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オルダーが部屋へと戻った時、ベルフはまた椅子に座って本を読んでいた。ただ、睡魔と戦っているのか、うつらうつらとしている。時計の針がカチカチと音を立てていた。ニコも特に変わった様子もない。危うく、ベルフが本を落としそうになったが、オルダーが声をかけた。
「今戻りました。遅くなってすみません」
「おかえり。さぁ、早く眠るといい。僕も眠くて眠くて……」
ベルフはあくびを噛み殺し、本を閉じた。オルダーは自分が寝ていたベッドに腰かけた。そして、オルダーの顔が視界に入った瞬間、ベルフは血相を変えた。
「ど、どうしたんだい、その頬は! 外で一体何が」
「何って……。自分に喝を入れたんですよ、いや、入れられた、のほうが正しいですね」
『効果はてきめんだったというわけだ』
オブリビオンの得意げな声が聞こえたが、オルダーは無視した。あのやりとりに救われたのは事実だが、それを本人の前で認めるのは恥ずかしかったからだ。
「とにかく、冷やすものを持ってくる。ここで待っていてくれ」
「いえ、先生。これは大丈夫です。それよりも聞いてほしいことがあります。俺たちがここに来た理由についてです」
ベルフは慌てた様子で椅子から立ち上がったが、その言葉を聞いて動きを止めた。そして、オルダーの顔をまじまじと見つめた。
「それは気になるけど、さっきも言った通り、明日にしたほうが――」
「これは今すぐ話さなければならないことです!」
オルダーの剣幕にベルフはあんぐりと口を開けた。むしろそれが正しい反応であろうとオルダーは思った。ついさっきまで、精気が尽き果てた顔をしていた人間から発せられる言葉だとは誰も考えないだろう。
ベルフはため息をついた。それはどのような意味を持つのだろうか。オルダーは内心冷や汗をかいた。
「分かったよ。話を聞こう。君とニコちゃんが、こんな夜中にうちに来ることになった理由をね」
――よし、第一関門は突破だ。
オルダーは頭を下げた。あとは昨日の出来事をベルフに相談すればよい。しかし、ここでオルダーは厄介なことに気が付いた。オブリビオンの存在である。襲ってきた魔族の殺害についてはオブリビオンの説明が不可欠だ。どこまでオブリビオンの能力を話せばよいか、オルダーは迷った。
『なぁ、オブリビオン。先生にお前のことをどこまで話せばいいと思う?』
『教えてやらなくてもいいぞ。こいつは私のことをおもちゃ扱いしたからな。まったく、失礼なやつだ』
『聞いていたのか……』
『冗談はともかく、普段はできるだけ隠したほうがいい。ただ、今回はある程度話さざるを得ないだろう』
オルダーはオブリビオンの意見にもとに、ベルフに伝えるべきこととそうでないことを取捨選択していった。
「俺が家に帰った時、留守番をしていたニコが魔族に誘拐されかけたんです。そいつが何かしたのでしょう、ニコは気絶していました。それで心配になって、ニコを連れてここにやってきたというわけです」
「誘拐だって!? そりゃまた、突拍子もないことを……」
ベルフは目を見開いたが、すぐに表情を別のものに変えた。どこか引っ掛かりを覚えた様子だ。口元に手をあてて、目線を斜め上に移した。考え事をしているときの癖である。
「されかけたというのは、妙な話だね。君たちがここにいる以上、誘拐は失敗したことになる。いや、そもそも、どうして二人とも無事でいられたのか」
ここでベルフはオルダーを見た。そして、その視線はオルダーの手元のオブリビオンへと吸い込まれていった。
「まさか、それは武器なのか? それを使って誘拐犯を?」
「そうです。撃退しました。ここの引き金を引くと、空洞になっている部分から弾丸が飛び出します。こんな風に」
オルダーは身振りで弾丸の軌道を示した。ここでオルダーは一つ嘘をついた。殺害ではなく撃退したことにしたのだ。これは単純に心象の問題であり、必要以上に警戒されるのを恐れたからである。
「それをここで試すことができるかい?」
「それは危険です。かなり威力が高いので、ニコや先生に当たったら取り返しがつかないことになります。それに――」
