬるくなったおでんの玉子を囓る。ぽそぽそした黄身がつゆに混ざっていくのをしばらく見ていた。