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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

処刑人

作者: 梨本みさ

「VC567JB」

 牢屋の鍵を開け俺を呼んだのは、監獄に勤めるには似合わない、顔が薄く身体の線の細い男だった。

 この場所で、俺はVC567JBという名を与えられている。いや、名ではない。ただの記号だ。生まれたときに親がつけてくれた名前など、ここでは価値を持たない。

「ついて来い」

 とうとう、この時がやってきた。軽く頷いて牢屋から出ると、男は前を向いて歩き出した。

 俺は今日、殺される。怖くないと言えば嘘になる。しかし、心中は案外落ち着いていた。

 死刑が下されたのはもうずっと前だった。その時から、俺はある意味既に死んでいたのだ。その虚構の死から解放されると思えば、真実の死への希望が生まれる。


 男によって連れてこられたのは、四畳半ほどの小さな部屋だった。窓はない。床も壁も模様はなく、真っ白だ。真ん中にテーブルがあり、水の入ったコップが置いてある。

 そして俺は、部屋の中の思いがけない光景に一瞬息を呑んだ。

 女がいたのだ。背の高い、ブロンドの美女だ。まるでコスプレのような、露出の多い服装をしている。スタイルの良い彼女に、それはよく似合っていた。

 俺と目が合うと、彼女はニヤリと笑った……ような気がした。

 ここまで俺を連れてきた男に背中を押され、テーブルの前のパイプ椅子に座らされる。そしてコップの中の液体を飲むよう命じられる。

 おそらく、毒薬だ。民間では絞首刑と思われているが、実際には違う。毒薬で眠るように逝くのだ。……という、真偽の定かでない噂が囚人たちの間で囁かれていた。

 コップを掴むと、俺は一息に呷った。僅かな苦味があった。

 空になったコップを見ていると死の恐怖が湧き、テーブルに戻し目を閉じる。死ぬなら早く。早く。

 毒薬の効果はすぐに表れた。膝の上で握りしめていた拳に、力が入らなくなったのだ。

 しかし、症状はそれだけだった。意識がかすれるわけでもないし、苦しくもなんともない。ただ、身体が動かない。まばたきがやっとできるくらいだ。

 まだ完全に毒が回っていないのだろうと思ったその時、今まで黙って立っていた女がこちらへ歩み寄ってきた。

「では、ここからは私が」

「ああ、よろしく頼む」

 何の会話か解せないでいると、突然女に横抱きにされた。焦る。しかし、焦ったところで抵抗もできない。身体が動かせないのだから。

 なんなんだ、これは。


 五感はきちんと働いているようだ。女によってどこかへ運ばれながら、俺はそのことを確認した。鼻は彼女の女性らしい匂いを感じているし、左肩には押しつけられた胸の感触がある。

 ひょっとしたら、俺はもう死んでいるのかもしれない。冥土の土産に、このやけにリアルな夢を授かったのではないだろうか。


 やがて、通路の奥の部屋にたどり着いた。薄汚い部屋だった。妙に空気が冷え冷えとしている。誰もいないその部屋は、防音が効いているのか扉が閉まると外の音が完全に絶たれた。

 仰向けに身体を床に下ろされる。いや、床ではない。ベッドの上だった。ギシリと、固いマットレスのスプリングが鳴る。鉄のような臭いが鼻をかすめた。ベッドと目の前の女から卑猥な妄想をしてしまう俺の脳は、どうやらまだ正常に機能しているようだ。

「薬が効いているようだけど、声は出せるのかしら?」

 女の問いに対し、「あー」と発声を試みる。少し掠れているが、声は出た。

「そう。よかったわ。声が出なくちゃつまらないもの」

 どういう意味かと目で尋ねると、彼女は妖艶に微笑んだ。そして俺の右手を持ち上げ、手の甲を俺に向ける。人差し指の先端を摘んだ彼女は、

「ちゃんと見ていてね」

 と笑みを更に深めた。

 次の瞬間。

 ペロリと、目の前で爪が剥がされた。肉が引きちぎられるような激痛に、言葉にならない悲鳴が上がる。鮮血の紅が目に染みる。随分と血色の悪くなった肌の向こう側から、色が溢れ出す。

 続いて親指に手がかけられたのを見て、俺は思わず目をつぶった。人差し指はズキズキと痛み続けている。

「見ていてって言ったでしょう」

 底冷えするような声音に恐怖を覚え、恐る恐る目を開ける。血に濡れてらてら光る肉が目に入り、つい目を背ける。

 そして背けた視界に映ったものにギョッとした。仰向けになっていたため気づかなかったが、今俺が横たわっているマットレスは赤黒く斑に汚れているのだ。最初に嗅いだ鉄の臭いは、このマットレスに染み込んだ、誰のともわからない血の臭いだったのだ。

