静なる杏の誘惑
貴女の視線の先には、いつだってあの人がいる。
「おっはよー静っ」
「おはよう、杏菜ちゃん」
朝、いつも私に遅れて登校してくる杏菜ちゃんは、まっすぐに私の席にやってきて挨拶をしてくれる。窓際にある私の席から杏菜ちゃんを見上げると、杏菜ちゃんの顔はいつも、朝日に煌めいている。
「ねえねえ、校門の前に貴ちゃんいたんだけど!」
「うん。生活指導週間だからかな」
「おはよ貴ちゃん、って抱き着いたらね、ちょっと困った顔して挨拶返してくれたの。本当可愛かったあ!」
杏菜ちゃんは私の肩を揺すりながらそう言って、とても可愛らしい笑顔を見せた。それから私を立ち上がらせて、窓の外を覗き込むように指示をする。三階の窓から校庭を見下ろすと、人が小さな粒のように思えた。校門から、続々と生徒が流れ込んでくる。
「ほらほらあそこっ、貴ちゃん」
「え、どこ?」
「あそこだって! 見えないの静?」
「あ、本当だ。よく見えたね」
「当たり前だよ! だって愛しの貴ちゃんだもんねぇ」
瞳にとろんと甘い気色を抱かせて、杏菜ちゃんは一途に「貴ちゃん」だけを見つめている。そんな杏菜ちゃんを見るたびに、私の胸には嫌な痛みが広がっていく。
貴ちゃん――伊藤貴仁先生は、みんなにそう呼ばれている。二十六歳と若くてノリも容姿も良い伊藤先生は、男女問わず生徒に人気だ。今年はこのクラス、つまり私と杏菜ちゃんのいるクラスの担任も務めている。
「静! 今日も放課後化学室行くよねっ?」
「うん。杏菜ちゃんが行くなら」
そして杏菜ちゃんは、先生に恋をしている。かっこいいから先生に淡い憧れを抱く女の子は多いけれど、杏菜ちゃんは本気だった。卒業式で告白するんだと、三年生になったばかりの日に杏菜ちゃんは息巻いていた。入学式で一目惚れしたと言う杏菜ちゃんは他のどんな男の子にも目を向けたりしないで、一途だった。
「やったあ! 静大好きっ」
そう言って杏菜ちゃんが私を抱き締めるごとに、私の心臓は大きく跳ねる。でも杏菜ちゃんの触れ合いは友情の域を出ないと分かっているから、苦しくもなる。
先生を眺めながら笑顔を見せる杏菜ちゃんの隣で、私は誰にも言えない想いを仕舞い込んでいる。杏菜ちゃんの隣に居続けるためには、そうするしかないから。
朝のチャイムが鳴ると、バラバラに話し込んでいたクラスのみんなも自分の席へと着いていった。伊藤先生がにこやかに教室に入ってきて、教壇に立つ。先生の話を聞きながら視線を斜め前の方に持っていくと、そこにいる杏菜ちゃんが目を輝かせているのが見えた。
「如月、今日日直だったよな。ちょっと手伝ってくれるか?」
ホームルームが終わって、先生に声をかけられた。ちらりと杏菜ちゃんを見遣ると、羨ましい、と言いたげな表情をして頰を膨らませていた。私は苦笑してみせる。
「今日も来るのか?」
「あ、はい。……すみません」
「ははっ、何で謝るんだ? 受験生らしく勉強熱心で、先生は嬉しいぞ」
職員室へ向かって先生の隣を歩いた。大きな笑顔の先生は、杏菜ちゃんのそれと同じくらい目に眩しかった。でも先生を見ていると、劣等感が加速する。
勝てないって、そう思わされるから。
かっこよくて優しくて、生徒思いで授業も分かりやすい。教師歴の長さは良い先生の条件に必須ではないんだって、伊藤先生を見ているとそう思う。
「しっかし、胡桃沢の勉強の方はどうだ?」
「え?」
胡桃沢は、杏菜ちゃんの名字だ。
「いや、毎日来てくれる割に成績が伸びてないように感じてな。俺の教え方に問題があるんだろうが……うーん、でも他の教科もいまいちだしなあ」
毎日、隙を見計らっては声をかけてくる杏菜ちゃんに対して、最近の先生は軽く流したりあしらったりする技を覚えたようだった。それでもやっぱり先生は、杏菜ちゃんを心配していることに変わりないらしい。
「って、如月に言っても仕方ないよな。すまない」
「気にしないで下さい。でも胡桃沢さんは本当に頑張っていますよ。最近は先生のところへ行った後でも、必ず公民館の自習室でギリギリまで勉強してるんです」
静と同じ大学に行きたい、と杏菜ちゃんはそう言ってくれている。私はそれを、とても嬉しく思う。
「そうか。胡桃沢は如月と同じ学校へ行くんだもんな。でもまだまだ足りんぞって、放課後気合を入れ直してやろう」
