第壱話 犬鳴舞
さよなら、平穏
春うらら、
思わず眠りこけてしまいそうな日差しが艶やかな少女の黒髪に注ぐ。
ふぁ~っとあくびをしながらひらひら落ちる桜の花びらを箒でかきあつめる。
少女の名前は犬鳴 舞 。ここ、犬鳴神社の巫女である。
今年の春に中学を卒業したばかりの十六歳で、あと数日で近くの女子神隠高校に入学する。
「いい天気だなあ…」
ザッザッと箒を掃きながらまどろむ己を必死に起こす。
「ひゃあ!」
突如ぶわぁっと突風が吹き、せっかく集めた花びらがバラバラとあちこちに散らばってゆく。
「あーあ…」
せっかく集めたのに。堪えきれないため息をこぼしながらまた箒を掃こうとした。
「舞ちゃ~ん!」
本殿の横にある小さな鳥居の連なりから、潤む笛のような声が舞を呼んだ。
出てきたのは叔母の奏恵。舞の母、唱恵の姉にあたる。緩くまいたふわふわの黒髪とロングスカートをふわふわと風に遊ばせながらこちらへ来る。
「お掃除ご苦労さま。太夫様がお呼びだから、戌の間へ行って」
「うん、わかった。」
倉庫に箒を片付け、小さな鳥居へ向かうと、舞の姿は水に溶けるように消えた。
一度の瞬きの隙に舞を包む景色は姿を変えた。
神社の外から、日本の大庭園のような場所へ。
日本家屋の長く続く廊下を進む。縁側を照らす日は先程いた場所と同じく暖かい。
しかし青い空には鳥か、はたまたトカゲか、言葉に表すには難しい物がのびのび飛び交っている
庭園の至る所には小さな小人のような角の生えた者達がじっと座っている。
そう、ここは普通の世界ではなく、高天原と呼ばれる、神と神に許された者たちの住む神聖領域である。
舞はある一室の前で歩みを止めた。
「太夫、舞です。」
「ああ、入れ」
中から艶のある声が答えた。
「失礼します」
襖をそっと開けると、大広間の上座に座る一人の女性がいた。
幾重にも気重ねた赤い着物。煙たつ赤色の煙管。立兵庫に結われた黒髪。濃い赤色の瞳に、薄く形の良い唇には紅。背後から伸びる大きく豊かな尾。耳の生えている所には人の耳の代わりに獣の耳が生えている。
太夫と呼ばれたこの女の名は大戌太夫。犬鳴一族、そして犬鳴神社に祀られる神である。
「そこに座れ」
「はい」
下座に敷かれた座布団に座ると、大戌太夫は蒸していた煙管からそっと口を離した。
「どうだ。術の進捗は。」
「えっと…まずまず…です。」
おずおずと答える舞の様子に、大戌太夫はふぅとため息を漏らす。
神には、神に仕える者がそれぞれ就くという決まりがある。
それらは巫女や神職、信者とはまた別に、神をより近くでお守りする立場の者がいる。
その者達は陰陽の術を用いて神を脅かす妖を滅するが故、陰陽姫と呼ばれている。
舞の一家も例外ではなく。代々親族内で選ばれた者が大戌太夫に仕えている。が、先代の陰陽姫、舞の母が不幸により亡くなってからは、長らくその席は空席となっていた。
理由は、三つ。一つはほぼ全ての親族が亡くなってしまったこと。
二つは舞の叔母、奏恵には陰陽の才が全くないこと。
そして三つは、肝心の当主舞に、陰陽の才が雀の涙ほどしかないことだった。
「やはり動きを鈍らせるのが限界か?」
「はい…根気よく攻撃すればあるいは…」
集中的に攻撃すれば小さな妖であれば退治もできるが、陰陽姫となると1度に多くの妖を相手にすることもある。
そうなれば小さな攻撃ばかりちまちま繰り返していては即座にお陀仏だ。
「すみません…私が不甲斐ないばっかりに…」
「いや、気に病むな。陰陽の器量は生まれた頃より個々に定まっている。御前にもわっちにもどうにも出来ん。」
大戌太夫はふぅ、とまたため息を零す。これはまた太夫会議でどやされるなと思いながら。
微量でも舞に陰陽姫の認定が降りれば良いのだが、そうもいかない。
陰陽姫の認定には試験があり、五分で五十匹の大型妖を自身の式とともに倒さねばならない。
