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結局のところ、夜中に魔族が襲ってくるようなことはなかった。翌朝、起床したオルダーとオブリビオンが真っ先に行わなければいけなかったのは、死体の片付けであった。死体とは、オルダーとニコを襲った二体の魔族のことである。普段から利用する居住空間に動物の死体を置いておくのは衛生的に問題であるし、かといって、外に捨てることもできない。この二つの死体は、ニコを狙う相手の手がかりとなるものだからだ。
考慮の末、オルダーはこれを家の地下室に移動させた。そこはオルダーの両親がまだ生きていた頃、物置として使われていた部屋だった。当時は、古くなった家具などが置かれていたが、両親の死後、少しでも借金返済の足しになるようにと、中身を片っ端から売り払ったのだ。おかげで、今ではただの空き部屋となっており、死体を隠すのにはうってつけといえた。後から鍵をかけてしまえば、人に見られるのも防げる。
現在、二人は一階のリビングで朝食をとっていた。メニューはパンとカリカリに焼いたベーコン、半熟の目玉焼き、そして、トマトとレタスのサラダである。
「うん、この目玉焼きの焼き加減は素晴らしい。黄身のすべてが固まっているというわけでもなく、適度にとろみも残っている。白身の部分も焦げが少ない」
「ニコに美味しい料理を食べさせてやりたかったからな、何回も練習したんだ。まあ、その分失敗した目玉焼きがテーブルの上に出たんだが……。今日のは特に上手く焼けた。ああ、ニコがいないのが残念でならないよ」
「死体もとりあえずは片付いた。今日はどうするんだ?」
「昨日も言ったが、まずは薬を調達するのが先決だ。そのために、ベルフ先生から貰った……いや、借りている本を調べる」
机の上に出しておいた本をパラパラとめくると、ページはベルフが書いたであろう文字でぎっしりと埋まっていた。時折、挿絵で解説されているものもある。しかし、何よりもオルダーにとって幸運だったのは、この本が人間の理解できる言語で記されていたことだった。
「ベルフ先生はこの本を人間語で書いたのか。他の人間に見せる予定でもあったのかしれないな」
「ずるいぞ。私にも見せてくれ」
オブリビオンは椅子から立ち上がると、反対側に座っていたオルダーのほうにやってきた。
「行儀が悪い。食事中に立ち歩くんじゃない。まったく、ニコにはこんなこと、わざわざ言う必要がないというのに」
「いちいちうるさい奴だな。食事中に本を読みだすよりはマシだ」
オルダーはため息を一つついた。とりあえず、本の最初のページから目当ての薬を探すことにした。そして、それは意外と早く見つかった。オブリビオンはオルダーの肩越しに本を覗き込み、書いてある内容を読み上げた。
「なになに……。採取して24時間以内のイルジャック族の血液と煮沸消毒した水を一対一の割合で混ぜ、色が青色になるまでよくかき混ぜる。調合した薬は常温で保存可能である……。なんだ、たったこれだけか。私はてっきり、魔法とやらを使うのかと思っていたが、拍子抜けだな。それで、このイルジャック族というのは……。おい、オルダー?」
オブリビオンはオルダーの様子がおかしいことに気が付いた。オルダーはイルジャック族という単語を聞いた途端、肩を震わせたのだ。右手で口元を覆い、か細い声で呟いた。
「イルジャック族というのは、ベルフ先生の種族だ……。間違いない」
「馬鹿な。まさか、ベルフは自らの血を犠牲にしてまで、ニコの薬を用意していたというのか。なんとも殊勝な医者だな」
オブリビオンは真っ黒な瞳を見開いた。オルダーは薬の詳細について、ベルフから何も聞かされていなかった。いや、尋ねたことはあったが、思えば、うまい具合にはぐらかされていた気もする。それでも、自身の生命活動の根源たる血液が正体だったとは、その薬の色も相まって、夢にも思わなかった。
こうしてはいられない。オルダーは勢いよく立ち上がった。ベルフから最後に聞いた、遺言めいた言葉がどうしても胸に引っかかった。
「おい、今すぐ先生の診療所に行くぞ! どうにも嫌な予感がする」
「ちょっと待ってくれ。せっかくの私の朝食が冷めてしまう」
「呑気なことを言ってる場合か! そんなものは後からいくらでも作ってやる!」
オブリビオンは肩をすくめると、一瞬のうちに銃形態に変化した。オルダーはそれをひったくるようにポケットにしまい込み、家を飛び出した。
◆◆◆
オルダーはこの数日間で、二度も家から診療所までの距離を全力疾走しなければならないとは予想だにしていなかった。ただし、今回はニコを負ぶっていない分、疲労は軽い。その代わりに、しゃべる武器を携行していたが。
診療所の周りには人だかりができていた。遠巻きに見て立ち去る者もいれば、ひそひそと小さな声で会話している者たちもいた。中には、心配そうに見守っている者もいる。オルダーはこの時点で、ベルフが何らかのトラブルに巻き込まれたことを察した。
