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「は……?」
オルダーはまた自分の耳が幻聴を受け取ったのかと思った。しかも、特別にたちの悪い幻聴を。しかし、その他人行儀な声音はなおも続く。
「あなたが私を助けてくれたのですか……?」
ぼうっとした目で見つめるニコ。オルダーはその声を自身から振り払うかのように大声を出した。
「なんなんだよ、その『あなた』ってのは!? お前はいつも俺のこと『兄さん』って呼んでたじゃないか! そうか、さっきの魔族のせいだな!」
「兄さん? 私にはそんな人……」
先ほど見た光景と今の状況から 推論を立てるオルダー。ニコはそれに対して口を開きかけたが、再び意識を失ってしまった。
「おい、ニコ、どうしたんだ!? しっかりしてくれ!」
(やはりベルフ先生に診てもらうのが……、いや待て、ここから約一三十分、俺がニコをおぶっていくとして、もしニコに悪影響があったら!? とは言え、目立った傷はない。それにこのまま目を覚まさない可能性もゼロでは……)
オルダーは刹那のうちに思考を巡らせる。二階へと急いで引き返し、そして、オブリビオンをポケットに入れ、ニコの華奢な体をその背中に乗せたのだった。
◆◆◆
オルダーは疲労困憊になりながらも、何とかベルフの家にたどり着いた。足の筋肉の痛みなど気にしてはいられない。
「ベルフ先生! ベルフ先生! 開けてください!」
力いっぱい、鍵のかかったドアを叩き続ける。ベルフや近隣住民は既に寝ているかもしれないが、お構いなしだった。
「……はいはい、今出ますから、そのうるさいのを止めてくれよ……」
いかにも、眠りを妨げられて不愉快だという声だった。しかし、彼の性格ゆえか、寝間着姿のベルフは素直にドアを開けた。オルダーは状況を説明する。
「ニコが魔族みたいなやつに襲われて、その後意識を失って……」
ベルフはオルダーを数秒の間じっと観察していたが、まだ目を覚まさないニコを見るなり、目の色を変えた。まとう雰囲気も先ほどまでとは打って変わり、完全な覚醒状態に入ったようだ。
「よし、奥の部屋に患者用のベッドがあるから、まずそこに運んでくれ。」
その部屋はベッドが二台置いてあるだけの殺風景な空間だった。オルダーはその片方にニコをそっと下ろす。そこへ、いつもの白衣に着替えたベルフがやってきた。
「治癒魔法をかけるに前に、まずは体の状態を調べる」
短く説明し、ベルフは右手をニコの頭に乗せ、何かを呟いた。すると、その右手が緑色に光り始めた。最初こそ弱々しかったが、だんだんと力強いものになっていく。そして、その光を放つ右手をニコの胴体、両腕、両足へとずらしていった。
オルダーはその様子を固唾をのんで見守っていた。手伝いたい気持ちもあったが、ベルフの集中を妨げてはならないと、口を堅く結んでいた。
やがて、右手がつま先まで到達した時、光が消え、ベルフは顔を上げた。
「体の内部に異常はないね。毒も検出されなかった。今は気絶しているだけだろう。じきに目を覚ますと思う」
「良かった……」
オルダーは脱力してその場にへたり込んでしまった。そして、未だに痛みと熱を持った足を、今は誇りに感じた。
(やった、やり遂げたんだ、俺は! ニコを、この手で助けたんだ!)
