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オルダーは一瞬だけ体を硬直させた。今日の午前中というのは早すぎる。このままでは誘拐犯の死体を処理できない。しかし、ここでオルダーにある考えが浮かんだ。
『オブリビオン。お前は、俺に関する記憶を世界から奪うと言っていたな。それは紙に書かれたものに対しても有効なのか』
『そうだ。脳みそだろうが、紙くずだろうが、出力する媒体は関係ない。私の力はあらゆるものからお前の記憶を奪う。例外はこの私だけだ』
『それを聞いて安心したよ』
心配そうな表情を見せる局員に対し、オルダーは何でもないと、笑顔を見せた。
「分かりました。現場はなるべく触らないようにします」
「話が早くて助かりますよ」
ここからがオルダーにとっては重要な案件だった。
「局員さん、ニコを治安維持局で保護してもらうことはできますか? 俺は仕事がありますし、どうにかニコだけでもお願いします」
『お前、仕事に行く気か? 呑気なやつだな。よほど仕事が好きなのか』
『嘘に決まっているだろ。他にやらねばならないことが山ほどある』
オルダーは局員が難色を示した場合を警戒したが、局員は特に悩んだ様子はなかった。
「構いませんよ。ただ、預かるのはここではなく、先ほどもお話しした本部になります。期間は一日程度ですね」
「一日ですか。もう少し長く保護してもらうことは……」
「難しいですね、よほどの事情がない限りは。ニコさんはそれでよろしいですか?」
「いいよな、ニコ?」
「……はい」
ニコは絞りだすように言った。納得してはいないのは明白だったが、ここは我慢してもらうしかない。これはニコのためでもあるのだ。オルダーはそう自分に言い聞かせた。
「では、俺は家に帰ります。明日も仕事ですから。くれぐれもニコをお願いします」
オルダーは椅子から立ち上がり、局員に頭を下げた。局員も立ち上がり、敬礼で応えた。
「ニコ、寂しい思いをさせてすまない。すぐに迎えに来るからな」
「いいんです兄さん、兄さんもお気をつけて」
オルダーとニコはしばらくの間抱き合い、互いの体温を確かめ合っていた。オルダーは診療所でしたように、ニコの額にキスをした。しかし、その直後、さすがにやりすぎたかと後悔した。ニコからオルダーの記憶が消えてから、関係が浅すぎるのではないかと。オルダーはニコの顔色を窺ったが、それは杞憂だったようだ。ニコは、はにかみながら頬をうっすらと染め、オルダーの頬にキスをした。
◆◆◆
オルダーは治安維持局を出発した。その手にはベルフから託された本と、オブリビオンがある。建物の角を曲がり、治安維持局の建物が完全に見えなくなったところで、オブリビオンが人間の姿になった。
「おい、その恰好は目立つんじゃないか」
「別にいいじゃないか。あっちは窮屈なんだ。それに、誰も見ていない」
オブリビオンは両腕を高く上げ、伸びをした。
「それにしても意外だったよ、ニコを預けるなんて。『ニコを愛しているから、延々と守っていられる』とでも言うかと思ったが」
「そうしたいのは山々だ。だが、今回はニコを一時的にでも安全な場所に避難させることが先決だった。でなければ、ニコに気を取られて、自由に動けない。そっちこそ、俺がニコと話をしているとき、何か言いたそうにしていただろう」
「ああ、あれか。お前は誘拐犯を探ると言っていたが、本気なのか?」
「もちろん本気だが、それは後回しだ。まず第一に対処すべき課題は、ニコの薬の調達。その次は、ニコが戻ってきてからの安全の保障。そして最後に、誘拐犯の正体の特定。この順で行く」
「計画はよくわかったよ。ただ、ひとつ忘れていないか、オルダー?」
にやりと笑ったオブリビオンは、その場で、拳銃の姿に変身した。オルダーは空中で彼女を掴み取った。滑らかな動作でグリップを握りしめ、人差し指を引き金に掛ける。オルダーは地面へ向けて発砲した。そこには小さな穴が開いた。
「ここでお前を撃てば、ニコと局員、それに、あの紙から俺の記憶が消える。残るのは、なぜ治安維持局に来たのか自分でも理解できないニコと、どんなやり取りをしていたのか覚えていない局員だけだ。治安維持局はニコに話を聞こうとするだろう。無理矢理追い出すわけにもいくまい。そうすれば、保護する期間が長引くに違いない」
『おまけに、お前の家に局員が来る話もうやむやになったわけだ。ふふ、素晴らしい!』
オブリビオンは再び人間の姿に戻ると、オルダーの前方に回り込み、詰め寄った。その顔は興奮で満ちており、オルダーを見つめる黒い瞳は、恐ろしいくらいに透き通っていた。
「それでこそ、私が選んだ契約者だ。この調子で私を最大限活用してくれよ」
「言われなくともこき使ってやるさ。ただ――」
「ただ?」
オルダーは治安維持局の建物の方向を振り返った。当然、オルダー達からは確認することができない。別れてからまだ数十分も経っていないというのに、オルダーはニコのことを気にかけていた。