人込みをかき分けて進んでいくと、見慣れた制服が目に入った。治安維持局の人間である。彼らは間隔をあけて診療所の周りを取り囲むように立っている。その手には130cmほどの、灰色に輝く杖が握られていた。オルダーはこの武器を知っていた。局員に支給される暴徒鎮圧用の魔法杖だ。話には聞いていたが、見るのは初めてだった。
「すみません!」
オルダーは局員の一人に声を掛けた。切羽詰まっていたおかげで、意図せず大声が出てしまった。
「な、なんだね、君は」
局員はオルダーの剣幕にたじろいだ。オルダーは今にも掴みかかりそうな勢いで局員に詰め寄った。
「ベルフ先生は、先生は今どこにいるんですか!?」
「……ああ。もしかして、ベルフ・ストロア・イルジャックの知り合いかね。気の毒だが、彼なら亡くなったよ。今日の夜明けごろにな」
局員は気まずそうに眼をそらした。いかにも、面倒な相手に絡まれたというような仕草だった。
「な、亡くなった……?」
「そうだ。あまり詳しいことは言えないが、自宅で遺体が発見された。身元不明の魔族と共にだ。これが単なる不幸な事故か、それとも、何者かが仕組んだ事件なのか、現在、我々が調査中である。言っておくが、現場は関係者以外立ち入り禁止だ」
しっしっと、局員は手でオルダーを追い払うような真似をした。身元不明の魔族とは、診療所の防犯魔法に探知されていた魔族に違いない。オルダーはめまいを覚えた。おぼつかない足取りでその場を離れ、人気のない路地の壁に寄り掛かった。
もしあの場に残ってベルフと協力して魔族を撃退していれば――。そんな後悔がオルダーの胸に押し寄せた。もう彼の優しさに頼ることも、ニコの病気について相談することも叶わない。
「クソッ――」
オルダーはベルフを助けられなかった自分にどうしようもなく腹が立ってきた。そして、本能的にその怒りを解消すべく、力を込めても壊れないであろう手ごろな何か――即ち、オブリビオンを地面に叩きつけようと大きく振りかぶり――。
『何をするつもりだ、オルダー! 物に当たるなど、卑怯者のすることだぞ! いいか、もっと物を丁寧に扱えよ! 特に、私はな!』
「あ、ああ。……すまない、取り乱した」
オブリビオンの一喝は、オルダーをある種の高揚状態から引き戻した。突き上げた腕を下ろし、深呼吸をすると、オルダーは頭に上っていた血が全身に行き渡っていくのを感じた。
『全く、しょうがない奴だな……。しかし、これはまずい事態だ。ベルフが死んだとなると、血液を入手する手立てがない。死体から無理やり抜き取るというわけにもいくまいし』
オルダーは顎に手を当てて考え込んだ。生まれてから今に至るまでの記憶を総動員する。
すると、かつてのベルフの言葉が思い出された。
「……いや、まだだ。まだ、当てはある。先生の家族だ」
『家族だと? 確かに、血液を他のイルジャック族のもので代用できれば問題はない。しかし、そんなに都合よく家族がこの近くに住んでいるものなのか? ここは人間の国なんだろ?』
「……都合よくとか、失礼なことを言うんじゃない」
オルダーはため息を一つつくと、握っているオブリビオンの銃身をつついた。それに対し、オブリビオンは抗議の意思を示すように、内部の部品をかちゃりと鳴らした。
「俺は会ったことないが、隣の6番区画で、母親と姉の二人で暮らしていると先生は言っていた。6番区画は主に魔族の居住地によって構成されている。ここから馬車で30分もあれば区画と区画の境界に到着するだろう。だがそれだけだ。それ以上、正確な住所は分からない」
『分からないってお前な、そこが肝心なところだろうが。どうやって探すつもりだ? その6番区画とやらは広いのか?』
「分からないからしらみつぶしに住民に聞き込むんだよ。幸い、半日もあれば、区画を一通り歩くことができる。問題は家族に会えた後、血液を入手するための交渉だ」
『見ず知らずの人間のために、わざわざ血を分け与える者がいるとは信じがたい。しかも、たった数時間前に家族が殺されたのだ。さぞや、傷心のことだろう。私なら……、そうだな、おすすめの温泉を教えてくれたなら、わけてやってもいいぞ』
「お前の好みはどうでもいいが、確かに交渉材料は必要だ。そうだ、先生のあの本を交換材料にしよう。ニコの薬に関わる場所だけを書き写して、本そのものは家族に返す。先生の死を利用することにはなるが、あれも先生の遺品の一つになってしまった以上、彼女たちにとっては計り知れない価値があるはずだ」
『なんだ、もう返してしまうのか。もう少し詳しく読みたかったのだが残念だ。早すぎる気もしないではないが、本当にいいのか?』
「……しょうがないだろ。あれ以外に、差出せるものがない」
オブリビオンは短く『そうか』と答えると、それきり静かになった。
オルダーは自宅へと向かって歩き出したが、頭の中には気掛かりなことがまだあった。それは、よそ者、しかも人間であるオルダーが6番区画をうろついていると、不審者扱いされる可能性があるということだった。ここはもちろん人間の国家だが、最近世間を騒がせている白仮面の存在を鑑みると、見慣れない人間に対して、魔族が警戒心を抱くのが当然であろう。