「あはは。先生の仰ることならどんなことだって聞きますよ、胡桃沢さんは」
いつでもどんなことに対しても前向きで頑張り屋な杏菜ちゃんは、凄く素敵だ。私にないひたむきさを杏菜ちゃんは持っている。
職員室に到着すると、先生から必要な書類や日誌を受け取った。先生のデスクは電車をモチーフにした小物やフィギュアに溢れている。杏菜ちゃんはそれを見るといつも、この鉄道オタクめと言って先生をからかうのだった。
「如月。お前には申し訳ないが、胡桃沢のことではお前を頼りにしているんだ」
先生は苦笑しながら言った。それがなんだか、私こそ杏菜ちゃんを一番に理解する存在なのだと、そう証明する言葉に聞こえてしまう。体の奥がじわりと温かくなって、私は胸の前で託された書類と日誌を抱き締めた。
「……はい」
私は、杏菜ちゃんのためならどんなことだってする。それが例え、杏菜ちゃんの恋路を手助けすることだったとしても。
一限は体育だった。コートの半分を使って、女子はバレーをする。仕切りのネットの向こうでは男子が楽しそうにバスケをしていた。
「ねえ静、貴ちゃんと何の話したのー」
ペアでトスの練習をする時間、私と杏菜ちゃんは体育館の端でサボっていた。他のみんなはほとんど男子のバスケに夢中で、バレーをやっている子は少ない。
「別に大したことじゃないよ」
「えー! てか最近貴ちゃんと静って仲良くない!?」
「ふふ。それは杏菜ちゃんのおかげでしょ?」
壁に凭れかかってむくれた杏菜ちゃんに、私は笑って言った。杏菜ちゃんは先生の情報を得ようとする時、たまに私に、聞いてくれとお願いする。恋愛とか、突っ込んだプライベートの話とか、そういう話題が主だ。先生に尋ねるのは恥ずかしいけれど、杏菜ちゃんが遠くからちらちらと聞き耳を立てているのが可愛くて、私はつい頰が緩んでしまう。
「うー、そうだけどお」
「ねえ杏菜ちゃん。私と先生が普段どんなことを話してるか、知ってる?」
「え、なになにっ」
「ほとんど杏菜ちゃんのこと」
杏菜ちゃんはハッと私を見上げて、ぱあっと笑顔を咲かせた。
「静大好きー! 本当に大好きっ」
「……うん。私もだよ、杏菜ちゃん」
私に腕を絡める杏菜ちゃんの頭を、恐々と撫でた。
声、震えていなかったらいいのに。ちょっとした綻びから動揺を悟られてしまうんじゃないかって、怖くて仕方ない。
ねえ。私も、杏菜ちゃんが大好きだよ。杏菜ちゃんとは少し違う意味で、でも杏菜ちゃん以上に、杏菜ちゃんのことが大好きだから。
「でも良いなあ静は。あたしも静みたいに背が高くてスタイル良くなりたーい!」
「そ、そんなことないよ。それに杏菜ちゃんはそのままで充分可愛いから」
背が低くて天然パーマで、ふわふわしてて。でも正義感が強くて皆に好かれる。私が何一つ持てないものを杏菜ちゃんは持っていて、そんなところに、憧れる。
「そうかな? でも貴ちゃん言ってたもん、大人っぽい子が好きだって」
「そんなの、好きになったら関係ないよ。だから杏菜ちゃんが、先生にそんなこと気にさせないくらい夢中にさせてあげればいいんだよ」
好みとか常識とか、そんなもの分からなくなるくらい時に恋心は暴走する。私の恋心は暴走の果てに、性別ですらも越えてしまった。
「……そうだね。うん、静の言う通りだ。ありがとう静!」
「どういたしまして」
「よーし、トスの練習しよっか!」
そう言って杏菜ちゃんが腕捲りをすると、白くて細い腕が露わになった。私は急いで目を逸らして、息を飲んだ。私にとって、それはあまりにも刺激が強すぎた。
「静っ、いっくよー!」
杏菜ちゃんのトスが弧を描いて私の元に届く。私はそれを受け取って、送り返した。それは確かに、杏菜ちゃんの元へ届いていた。
杏菜ちゃんと出会ったのは一年生の時、初めての体育の授業でだった。私は入学直後の友達作りに失敗して、クラスで孤立していた。ウジウジと暗かった私は、そのうちクラスで一番大きな女子グループに目を付けられるようになってしまった。はっきりいじめとは言い辛い微妙な、だけど悲しい嫌がらせをされていた。初めての体育の時も、私はペア作りが出来なくて端にいて、そんな私を皆がクスクス笑っている気がした。
でもそこに来てくれたのが、杏菜ちゃんだった。