 身体の芯がすっと冷える。脇の下からは、嫌な汗が滲み出る。俺はまだ生きている。ここは地獄だ。そして現実だ。生きたまま地獄に堕ちてしまったのだ。

「恐い?」

 俺の表情の変化に気づいたのだろう。彼女はクスクス笑いながらそう尋ねた。

「こわ、い。恐い」

 止めてくれるかもしれないという望みをもって必死で答える。しかしそれは結局望みで終わってしまう。

「恐いならしっかり見ていなさい」

「つっ……」

 親指、中指、薬指と、次々と爪が剥がされてゆく。目を逸らすことさえ許されない。指先が溶けるように熱い。ビリビリと、痺れが襲う。

 両手の爪がなくなると、彼女は腕を組んで俺を見下ろした。

「さて、次はどうしようかしら」

 もう、やめてくれ。殺すなら、早く殺してくれ。こんなことになるなら、絞首刑の方がよかったのに。

「そうね。VC567JB、あなたはどうして欲しい?」

「早く……、死な、せて」

 ギロリと、彼女の眼光が鋭くなる。そして、手が振り上げられる。ダンッと音を立てて、指先のむき出しになった肉に彼女の長い爪が突き刺さった。あまりの激痛に、声も出ない。

「早く? これは、あなたが犯した罪への罰なのよ。苦しまずに逝けるとでも思った?」

 スッと彼女が腰からナイフを取り出した。室内の薄暗い光を集め、キラリと反射する。

 彼女はそれを振り上げると、一息に俺の胸元を突いた。耳をつんざく断末魔のような叫び声は、俺の喉から出たものだった。骨が折れる音を聞いた。そして、何かが破裂した。ゆっくり抜かれたナイフからは血が滴り、頬にぽたりと落ちる。

 痛い。痛い。苦しい。痛い。息ができない。苦しい……。

 なのに、意識が飛ばない。彼女は、ワザと急所を外したのだ。

 息を吸っても吸っても、空気は肺に溜まらずに抜けていく。物凄く痛いのに、具体的にどこが痛いのかわからない。だんだん、痛いのか苦しいのか、それさえもわからなくなってきた。

 このまま死んでしまえばいい。胸元から流れ出る血は、止まる気配がない。あとは時間の問題だ。普遍的な死の恐怖は未だにある。けれど、その恐怖は目の前で微笑んでいる女には及ばない。

「目玉は二つも要らないと思わない?」

 小首を傾げながらそう問いかける彼女に、人の心はないのだろうか。血に汚れた彼女の指先が、俺の左目の目蓋を捉える。躊躇いのない動作でその指は目蓋の内側に入り込んだ。

 もはや、叫ぶこともできなかった。一瞬視界が途切れ、すぐに平面的な映像が映しだされる。

 眼球に纏わりつく神経を引きちぎると、彼女はそれを見せつけるように俺の残された右目の前に掲げた。

 目玉が、俺を睨んでいる。見覚えがあった。あの男の目だ。あの男……俺が殺した男だ。首を絞められ、顔を歪め、「許さない、許さない」とその目で俺を睨んでいた。

 やめてくれ。もう、頼むから。こんなはずじゃなかったのに。こんなことになるために、今まで生き長らえてきたんじゃないんだ。

 こちらに向けられた虹彩が歪みだした。麻痺してきたのか、痛みも徐々に引いていく。視界が暗くなる。

 名前を呼ばれた。VCから始まる囚人ナンバーではない。俺の、本当の名前だ。薄れていく意識の中で、その声は俺をどこかへ導こうとしていた。それは、俺がまだ幼いときに亡くなった、母の声だった。



 VC567JBは、事切れたようだ。肺に穴を開けるのが早すぎたかもしれない。あっというまに死んでしまい、物足りなさを覚える。

 私がこの仕事を初めてから五年が経った。囚人の息の根さえ止めれば、あとは何をしてもいい。これが、わたしの役目だ。

 VC567JBの遺体をダストシュートに放り込み、床に散った血液をぬぐい取る。マットには、また新しい血が染み込んだ。次にここで血を流すのは、どんな人だろうか。

 彼らは、犯罪を犯してやってくる。そんな彼らに刑罰を与えるのが私の使命だ。しかし、必要以上に痛めつけてしまう私は、それでいいのだろうか。

 精神の安定が保証されないため、二度と許可なしでは外に出ることはできない。それでも、私は自分でこの仕事をすると決めたのだ。外の世界に未練などない。私の居場所はここだから。ここにしかないから。

 綺麗になった床を眺め、息をつく。これでいいのだ。これが私の生きる道なのだ。

 廊下に出ると、生きた人間の気配が急に強くなる。さあ、今日の仕事はまだ終わっていない。

この作品は、数年前にある方からお題をいただいて書いたものです。このようなジャンルを書くのは初めてで、おそらく今後も二度と書かないと思います。ですので、新しい挑戦の機会を得たという意味では、お題をくれた方には感謝しております。

最後に、後書きまで読んでくださった方々、ありがとうございました。


梨本みさ

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