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 オルダーは焦った。こんなところで、いつまでも立ち往生しているわけにはいかない。ベルフのことも心配だった。早急に治安維持局に到着し、診療所に人を呼ばなければならないのだ。



「ああ、本当にすまない。ともかく、歩こう。歩いてほしい、頼む……」



 ニコはその言葉に促されて歩き始めた。オルダーもその隣を歩く。ニコは落ち着きを取り戻してきた。オルダーはここである考えを思いついた。オブリビオンを使い、自身に関する記憶を消してしまえば、先ほどの失言を取り消せるのではないかと。しかし、オルダーがオブリビオンに声を掛ける寸前、ニコが口を開いた。



「忘れてしまったんです。私は一人で生きていけるはずがないのに……! 今まで、私と暮らしてきた誰か、その大切な誰かを思い出せないんです。そんなの自分勝手すぎる。私は自分を許せない……!」



 オルダーは雷に打たれたかの様な衝撃を受けた。ニコからオルダーの記憶は消え去ったのは間違いない。しかし、ニコが一人で暮らしていたという記憶も彼女の中には存在しない。オブリビオンの能力はあくまでも記憶の消去であって、改ざんではないのだ。



 ニコは再び肩を震わせ、嗚咽を漏らし始めた。その姿をみたオルダーは、ニコを固く抱きしめずにはいられなかった。



「え……?」



「いいんだ、お前は何一つとして悪いことはしていない。だから、自分を責めるのだけは、やめてくれ……! 生きてさえいてくれれば、俺が何とかする。お前の病気も敵も、全て!」



「病気のことを知って……? 本当にあなたは私の」



 オルダーは返事をする代わりに、腕に込める力を強めた。ニコはオルダーの胸に顔をうずめ、声をあげて泣いた。涙や鼻水でオルダーの服は汚れてしまったが、そんなことはどうでもよかった。



「ごめんなさい……。どうか私を許してください。もう二度と、絶対に忘れたりなんかしません。私の兄さん……」



「……そうだな、ニコ」



 ニコの言葉は、オルダーの心にひどく虚しく響いた。それでも、ニコがそう言ってくれるだけで、オルダーの胸は愛しさで熱くなった。



 そして、オルダーは考えていた計画を伝えることにした。ニコにとっては受け入れがたいものであると分かっていてもだ。



「ニコ、俺の言うことをよく聞いてくれ。お前を治安維持局に保護してもらう」



「え? ど、どうしてそんなことを」



「家にやってきた魔族がいただろう。あいつの仲間がまだお前を狙っているかもしれない。治安維持局なら武装した人間がいる。あそこなら安全だ」



「そうかもしれないですけど、兄さんは? 兄さんはどうするつもりなんですか」



「俺は……、俺は襲ってきたやつが何者なのかを調べる」



『……』



 オブリビオンが何か言いたげであるとオルダーは感じた。しかし、オルダーはそれを無視した。ここはニコの説得が先決だった。



「そんな、危険です! それこそ、治安維持局の方々に任せておけばいいのではないのですか!?」



 ニコの意見は正論と呼べるものだった。しかし、手がかりとなる誘拐犯をオルダーは殺しているのだ。そのことが治安維持局に知られてしまえば、確実に身動きが取れなくなる。すなわち、家に置き去りにした死体を処理する必要があるのだ。



「……いいや、お前に危害を加えようとするやつをおめおめと見過ごすわけにはいかない。これは俺に与えられた使命なんだ」



「ならせめて、私にも協力させてください。兄さんだけが苦しい思いをするなんて……」



「それは危険すぎる。もしお前が怪我の一つでもしたら、元も子もない。分かってくれるな、ニコ」



「……」



 オルダーは諭すように話した。卑怯なやり口だとしても、それがニコに効果的であることはオルダーが一番よく知っていた。



「ニコ?」



 ニコは黙り込んでしまった。オルダーは一度ニコの体を引き離し、ニコの顔を覗き込んだ。ニコは寂しそうに笑っていたのだ。その目からは涙が一筋流れていた。



「そうです、この気持ち……。いつも感じていたんです。私は何もできなくて、誰かに頼る。そんな自分を変えたいと思っても、どうすればいいのか分からない。それで結局、また誰かに甘えてしまう……。私はただ迷惑で、わがままなだけの存在なんです……」



 ニコから自己の否定の言葉を聞いたのは初めてだった。ニコの表情と相まって、オルダーは自分が否定されているような錯覚に陥った。



「……っ! いいじゃないか、甘えたって。甘えることの何が悪いと言うんだ。俺はお前の兄なんだから、いくらでもお前のわがままを聞いてやる。だから、そんな悲しいことを言わないでくれ」