「やる人いないの? あたしもあぶれちゃったから、一緒にやろうよ!」
杏菜ちゃんはそう笑って、私の手を取ってくれた。その瞬間に重い荷物が全部背中から消えて、パッと視界の先が晴れる感覚がした。その時の私にとって杏菜ちゃんは、女神に近い存在だった。
杏菜ちゃんとは当時クラスが違っていた。でも体育だけは合同クラス授業で、隣のクラスの杏菜ちゃんとも会えた。杏菜ちゃんは体育の度に私に声をかけてくれた。勿論杏菜ちゃんに友達がいなかったわけじゃなくて、むしろ沢山いた。いつだって杏菜ちゃんは友達に囲まれていた。それでもわざわざ私を気にかけてくれる、その優しさに申し訳なさを感じて、でもそれ以上に嬉しかった。体育の時間が、学校で唯一楽しいと思える一時だった。
杏菜ちゃんと笑い合えるようになっていくと、それは私の強さに変わった。嫌がらせに対して何の反応も示さなくなった私をつまらなく思ったのか、しばらくすると嫌がらせもなくなった。
二年生で同じクラスになれた時は舞い上がった。私は、杏菜ちゃんといつも一緒にいた。そのうち、杏菜ちゃんは今まで誰にも言えなかったらしい伊藤先生への想いを打ち明けてくれた。
私にだけ。それは凄く、特別な響きだった。その夜は心臓がどきどきして胸が苦しくて、一晩中眠れなかったことをよく覚えている。
「あー疲れた。トス練きついよーう」
「そうだね、私も凄く疲れた」
「あははっ、同じだね」
いつからだろう。杏菜ちゃんの笑顔を見ると、切なくなるようになってしまったのは。胸がきゅっと締めつけられて、でもそれは苦しくも甘美な痛み。
二年生になってからしばらく経った頃、私はあることに気が付いた。それは、杏菜ちゃんが他の子と話していると胸が張り裂けそうになる、というものだった。相手が男の子でも女の子でも、私以外の人なら等しく、切ない痛みを感じた。その痛みの意味が分からなかった私は、戸惑っていた。
私に真相を教えたのは、伊藤先生だった。
「貴ちゃーん!」
杏菜ちゃんがそう呼びながら先生に駆け寄るのは、それまで幾度とあったことだった。でもある時から、そんな見慣れたはずの光景に直面しただけで、上手く息が出来なくなっていった。杏菜ちゃんの最高の笑顔を独り占めする先生を、遠くから睨んでいる自分がいた。恨みがましく思う自分がいた。そんな自分が嫌いだった。杏菜ちゃんの好きな人を受け入れられない自分が、大嫌いだった。
しばらくして自分の気持ちの正体に気付いた。狼狽えた。だって相手は女の子で、しかも一番の友達だ。私の汚れた気持ちは、そんな杏菜ちゃんのことを裏切っている気がした。簡単に認めるわけにはいかなかった。何度も何度も否定して打ち消して、でも駄目だった。私は、認めるしかなかった。
この気持ちは、恋なのだと。
「あ、そういえば静。六組の田中くんに告白されたんだって?」
「……どうして、知ってるの?」
「みんな噂してるよう」
田中くんは二年生の時同じクラスだった男の子だ。明るくて部活も頑張っていて、こんな私にも優しくしてくれる凄く良い子。皆に人気のある子だから、告白された時は驚いた。
「静モテるのに告白みーんな断っちゃうし。美人なのにさ、勿体ないよ!」
「そんなこと、ないよ。それにモテるのは杏菜ちゃんもでしょ」
「えー、静の方がモテるし! それにあたしには貴ちゃんがいるからあ」
ぽっと紅くした頬に手を当て、杏菜ちゃんは嬉しそうに言った。胸に走るきりきりとした締めつけには、いつだって見ないふりをする。
「あー分かったっ。静にも好きな男の子がいるんでしょ!?」
杏菜ちゃんにぐいっと迫られて、心臓が跳ね上がった。
好きな、男の子。
「ねえねえ、誰々!? 教えてっ!」
「い、いないよ。好きな男の子なんて」
「そんなあ。じゃあなんで誰とも付き合わないの?」
杏菜ちゃんは唇を尖らせながら、肩を落としていた。私は、バレーボールを抱く腕に力を込めた。
杏菜ちゃんにとっては、やっぱり、男の子じゃないと駄目なのかな。
「……好きな子は、いるよ」
「え!? なに、どっちなの!?」
「いないけど、いるの」
「もう静っ、意地悪しないでよお!」
「あはは。ごめんごめん」
私の好きな子は、杏菜ちゃんだよ。私は杏菜ちゃんが好きだよ。
でも杏菜ちゃんはそんなこと、知らない方がいい。だって、気持ち悪いでしょう?