「――今回は苦肉の策だった。治安維持局での生活はニコに負担を強いるだろう。薬もギリギリ足りるかといったところだ。次からは余裕のある作戦を立てる」
「本当にお前は妹のことが好きなんだな……。私も協力は惜しまない。大船に乗ったつもりでいてもいいんだぞ?」
オブリビオンは自身の平らな胸を張った。その仕草がオブリビオンの背丈に似合っていないような気がして、オルダーは思わず吹き出しかけた。
「それは頼もしい。なにせ、男を片腕で持ち上げる馬鹿力の持ち主だからな」
「何か言ったかな、ひ弱なご主人様?」
◆◆◆
オルダーとオブリビオンは家に到着した。扉は開きっぱなしであった。オルダーがニコを負ぶって飛び出したからである。
誘拐犯の魔族が残した、玄関から家の内部に向かっている足跡は、家を出る前と変わらず残っていた。オルダーが落としてしまったニコ用の薬もあった。ガラス製の容器は割れてしまっており、中身の液体が床に染みをつくっていた。
「もう夜も遅い。何か軽く食べて、早く寝るか。一階と二階の掃除は明日の朝にしよう」
オルダーは冷蔵庫の中を思い出しながら居間に向かって歩き出した。しかし、どこか期待に満ちたオブリビオンの声が後ろから聞こえた。
「なあ、オルダー。風呂は? この家には風呂はないのか?」
「あるにはあるが、二人だと時間がかかる。今日はシャワーで我慢しろ」
投げやりな態度のオルダーだったが、オブリビオンは額に手を当て、あからさまにため息をついた。
「はあ……。分かってないな。いいか、夕食の後、風呂に入るという行為は一日を締めくくる神聖な行為なのだ。言うまでもなく、朝風呂、昼風呂もそれぞれ違った味があるが……。それを疎かにするなど、罰当たりにもほどがある。そもそも、お前だって汗をかいただろ? すっきりしたくないのか? なあ、頼むよ、オルダー」
オブリビオンはオルダーの腕を取り、ぶんぶんと音が聞こえそうなほど大きく振った。
「ああもう、分かったよ。風呂に入る、入れればいいんだろ!」
「よろしい。当然、私が一番風呂だよな?」
「……どうぞご自由に」
オルダーは肩をすくめた。対照的に、オブリビオンは満面の笑みを浮かべている。上機嫌なのはいいことだと、オルダーはオブリビオンの顔を見て自分に言い聞かせた。
「そんなに風呂が好きなのか? いったいなぜ?」
「なぜかって……なぜだろうな? 自分でも分からないが、好きなものは好きなんだ。さあ、早く準備だ、準備」
「何だ、その答えは……」
オブリビオンは腕を組んで考え込んでいたが、オルダーを急かすように、彼の背中を後ろから叩いた。
◆◆◆
オルダーとオブリビオンは、二階のオルダーの部屋にいた。既に食事と風呂は済ませてある。部屋の前に放置されていた魔族の死体は、ニコの部屋の死体と共に、一時的に一階の居間に移動させた。オルダーにとって幸運だったのは、死体からの出血が少なかったことだ。理由は不明だが、おかげで家の中はそれほど汚れていない。
オブリビオンはベッドに腰かけていた。彼女は風呂に入る前から着ていた黒のドレスをそのまま着ている。オルダーはニコの部屋着を使うように勧めたが、断られていた。
「今更だが、よかったのか? ニコの下着と寝間着を使ってもよかったんだぞ。体格はほとんど同じだから問題ないはずだ」
「確かに、私が持ち合わせている衣服は、今身に着けているものだけだ。だが、聞いて驚け。これは皴にならず、しかも、自動的に汚れが落ちる特別な代物なのだ」
オブリビオンは自慢するように、ドレスの裾の部分をつまんだ。
「それはすごい。風呂から上がった時には新品同然というわけか」
「眠っている間も快適だ。それに、私はこの服を着ていなければ拳銃に変化できない。お前もその方が安心だろ?」
「そんな制約があるのか……って、ん? 人間の姿で眠るのか?」
「当たり前だ。向こうは寝返りすら打てやしない。よし、そろそろ寝よう」
「ニコの部屋が今空いているから、そこのベッドを使え。俺はここで寝る。部屋は隣同士だから、用があったら言ってくれ」
「何か勘違いしているな、オルダー。私とお前は同じ部屋で眠る必要がある」
「は? なぜそんなことを」
「やれやれ、危険意識が足りていない。もし別々の部屋にいる状況で襲われたらどうする? 私を起こしに来るか?」
オルダーは唇をかんだ。オブリビオンの言い分も一理あると頭では理解していたが、オルダーは意地を張った。
「ぐっ……。だが、この部屋にはベッドが一つしかないんだぞ。どうするつもりだ」
「どうするもなにも、私がベッドで寝る。早い者勝ちだ」
オブリビオンはベッドを占領するかのように、両腕を広げ、仰向けに上体を倒した。オルダーはオブリビオンに詰め寄り、睨みつけた。
「ふざけるな。だいたい、危険意識がどうのこうの言うのなら、お前が拳銃の状態になればいいだろう。それで床の上ででも寝れば――」
「おやすみ」
「……」
オブリビオンは布団を頭までかぶると、すぐに寝息立て始めた。オルダーは仕方なくニコの部屋から布団を持ち出した。床の上での就寝はオルダーをみじめにさせたが、ニコの匂いに包まれながら朝を迎えるのも悪くないと、オルダーは思った。