今の舞では一分で小型二匹がやっとである上、式もいない。
「また何か進展があれば知らせてくれ。掃除中にすまなかった。」
「はい…失礼しました」
とぼとぼと部屋を出ようとする舞の背中に「おい」と声が掛かる。
「間違っても、気に病むなよ。御前の努力は充分知っている」
「……はい」
舞はそのまま戌の間を後にした。
「気に病むな。か」
プレッシャーを与えている自分に言う資格はないなと、大戌太夫は本日三度目のため息をついた。
****************
舞に母の記憶は殆どない。
陰陽姫の仕事で忙しく各地を飛び回っていた母は、ほぼ家に帰ることは無かった。
ただ、全く無い訳では無い。暇が出来た日には一緒にいたし、遊園地にも一緒に行った。写真にも、よく舞と母が並んで写っている。舞が五歳の頃、妖退治に出かけ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
対して、父の記憶は全くない。何故なら父は自分が生まれるより前に死んでしまったそうだ。母と式を挙げる一週間前に交通事故を起こしてしまった。即死だったそうだ。
そのうちに親族もぽつりぽつりと消息を断ち、気づけばもう奏恵と舞しかいなくなってしまった。
大戌太夫はいつも頭を悩ませていた。
優秀な陰陽姫の宝庫と呼ばれたこの犬鳴家が、今やたったの二名に減り、おまけに当主がこんなぽんこつでは名声などあったものでは無い。
強くなりたい、舞はその思いをただ胸に修行を繰り返したが、もう舞のレベルでできる陰陽術は全てやり尽くしてしまっていた。
ただ今は、その不甲斐なさに目を背け続ける他なかった。
カチッと一際大きな音で分針が動き、目覚まし時計が朝を告げた。
ん~…ともにゃもにゃ言いながらけたたましく鳴る目覚ましをとめ、上半身を起こし壁にかかったカレンダーを見つめた。
斜線が引かれた昨日の日付の横に赤丸が目立つ。
ああ、そっか。入学式だ。
寝巻きから、カレンダーの横にかけられた高校の制服に着替え、鏡台にそっとすわる。
なんだか、そわそわしてちゃっかり色んな表情や姿勢をとって遊んでしまった。
目覚ましが止まっても起きてこないのを心配した奏恵にこっそり見られてしまった。
どうして襖には鍵がないのだろうか。
朝食の焼き魚を箸で解しながら、ふと食事がもう一つ手付かずで置いてあるのが気にかかった。
「叔母さん、太夫は?」
「ああ、太夫様朝から散歩に行っちゃったのよ。嫌ねぇ、朝ごはん冷めちゃうわ。」
太夫は1日三回欠かさず散歩に行かなければ気が済まないらしく、これをどんなに仕事が溜まっていてもする。
流石は大戌太夫と言ったところか。
新品のローファーを履き、つま先で軽く地面を蹴る。
忘れ物はないか「ハンカチ、ティッシュ…」とぼやきながら上から手で確認していく。
「舞ちゃ~ん!待って待って」
パタパタとかけてくる叔母の手には御守りが握られていた。
「はいこれ、駅ついたら車多いから気をつけてね。」
「もー、子供じゃないんだから大丈夫だよ。」
「子供でしょ!それに、神社の宣伝もしてもらわないと」
ああ、なるほど犬鳴神社の御守りだ。
叔母はこういう所に抜け目がない。
「じゃあ、いってきまーす!」
「行ってらっしゃ~い!」
玄関から出ると、神社の後ろにある雑木林に出た。
これじゃあ友達できても家に呼べないな、なんて考えながら最寄り駅へ小走りで向かった。
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「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。我が女子神隠高等学校は創立者…」
厚化粧にふくよかな体型の女性の校長先生の長い長い学校の歴史を眠気に耐えながら聞き続ける。