「ごめんなさい……。ごめんなさい……、兄さん」



 ニコはただ謝り続けた。オルダーは再びニコを抱きしめることしかできなかった。オブリビオンは最後まで口を挟むことはなかった。



 ◆◆◆



 治安維持局の建物が見えてきた。夜中にもかかわらず、光が漏れている。周辺の民家よりも一回り背が低く、立方体をそのまま地面に置いたような外観である。表に誰かいる様子はない。



 オルダーとニコはガラス張りの扉の正面に立った。そこからは内部の様子が確認できるようになっていた。壁にはポスターや指名手配犯らしき人物の似顔絵が貼ってある。そして、中央には一台の正方形型のテーブルと、四脚の椅子が備え付けてあり、その一つに局員らしき人間が座っていた。



「すみません、ここを開けてください」



 オルダーは本とオブリビオンを持っている右手の甲で扉をノックした。ここで、不意にオブリビオンの忠告が頭をよぎった。そう、オブリビオンは出来るだけ隠すべきなのだ。武器である以上、没収されてしまう可能性も捨てきれない。オルダーは本とオブリビオンを重ねて持ち、本のほうが局員側から見えるようにした。



 振動に気が付いた局員は顔を上げた。局員は男性だった。帽子をかぶり、皴一つない制服を着こなしている。椅子から立ち上がり、二人を笑顔で出迎えた。



「こんばんは。どうかされましたか」



「俺たちは逃げてきたんです。お願いです、早くベルフ先生の診療所に――」



「まぁまぁ、落ち着いてください。ともかく中へお入りください。お話はそこで」



 不意に、オルダーの左手を握る力が強くなった。オルダーはニコを見た。そこには、オルダーを見つめる不安げな瞳があった。オルダーはそれに笑顔で答えた。そして、ニコの小さく、柔らかい手を握り返した。



「どうぞ、座ってください。それで、一体何があったのですか? こんな真夜中に」



 局員はそう言うと、自らも椅子に座り、鉛筆と紙を取り出した。兄妹二人は彼の正面に並んで座った。オルダーは先に本をテーブルに置き、オブリビオンを膝の上に置いた。局員からは見えない位置であり、そのことは気づかれてはいない。



 オルダーは局員に、診療所での出来事をかいつまんで話した。局員は時折頷き、紙にメモを取りながら話を聞いていた。



「なるほど、あなた方が病衣を着ていたのはそういう理由でしたか。分かりました。大至急、診療所に局員を派遣しましょう」



 局員は、オルダーたちにここで待っているように言うと、席を立ち、早足で奥の部屋へと向かった。ニコは物珍しそうに部屋の中を見回していた。ニコが治安維持局に来るのは初めてだった。三分ほどたったのち、彼は戻ってきた。



「本部のほうに応援を要請しました。部隊が現場に直接赴きます。彼らは全員が魔法を行使する許可が与えられており、その中には治療魔法を使える者もいます。ですので、安心してください」



「ありがとうございます!」



「ところで、お二人はなぜ診療所に?」



 ――来たか。



 魔族を殺したことは話せない。だからオルダーはその部分だけ嘘をつくことにしていた。



「家にいた妹が攫われかけたんです。運がいいことに助かりましたが、意識を失っていました。それで、心配になって診療所へ」



「運がいいことに、とはどういうことですか? それに、あなたはその場面に居合わせたのですか?」




「はい。あいつは俺の目の前でニコを抱きかかえた後、窓から逃げようとしていました。でも、ニコを置いてそのまま逃げたんです。どことなく、慌てた様子でしたが……。俺にもよくわかりません」



 このことは既にニコに伝えていた。強引な嘘だが、それを確かめる方法はそうそうないだろう。当事者のニコは意識を失っていたので、確認しようがない。許可なくオルダーの家に立ち入るのは治安維持局でも難しいだろうし、そもそも、被害を故意に少なく申告すること自体、局員側からすれば想定外のはずだ。実際、オルダーとニコは五体満足でこの場にいる。そのことも嘘の信ぴょう性を高めるだろう。



「ふむ……。診療所の件と合わせて、その誘拐未遂のほうも調べる必要がありそうですね」



 その後も、局員はオルダーにいくつか質問をした。何時ごろ誘拐されそうになったか、相手の見た目、相手との面識、そして、オルダーとニコの本名、住所等の個人情報である。オルダーはそれぞれに正直に答えた。



「それでは、今日の午前中にはあなた方のお宅に伺います。被害状況を調べなければなりませんし、何より、その誘拐犯の手がかりが見つかるかもしれない」



 局員は当然のことのように言った。



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