放心しているオルダーを見たベルフは、悪意の欠片もない笑顔で言った。
「ありがとう。よく彼女を運んできてくれたね。君・の・名・前・は・な・ん・て・言・う・ん・だ・い・?・ ニコちゃんの知り合い?」
それは極めて何気ない一言だった。しかし、オルダーは鈍器で殴りつけられたかのような衝撃を受けた。
「俺の名前はオルダー、ニコの兄です。ベルフ先生、俺を忘れてしまったんですか……?」
「え、知り合いだったっけ!? ……うーん、僕は記憶力にそこそこ自信があるけど、君は知らないなぁ」
それは本当に知らないといった口ぶりだった。オルダーはベルフが嘘をついているようには思えなかった。
「……んん……」
ちょうどその時、ベッドの上のニコが小さく声を上げた。うっすらとその目を開け、あたりを見回した。
「ニコ! 気が付いたのか! ああ、よかった……」
オルダーの口から思わず声が出た。しかし、ニコに対してどうしても確認しておかなければならないことがあった。オルダー自身のことである。オルダーはニコの目の高さに、自分の目の高さを合わせた。ゆっくりと、ある程度答えを決めつけているような声音で、優しく問いかけた。
「なあニコ。俺のこと、わかるよな?」
「君ね、ニコちゃんは今目覚めたかりだし、あまり混乱させるようなことを言うのは」
ベルフがたしなめたが、この時ばかりはオルダーは彼のことを無視した。ニコはオルダーの視線から逃げることなく、目の前の顔を凝視した。何秒間か経った後、言いにくそうに呟いた。
「ごめんなさい、あなたが誰だかわかりません。でも……」
オルダーの顔が一気に青ざめた。わかりません、わかりません、わかりません……。オルダーの中でその言葉がぐるぐると回り始めた。ニコのその後に続く言葉に気づくことができなかった。オルダーは今まで自分を誤魔化してきたのだ。これは何か、自分の聞き間違いの類のものではないかと。しかし、ある程度落ち着いた状況で、本人からもう一度事実を突きつけられたのだ。オルダーに逃げ場はなかった。
オルダーはふらふらと立ち上がり、そこから二、三歩小さく後ろに下がった。
「なんて顔色の悪さだ。横になって休んだほうがいい」
オルダーの異変に気が付いたベルフが心配そうに声をかけたが、その次の瞬間――。
――べちゃべちゃべちゃ。
オルダーは胃の中のものを床にぶちまけ、その場で意識を失った。
◆◆◆
オルダーが目を覚ました時、そこはベッドの上だった。ふと、気配を感じてそちらのほうを見ると、隣でベルフが椅子に掛け、本を読んでいた。そして、反対側の少し離れた場所にはベッドがあり、そこではニコが眠っていた。オルダーはゆっくりと体を起こした。
「ああ、ニコ……」
ベルフはオルダーの動きに気が付くと、本にしおりを挟んだ。
「起きたね。調子はどう? ほら、水を飲むといい」
オルダーは小さくお辞儀をして、ベルフから水の入ったコップを受け取った。よく冷えた水だった。ここ数時間のオルダーは緊張状態が続いていた。オルダーは入っていた水を勢いよく飲み干すと、コップをベルフに返した。
「汚れた服は着替えさせてもらったからね。あと、君の持っていた黒いものはすぐそこに置いておいた。こんなもの初めて見たよ」
言われてオルダーは気がついた。確かに、自分が着ていたものではなく、ゆったりとしていて、着心地のいいものに変わっている。
「迷惑をおかけして申し訳ないです、先生……」
「はは、迷惑をかけられるのが医者ってものさ」
ベルフは大きく笑った後、顔の表情を引き締めた。
「君たちに何があったのかを知りたい。ただ事ではなかったのだろう。だけど、今日はもう遅い。もしよければ、明日の朝になったら話をしてほしい」
ベルフにとって、ニコの兄を名乗る、目の前の見知らぬ青年よりも、体の弱いニコのほうが気掛かりだった。しかし、そのことはおくびにも出さなかった。
オルダーは数秒だけ、正面の壁を見つめた。ベルフはその表情をうかがったが、そこからは何かを読み取ることはできなかった。
「……先生、外の空気を吸ってきてもいいですか?」
「も、もちろんだとも。一人で大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です」
オルダーはベッドから出たが、すぐに外へと向かったわけではなかった。ふわふわとした足取りで移動し、ニコのベッドの隣に片膝をついた。そして、彼女の頬を手のひらで包み込むように撫で、額にキスをした。
ベルフはその光景に息をのんだ。おぼつかない足取にではない。あのキスは一朝一夕にできるものではなかったからだ。相手と長い年月を共有し、その人を心から愛している者だけができるキスだった。もし、今、ニコが起きていたならば、彼女は喜んでそれを受け入れたであろう。
オルダーの言っていたことは決して嘘ではないのかもしれない。ベルフはそう感じた。
オルダーはニコから唇を放すと、部屋から出て行った。オブリビオンをその手に握りしめて。