そんなに内容があるならいっそ文面で出してくれないかななんて思いながら目だけできょろきょろっと辺りを見る。
女子高だから少ないと思っていたが結構いるようだ。入学説明会の時は気づかなかった。
教師陣も九割が女性といったところか。ここまでガチガチに女子で固めるとは。
ふと一人の女性教師が目に止まる。虚ろな目にやつれた顔で、化粧で誤魔化しているが目の下にはくまが出来ている。そして何より、肩に見え隠れする黒いもや。恐らくは、妖の類いだろうと勘づいていた。
妖の多くは、人の心や言葉から生まれる。例えそれが生まれは一人の人間だろうと、思いが強ければ強いほど、宿主がもし死んでもその妖だけで生きてゆける。
そしてまた新たな宿主に寄生し、むくむくとその力をつけてゆくのだ。
あの教師の肩にいるのは、恐らくまだ妖になりきれない生成りと言ったところか。
しかし生成りだけであんなにも生気を蝕まれるものか。はたまた生成りの状態でもそれほど力があるのか。
どちらにせよ、このままではあの教師の命はそう長くない。
あのくらいであれば、舞でも倒せる。
しかしこの距離では到底届かない。
長々と続く校長の話にそわそわしながら早く終われと願うばかりだった。
入学式も終わり、教室の席についた。生徒は元々仲のいい友達や、同じ中学から来たと思われる生徒同士でぽつぽつと話ながら教師の到着を待つ。
舞はというと、人見知りが祟り、一人すみっこの席でぽつんと置物と化していた。
昔からどうもこういう場で出遅れてしまう傾向が強い。おかげで中学でも固定の友達等一人もいなかった。
さすがに高校でもこのままでいる訳には行かない。
話さなければと行動に移そうとするも結局そわそわしてすっと席に戻ってしまった。
「はい、皆さん席に着いてください」
教室のドアが開き、何とも聞き取りずらい小さな声が場を沈めた。
教壇に上がり、自分の名前を書いていたのは、あの取り憑かれた教師だった。
「前田瑠美と言います…これから一年皆さんよろしくお願いします…」
よろしくされる気はあるのか聞きたいほど気力のない声。よっぽど生気を蝕まれているのだと舞は感じていた。
HRは順調に進み、自己紹介の番が回ってきた。
教壇に上がり、皆の方を向き、自己紹介を始める。
「羽衣中学校卒、犬鳴舞です。」
つらつらと自己紹介を話しながら、教卓から上手く隠れるように指先で呪を結び続ける。
横であの生成りがもがき苦しむのがわかる。
最後に「皆さん、よろしくお願いします。」の言葉と同時に留めを刺すと、生成りは砂が舞うように宙に消えた。
舞は少しの達成感とともに浮き足立ちながら席に戻っていった。
ただ、担任の瞳に生気が戻らない事には気づかないままであった。
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新入生は上級の学年よりも早く下校時間となった。
時間はちょうど昼である。
学校から駅までは確かに交通量が多く、暗くなると危なそうだな。小さめのライトでも買っておこうか。と思いながら舞は駅のホームに立ち電車を待っていた。
暇つぶしに当たっているスマートフォンには、叔母が「学校どうだった~??」なんて呑気なメッセージを送ってきていた。
さてどう返したものか。流石に「友達出来なさそうです。今年もぼっちです」とは送れないなあとうんうん唸る。
すると、駅のスピーカーから、間もなく電車が参りますと案内が流れ始めた。
スマートフォンをポケットにしまい、少し下がっていようと、後ろへ足を引いた瞬間
背中に違和感を感じた。まるで何かに、誰かにぶつかったような…
クンッと身体が動かされる。
縺れた足もそのままに、舞の体は立て直す術も持たず、吸い込まれるように線路へと飛び出していく。
けたたましい電車のクラクションが舞を威嚇する。
倒れゆく刹那、舞は自分を突き飛ばした。犯人を見た。