「でもあたしと静、どっちが先に彼氏出来るかな?」
「うーん。きっと、杏菜ちゃんだよ」
「え? どうしてどうしてっ?」
「杏菜ちゃんは可愛いから、卒業式の告白もきっと成功するよ。私はきっと、彼氏なんて作らないもの。だから、先生と幸せになる杏菜ちゃんが先」
私がそう言うと、杏菜ちゃんはその表情全体で喜びを表現した。それから、私を押し倒す勢いでぎゅっと抱き着いた。
「静ありがとー!」
「あ、杏菜ちゃん」
「あたしねっ、絶対貴ちゃんの彼女になってみせるから! 静にたっくさん協力してもらった分、ちゃんと頑張るからね!」
杏菜ちゃんはいつだって全力で前向きだから。私は、何も言えなくなる。
「……うん。頑張ってね」
そうやって優しい言葉をかけることしか、私には出来ない。本心だけど、本心じゃない。そんな曖昧すぎる言葉を、杏菜ちゃんにかける。
ごめんね、杏菜ちゃん。私も早く、杏菜ちゃんを忘れるように頑張るから。ごめんね。どうか私の想いには、気が付かないでいて。
「むー。ねえ貴ちゃん、分かんないよこんなのー」
「だからそこは、教科書のここを読めって言ってるだろ」
「読んでも意味不明だから言ってんの! ねえ貴ちゃん!」
放課後、私と杏菜ちゃんは伊藤先生の城である化学室を訪れていた。化学室の奥にある小さな勉強スペースは、すっかり私たちのための場所と化している。白衣を着た先生は、思いきり甘える杏菜ちゃんに困っている様子だった。
「はあ。まったく、胡桃沢は。少しは如月を見習え」
「そ、そんな。私は……」
「だって静は元から頭良いもんっ。あたしと比べちゃ駄目ー!」
「あーはいはい。分かった分かった。分かったから放せ」
肩を揺さぶる杏菜ちゃんを、先生は呆れ顔で引き離す。自然に、何の気もなさそうに杏菜ちゃんに触れられる先生は、凄いと思う。私は杏菜ちゃんの顔が近付くだけでも、頬の火照りを悟られてしまわないか怖くなるのに。
「如月と同じ大学に行くんだろ。今の成績じゃ全然駄目だぞ」
「うー。分かってるもん。でも絶対静と同じ大学に行くの!」
そう言ってまた真面目にシャーペンを取る杏菜ちゃんの横顔に、つい見とれてしまった。
大学でも私と一緒にいたいと考えてくれているのだと思うと、この上なく嬉しい。勘違いしてしまいたくなる自分を抑え込む。杏菜ちゃんは友達として好いてくれているだけで、変な意味はないのだから。
「おーい如月。お前もぼうっとしてないでちゃんとやれよ」
コツンと、私の頭の上に先生の拳が落ちる。すみません、と早口で言ってノートを睨んだ。
「静ずるーい! 貴ちゃん、あたしにもコツンってやってコツンて」
「はいはい、ふざけるなって」
先生が杏菜ちゃんにそう言った時、化学室のドアが開いて一人の男子生徒が入ってきた。先生は其方の方へ行って、勉強を教え出す。杏菜ちゃんはその光景を眺めて不満そうに頬杖をついた。
「あーあ。貴ちゃん行っちゃったあ」
「すぐ戻ってくるよ。それまで頑張ろう?」
「んー」
杏菜ちゃんはシャーペンを置いてしまった。そのまま、ただじっと先生を見つめている。
先生は、どんな時だって杏菜ちゃんの視線を独り占めする。私は、そんな杏菜ちゃんを盗み見ることしか出来ない。杏菜ちゃんの熱っぽい視線が私に向けられることは、永遠にない。先生が、羨ましいよ。
私がもし男の子だったら、何か変わっていたのかな。杏菜ちゃんと一緒にいられることが出来たのかな。少なくとも今よりはずっと、心の負担は軽かったはず。
私、どうして男の子じゃないんだろう。
「ごめん静、あたしジュース買ってくる!」
「え?」
杏菜ちゃんは突然立ち上がって鞄を漁り出した。ピンク色の長財布を取り出すと、ドア口の方へ行ってしまう。
「貴ちゃんっ。ちょっとジュース買ってくるねー!」
「えっ、あ、おい待て! 胡桃沢!」
先生の静止も聞かず、杏菜ちゃんは風のように出ていってしまった。しばらくして男子生徒が帰ると、先生が私の方へ戻ってくる。私の正面まで椅子を持ってきて座ると、溜息を吐いていた。
「はあ。本当に胡桃沢は嵐のようだな」
「あはは。でも大人しくしていられないところとか、私は好きです」
「元気があるのは結構だが、胡桃沢の場合ありすぎだよな」
「先生も大変ですよね」
「おおっ、如月分かってくれるか? まあ如月は、俺よりずっと長い時間胡桃沢と接してるんだもんなあ。凄いよ、本当に」
先生はそう言いながら杏菜ちゃんのノートを覗き込んでいた。ほとんど進んでいないことを知ると、また溜息を吐き出していた。
あんな風に杏菜ちゃんに好意を向けられているのにこんな態度を取る先生を、少し、ほんの少しだけ憎らしく思う。杏菜ちゃんが先生に寄せる好意の僅かでも私に寄せられたなら、私はそれだけで天にも昇るほど嬉しく思うのに。
そんなこと、ありえないけれど。
「……なんか、如月と二人だけだと途端に静かになるよなあ」
「そう、ですね」
先生と二人きりになるのは、あまり好きじゃない。先生の視線は時々鋭くなるから、まるで私の奥底の感情まで見透かされている気がする。