オルダーはオブリビオンの銃身を撫でた。ここからが重要だった。
「信じられないかもしれませんが、この武器を撃ってしまうと、使用者に関する記憶が消えてしまうのです。つまり、
この会話も無かったことに」
それを聞いたベルフはうーむと、低い声で唸った。
「君が嘘をついていないのならば、話の筋は通っている。君が僕のことを知っていて、僕が君のことを知らないことにも説明が付く」
オルダーは計画通りに話が進み、内心で笑みを浮かべた。そもそも、現時点まででベルフに話した内容には、誘拐犯の魔族を撃退したという、曖昧に誤魔化した部分以外に嘘はないのだ。矛盾が出るはずがない。
突然、部屋の中にぱちん、と乾いた音が響いた。ベルフが大きく手を打ち合わせのだ。どうしたのかとオルダーは身構えたが、ベルフは屈託のない笑顔をしていた。
「うん、信じよう。それで、今後のことだけど――」
オルダーは呆気にとられた。さすがに簡単に行き過ぎていないか? ベルフは考えなしではない。オルダーの話は事実だが、その証拠を一つとして示していない。何より、ベルフにとって、オルダーは今日が初対面の人間なのだ。
「あ、あの、先生。なぜそんな簡単に俺の言ったことを信じるのですか」
オルダーの口から、自然と言葉が漏れた。それは不安の表れだった。
「え、嘘ついたの?」
「それは違います。でも」
「ははは、ごめんごめん。正確には、信じる、というよりも、信じたい、のほうが正しいね。勿論、すべてが嘘である可能性を否定できない。例えば、君が誘拐犯と通じているとか。でも、僕はそうとは思わない」
「なら、一体なぜです……?」
「キスだよ。ニコちゃんにしてただろ。あんなに慈愛に満ちた目で、美しい親愛のキスをする人に悪い奴はいない!ってね」
最初、オルダーは何のことを言われているか心当たりがなかったが、すぐに思い出した。自殺しようと外に出る前、あれは最後にお別れの意味を込めてしたものだった。まさか、そこから信用を得られるとは。
「み、見ていたんですか。あはは、恥ずかしいですね。別に、いつもやっていることですよ」
ベルフはオルダーにぱっちりとウインクした。オルダーはむず痒くなるような恥ずかしさを覚え、なんとなく頭をかいた。
『いつもはキス以上のこともしているのかな?』
『お前は黙ってろ!』
『ふふ、まぁそう怒るなよ、オルダー』
『いいか、俺とニコは極めて健全な関係の兄妹だ。やましいことなど一つとしてありはしない。分かったな!』
『はいはい』
オブリビオンの気の抜けた返事にオルダーはため息をついた。熱意を込めて説明すればするほど、図星をつかれているように見える。だが、オルダーの機嫌は不思議と悪くはなかった。ベルフとの順調に会話が進んでいるからなのか、それとも、それ以外の理由からなのかは分からなかったが。
ともかく、オルダーはベルフとの信頼関係を構築したのだ。ここからは、彼の協力を仰ぎつつ、治安維持局に相談してもよい。そして、今のオルダーにはオブリビオンという特異な武器があった。ニコとはまだあまり話せていないが、ベルフと同じように上手くいくに違いない。オブリビオンを使えば、また魔族が来ようともニコを守れるのだ。その後? その後は――。
――記憶が消える。ニコも、ベルフも。
ほんの一瞬だけ、オルダーは実に都合のいい妄想をした。魔族の襲撃はこれっきりだとか、オブリビオンの殺傷能力はそのままに、記憶消去の能力だけが失われるとか、そんな具合である。しかし、それは過去の決意の否定にほかならないのだ。この喪失感こそが、オルダーの糧であり、可能性であった。
「気になることでもあった? いきなり黙り込んで」
「いいえ、なんでもありませんよ、ベルフ先生。それで、今後のことですが――」
ここで、オルダーは違和感を覚えた。ベルフの顔にである。眉間には皴が寄り、目つきは鋭く細められていた。そこから出る目線が左右を一往復した時、オルダーは腹の底から湧き上がってくるような不快感を覚えた。
「どうやら、招かれざるお客様のようだ。やれやれ、今日は商売大繁盛だね」
オルダーの夜は、あける気配をまだ見せない。