自分を突き飛ばしたのは、あろう事か生成りから助けてやったあの女教師であった。
女の顔はもはや人の顔ではなかった。口は弧を描き、目は見開いている。
女は笑いながら己の体も線路上へと投げ出した。
舞は、(ああ、生成りだったのはあのもやじゃなくて、先生本人もだったのか。失敗しちゃった)と心のなかで呟いた。
その次の瞬間、冷たい金属の感触と、血肉が潰れ、骨が砕ける感触が一塊になった衝撃が舞を襲った。
真っ赤に染まる視界、耳に聞こえる人々の悲鳴、舞は瞼の重さに耐えきれず目を閉じた。
そこには、母と自分がいた。見覚えのあるカラフルなベンチに二人で座っている。
隣に座る自分は随分と幼い。三歳ほどだろうか。幸せそうにわたあめにかぶりついている。
母はそんな自分の頭を優しく撫でながら微笑んでいる。
これはもしや走馬灯と言うやつか。
私は何も出来ずに死んでしまうのか。
そんな考えが浮かんだが、それは水に投げられた石のように静かに沈んで行った。
走馬灯は巡る、母の葬式。小学校の入学式。叔母や太夫と過ごした日々をぐるぐると。
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「…ん…」
目を開けると、白い天井と目が合った。
どうなったんだっけ。私なんでここに居るんだっけ。そもそもここどこだっけ。
まだ脳味噌まで目覚めてないらしい。考えがぼやぼやと浮かんでは消える。
部屋のドアが開く音が聞こえ、入ってきたのは叔母の奏恵だった。
カゴいっぱいの果物を抱え、心ここに在らずの表情でこちらへ向かってくる。
「おば…さん…?」
掠れた声で呼びかけると、奏恵は一度こちらをちらりと見た後に、今度は勢いよく振り返った。
手に持っていた果物が床に転がる。
「ま…ま…舞ちゃん!!」
奏恵は舞に駆け寄り、抱きしめた。
「あぁ…ああ、良かった……目覚めてくれてほんとに良かった…!舞ちゃん、事故にあったのよ。電車に轢かれたのよ…」
わかる?と言いながら頬を優しく撫でる。
だいぶ意識がはっきりしてくると、ああ、確かそうだったなと体のあちこちの痛みと共に思い出した。
奏恵によれば、あの女教師は即死であり、自分も一週間生死の境をさまよったそうだ。
意外なことに、目覚めてから三日ほどで退院となった。
一週間死にかけだったとは思えない回復だったようで、医者も開いた口が塞がらないようだった。
家に帰ると早速大戌太夫に呼ばれ、戌の間へ足を運ぶ。
あー、怒られちゃうなと思いながら、間の下座へ座る。
「散々な目にあったな。もう体は良いのか。」
「はい。もうだいぶ。」
「何があった」
「担任の先生が生成り蝕まれていたので目につく生成りのみを滅したんですが手遅れだったみたいで、逆上されて自殺に巻き込まれてしまいました」
「成程な。まあ生成りと人との区別は特別付きにくい。仕方あるまい」
「はい…」
「…本当に大丈夫か」
「大丈夫ですよ。思ったより後遺症もありませんし」
そうか、と安堵の声が帰ってきた。
てっきり帰るや否や怒鳴られると思っていたので少し拍子抜けである。
太夫は少し迷った素振りをみせ、口を開く。
「先日、御前が事故にあった日、御上殿が消息を絶たれた。」
御上、それは太夫神達を纏めるこの国の最高神であり、正式には大御神と呼ばれる。
「敵襲を受け、未だ本殿には戻られていないそうだ。御上の安否確認の玉座の水晶に異常が無いことから、何処で身を潜めていらっしゃるという見解がなされた。
わっち等はこの事態を非常事態と捉え、至急太夫衆の連携強化の為、陰陽姫を従えていない太夫神も、無理矢理従えなければならんと言う事になった。
あんな事故に巻き込まれ、まだ日も経ってない上、御前にこんな頼みをしたくはない。が、最早これしか打つ手がないのだ。」
大戌太夫の強い眼差しが舞を見据える。
「舞、御前は一ヶ月後、陰陽姫認定試験を受けることになった。」