私はシャーペンを強く握って、教科書とノートと交互に目を動かした。なるべく先生の方は見ないようにした。それでも、先生の視線を感じる。
「如月はさ、頑張ってるよな」
「……え?」
なんの脈絡もない話題に、私はふと顔を上げた。頰杖をついている先生と、しっかり目が合ってしまう。すぐに逸らすのは不自然だと思って、仕方なくそのまま先生を見ていた。
「いや。アルバイトしてお母さんを助けて、塾にも行かず自習だけでずっと好成績を保っているんだからな」
「そんな、改めて言われるようなことじゃないですよ」
「そうかな。俺は凄いと思うけど」
私の家は母子家庭で、お母さんは女手一つで私を育ててくれた。少しでも家計の足しになれたらと思って、私は高校生になってからずっとお弁当屋さんでアルバイトをしている。ちなみに先生はそこの常連さんで、たまにアルバイトを終えた私を家まで送ってくれたりする。
塾や家庭教師にかけるお金なんて私の家にはないし、でもそれを言い訳にしたくなくてひたすら勉強に取り組んできた。がむしゃらにやり続けてもうそれが当たり前なこととなったから、凄いと言われても反応には困ってしまう。
でも、どうして先生は、急にそんなことを言い出したんだろう。
「なあ如月。悩むことがあったら、いつでも相談してくれよ」
先生は真剣な表情でそう言った。一担任として、先生は私を気遣っていてくれた。
先生の優しさを垣間見る。先生の魅力を見せつけられるたび、この人には敵わないって思い知らされる。それが、辛い。
「……そう、ですね。最近杏菜ちゃん、数学の成績が下がってて」
「そうじゃない。俺は如月自身のことを聞きたいんだ」
私の話を遮った先生は、真っ直ぐな眼差しで私を貫いていた。
「如月と話していても、いつも胡桃沢のことばかりになってしまうだろ。如月本人の話を全然聞けてなかったって気付いたんだ。だから、如月のことをきちんと教えてほしい」
杏菜ちゃんのこと以外での、私の悩み事。頭を捻ったけど少しも思い付かない。俯いて黙っていた私に、先生は続けた。
「ないなら、俺から一言いいか?」
「は、はい」
「如月は少し無理をしすぎているように思う。俺が偉そうに言えることじゃないけど、ちゃんと休んだ方が良い」
目の隈も酷いぞ、と先生が言った。慌てて、目元を押さえる。
先生、よく見て下さっているんだな。やっぱり先生は、良い先生だ。悔しいほど。
「それにな、如月はちょっと……胡桃沢を気にかけすぎてるぞ」
途端、先程までの温かな心地が、急速に冷めていく感覚がした。
この人は、何を言い出すのだろう。
「如月はいつも自分より胡桃沢を優先するじゃないか。大事な時期だし、自分を犠牲しすぎるのは褒められたものじゃない」
「そ、んな……」
「胡桃沢にももう少し自立させないといけないしな。これからは、胡桃沢より自分のことを考えてくれ。胡桃沢のサポートは俺が責任を持ってやるから」
どうして。どうして先生は、私から杏菜ちゃんを奪おうとするの。もう杏菜ちゃんの心を掴んでいるくせに、それでも足りないと言うの。私は、邪魔者なの?
杏菜ちゃんは私の大切な人。杏菜ちゃんがいなかったら、私は今こうしてここにいない。学校なんてとっくにやめている。杏菜ちゃんがいてくれたから、私は沢山の喜びを感じられた。そんな人のことを自分より優先するのは、当然でしょう? どうして、どうしていけないの。
杏菜ちゃんを想うのは、いけないことなの?
「胡桃沢が如月の人生の全てではないんだ。如月は如月のことをちゃんと考えてくれ」
この人、何も分かってない。
杏菜ちゃんは私に微笑みかけてくれた。そばにいてくれた。いつだって元気をくれた。杏菜ちゃんは、私の人生を明るく照らしてくれたの。杏菜ちゃんは、私の光なの。
そんなことも何も知らないくせに、分かったようなこと言わないで。正論じみたことを言われても、私には何の力にもならない。杏菜ちゃんのために何もかもを捧げて、尽くして、杏菜ちゃんのために生きるの。そうしたいの。杏菜ちゃんのためだって思えて初めて、力が湧いてくるの。
私の邪魔だけは、しないで。
「いいか如月? これからは」
「……嫌です」
足元を睨みつけながら、膝の上の拳を震わせた。私の態度の変化に気付いたのか、先生は私の肩に手を置いた。
「き、如月?」
「やめて下さいっ!」
私はその手を、反射的に振り払った。そして立ち上がって、呆然とする先生を見下ろした。
「せ、先生に、私の何が分かるって言うんですかっ……?」
「如月……」
「何も知らないくせに勝手なこと言わないで下さい! わ、私は……私はっ」
いつの間にか、私の頰を涙が伝っていた。ごしごしと拭っても次々溢れて止まらない。
私は、杏菜ちゃんが好き。友達なんて範疇には決して収まらないくらい、好きで好きで、どうしようもないくらい好きで。それなのに、こんなに好きなのに、どうして。どうして、ただの友達としてそばにいることも許してくれないの?
ずっと杏菜ちゃんの隣にいたい。杏菜ちゃんの一番になりたい。先生なら簡単に得られるその権利を、どうして私は得られないの。私が女だから? ねえ、どうして。
先生は、ずるいよ。私、先生になりたかった。
「ごめんなさいっ……」
私はそのまま、化学室を飛び出した。振り返れないまま息が上がるまで廊下を走り続けて、限界が来ると歩いた。それすら疲れると、私は立ち止まった。廊下の端で壁に寄りかかる。涙は一向に止まる気配がなかった。
私、最低だ。先生に八つ当たりなんかして、きっと先生だって嫌な気持ちになったに違いない。どうして私は、こう不甲斐ないんだろう。
杏菜ちゃんはいつも明るくて真っ直ぐで、でも私は暗くて歪んでる。想いを伝える勇気すらなくて、ただこの汚れた感情をいつまでも育て続けている。例えばいつかこの気持ちが爆発したら。きっと杏菜ちゃんを深く傷付けて、二度と杏菜ちゃんのそばにはいられなくなる。
じゃあ、どうすればいいの。私はこの想いを、どうすればいいの?
杏菜ちゃんは私の全てだから。私が学校に来る意味であり、生きる意味ですらあるのだから。膨れ切ってしまった感情を簡単に萎ませるなんて、絶対に出来ないことなの。
私はいつまでも何も伝えられない意気地なしで、そのくせ先生には醜い嫉妬を積み重ねて、本当に、最低な人間なんだよ。
ごめんね、杏菜ちゃん。
私どうしても、杏菜ちゃんが好きなの。
「静!?」
その時、杏菜ちゃんの声が響いた。ハッと顔を上げると少し離れた位置に、ジュースを三本持った杏菜ちゃんが立っていた。慌てて手の甲で涙を拭う。
「静どうしたの!? 大丈夫?」
「ごめっ、ごめんっ……」
杏菜ちゃんは持っていたジュースのペットボトルをその場に落として、私に駆け寄ってきてくれた。涙が止まらない私の目尻に手を伸ばして、拭ってくれようとする。背が小さいのに、精一杯に手を伸ばして。杏菜ちゃんの温もりに触れると、益々涙が溢れた。
「貴ちゃんに何かされたの!?」
「え……?」
「静をいじめるなら貴ちゃんでも許さない! あたしも一緒に行くから、文句言いに行こ!」
杏菜ちゃんは勇ましい顔と声色でそう言うと、私の手を引いた。
杏菜ちゃんは私のためなら、先生に怒ってすらくれるんだ。自分の恋心を制御して、私なんかのために。それなのに私はただ自分の感情ばかりを優先して、子供も良いところだよ。
「あ、杏菜ちゃん。違うの、先生のせいじゃないよ」
「え?」
「目にゴミが入っちゃって、水道で洗ってこようと思っただけなの。だから、大丈夫」
杏菜ちゃんは立ち止まって、私の手を離した。私は何とか笑顔を作って杏菜ちゃんに向けた。杏菜ちゃんはきょとんとしていた。
「本当に?」
「うん。本当だよ」
杏菜ちゃんの頭にそっと手の平を乗せた。緊張で強張る体になんとか鞭打って、柔らかく撫でる。そうすると、杏菜ちゃんは満面の笑みを見せた。
「そっか。じゃあ洗ったら化学室に戻ろっ」
「……うん」
先生の顔を見るのは気まずい。でも杏菜ちゃんの前では、何もなかったように自然に振舞っていたい。
それから顔を洗って、化学室へ帰った。部屋に入った時先生と目が合って、私は思わず背けてしまった。
「貴ちゃーん! ただいまっ!」
「お、おう」
「貴ちゃん見て見て! 貴ちゃんと静の分のジュースも買ってきたんだよ。偉いでしょ!」
杏菜ちゃんが先生と話している間に、私は元いた椅子に座った。先生の目線が私に送られているのに気付いているけれど、知らないふりをする。
ごめんなさい、先生。杏菜ちゃんのいるところでは嫌な姿も情けない姿も、何も見せたくないんです。我儘でごめんなさい。こんな私で、ごめんなさい。
「ねえ貴ちゃん、聞いてる?」
「あ、ああ。聞いてる聞いてる。で、それは勿論胡桃沢の奢りだよな」
「え、なに言ってんの。貴ちゃんの奢りに決まってるじゃん! えーと、三人分で三百六十円ね」
「嘘吐くな。学校の自販機なんだから三百円だろ。まったく……ほら、三百円」
「貴ちゃんのケチ! でも好きー!」
私は、手の中の消しゴムを強く握りしめた。
杏菜ちゃんは、良いな。あんな風に何度も、思い留まることなく自分の気持ちを伝えられるのだから。私には、絶対に出来ないことだね。
だからせめて先生、杏菜ちゃんの気持ちに応えてあげてほしいんです。杏菜ちゃんは凄く良い子だって、先生もよく知っているでしょう?
「はーいこれ、静のジュース! 静の好きな林檎だよ」
「ん、ありがとう」
「さ、勉強しなきゃ。貴ちゃんマンツーマン指導よろしく!」
「はいはい。さっさと始めるぞ」
それから、杏菜ちゃんと先生はずっと二人でいた。つい聞き耳を立ててしまう自分を振り払い続け、二人の脇で教科書を進めていた。
「じゃあね、貴ちゃん!」
「おう、また明日」
完全下校時刻が迫ると、私と杏菜ちゃんは揃って化学室を出た。夏休み目前の今の時期、下校時刻になってもなお外はまだ明るい。
「んー! 今日も公民館行かなきゃなあ。静も行くよね?」
「うん。今日は数学やらなくちゃ」
「数学かあ。うう、聞いただけで寒気」
「ふふ。私も得意じゃないから、一緒に頑張ろう?」
「えー! 得意じゃないなんて嘘だよっ。だって静、いつも八十点以上取ってるじゃん。あたしなんていっつも赤点なのにい」
「それは範囲が狭いからだよ。一年生とか二年生の内容なんて忘れてるところ多いし」
「それじゃ狭い範囲で赤点のあたしはどうなるの!」
「ま、まあまあ。……あれ?」
何気なくポケットを押さえると、あるはずのハンカチがそこになかった。顔を洗った時に使った覚えがあるから、置いてきたのだとしたら化学室しかない。
「どうしたの静?」
「ハンカチを化学室に置いてきちゃったみたいで。ごめん、すぐに取ってくるね」
「あ、あたしが行こっか?」
また先生に会う口実になると思ったのか、杏菜ちゃんが瞳を輝かせる。
あんな風に怒鳴った後で先生のところへ戻るのは気が重い。でも杏菜ちゃんに任せたら、先生と杏菜ちゃんを二人きりにしてしまう。
「ううん、平気。すぐ戻ってくるから」
「むー、そっか。じゃ、待ってるね!」
「うん。ありがとう」
私は来た道を駆け戻った。ノックをして深呼吸してから、化学室のドアを開けた。
「き、如月?」
先生は目をまん丸にして、心底驚いたように私を見た。私は視線を泳がせて、先生を直視しないようにした。
「す、すみません。ハンカチを忘れてしまったみたいで」
「そ、そうか」
私のハンカチは、奥の机に置き去りにされていた。私はそれを畳んでポケットに仕舞うと、化学室を出ようとした。
「如月」
それを引き止めたのは、先生だった。ドア口で振り返ると、先生は申し訳なさそうな表情をして立っていた。微かな夕日が窓から入り込んで、先生を照らしている。
「さっきは、ごめんな。如月の気持ち考えないまま、無神経なことを言ってしまって」
「え……?」
「如月を怒らせてしまうなんて思わなくて……本当に、ごめん」
どうして、先生が謝るんだろう。悪いのは、何もかも私なのに。
やっぱり、先生を憎むなんて出来ない。憎らしくは思っても、完全に憎むなんて無理だよ。杏菜ちゃんと同じくらい、先生は優しくて私を見守ってくれるから。
だからこそ、勝てないって思い知らされるの。
「そんな。私こそ突然怒鳴って飛び出したりして、すみませんでした。先生は私を思いやって言ってくれたのに、私、それに気付けなくて」
「如月……」
「本当、駄目ですよね、私」
杏菜ちゃんのことになると、自分の言動を理性でコントロール出来なくなる。まるで、情緒不安定になるみたいに。こんなことを繰り返していたら、周りの人たちみんなを傷付けてしまうのに。杏菜ちゃんのことさえ、傷付けてしまうかもしれないのに。
「悩みがあるとか、そういうのじゃないんです。でももし悩み事が出来たら、ちゃんと先生に話しますね。一番に、先生に」
私はどうにか微笑んでみせて、先生を安心させようとした。先生は穏やかに笑って、ふっと私に寄った。
「ああ。そうしてくれ」
先生の大きくてがっしりとした手が、私の髪を撫でた。予想外の行為に、私の体が固くなる。先生がふわふわと動くたび、先生の香りが鼻をくすぐった。
「……せ、先生。こういうことは杏菜ちゃ……胡桃沢さんにやってあげて下さい。きっと、喜びますから」
恐る恐る、先生の腕を握って私からどけた。先生を放した瞬間、今度は私の手首が先生に捕まってしまった。
「俺は誰にでもこんなことするわけじゃない」
先生の真剣な眼差しに射抜かれて、思考が止まる。息をすることすら忘れてしまう。
「せ、先生……?」
なんとか声を絞り出すと、先生はハッと私の手首を解放してくれた。先生の顔に浮かんだ悲しげな苦笑いが、私に刺さった。
「如月は頑張ってるからな。特別だ」
「そ、そんな。頑張ってなんて。私はただ、やるべきことをやっているだけで」
「それで良いんだ。如月は、それで良い」
先生の表情はすぐに変化して、いつもの明るい笑みを私を見せた。私は先生の態度に少し、戸惑った。
「じゃあな如月。気を付けて帰れよ」
「は、はい。さようなら」
「ああ。さようなら」
静かに、化学室を出てドアを閉めた。
先生、どうしたんだろう。あんな悲しそうな先生の顔は、見たことがなかった。何か辛いこととか嫌なこととか、あったのかな。
考えても仕方ない。本当のことなんて分かるわけないもの。私は首を振って、杏菜ちゃんの元へと走った。
「ごめんね杏菜ちゃん。おまたせっ」
「ううん、全然待ってないよ。さ、行こ!」
杏菜ちゃんの笑顔に触れれば、途端に気持ちが晴れる。私も杏菜ちゃんに笑いかけて、並んで玄関を目指した。
「あー! でも貴ちゃんほんっとつれないよねえ」
「ふふ、そうかも。でも杏菜ちゃんだからこそ、かもしれないよ」
「え、どういうこと?」
「仲が良い杏菜ちゃんにだからこそ、先生もあんな態度が取れるんだよってこと」
本当はこんなこと、言いたくない。私といる時に先生のことを想わないでほしい。けれど、どんな形であれ、それがどんなことであれ、杏菜ちゃんに希望を与える存在は私でありたい。
私の希望が、杏菜ちゃんであるように。
「そ、そうかな。あたしが仲良いから? 特別だからっ?」
「うん。そうだよ、特別だからだよ」
杏菜ちゃんは、私の特別だよ。
先生のことではしゃぐ杏菜ちゃんに、そんなこと言えるわけがないよね。
「そっか! じゃあじゃあ、夏休みにデートとか誘ってみたりして!?」
「え?」
「あれ、駄目?」
デート。先生と杏菜ちゃんが、二人で会うということ?
嫌だ。やめて。そんなことしないで。
咄嗟に口走りそうになる本音を、飲み込んだ。杏菜ちゃんを困らせるなんてしたくない。
「ううん、いいと思うよ。でも遊びに行くとかじゃ断られちゃうだろうから、勉強に関わることがいいかも」
「やっぱりそっかあ。でも考えてみるね。ありがと静っ」
胸が痛くて、苦しい。杏菜ちゃんの無邪気な笑顔は、時に私にとって凶器になる。
でも、それでも好きなの。杏菜ちゃんへの気持ちを捨てるなんて、どうしたって出来なくて。
だから、ごめんね。少しだけ我儘言っちゃうけど、許してほしいの。
「ねえ、杏菜ちゃん。夏休みは先生もいいけど、私とも会ってね」
「え?」
「だって、長い間杏菜ちゃんに会えないのは寂しいもの」
夏休みは、私にとって楽しいものじゃない。杏菜ちゃんといることが出来ないなんてそんなの、私にとっては拷問のようなもの。
「静ー!」
「わっ」
杏菜ちゃんはその両腕を私の左腕に絡めて引っ張った。勢いで私の体が傾く。
「あったりまえだよ! 静には毎日会いに行くよっ。迷惑がられても毎日行っちゃうもーん!」
「そんな。迷惑なんて思うわけないよ」
「うん。だから、毎日会いたい! 一緒に勉強して、同じ大学に行くんだもんっ」
杏菜ちゃんはあくまで友達として私を慕ってくれているんだって、分かってる。それでも杏菜ちゃんの言葉は、とても大きな力を孕んでいた。
好きだよ杏菜ちゃん。大好きだよ。ずっと、叶うなら永遠に、一緒にいたい。
でもそれは出来ないことだから。今だけ、今だけは、杏菜ちゃんの隣に。
「さあさあ、公民館行かなきゃだよ」
「うん。早く行こっか」
杏菜ちゃんの腕は、杏菜ちゃんの感覚は、私から離れなかった。私に寄り添う杏菜ちゃんの髪の毛が、私の腕をこすってくすぐったい。
触れたら想いが溢れてしまいそうで。でも杏菜ちゃんから触れてくれるなら、私は。
「……好き」
杏菜ちゃんに聞こえないほどの小さな声で、そう呟いてみた。
「んー、静何か言った?」
「ううん、なんにも」
貴女の視線の先にいるのが例え私でなかったとしても。こうして貴女の隣にいられるのなら、私はそれで良い。
私はそれで、幸せだから。
先生、静のことが好きだったり。