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文学小論

谷崎潤一郎「鮫人」で描かれる二十世紀初頭の浅草

作者: 金子圭亮

 明治維新以降、日本は国策として欧米文化の導入に傾注し、その流れの中で欧米で生まれ発展した数々の新しい娯楽文化も日本へと持ち込まれることになった。そして、そうした外来の文化と日本在来の文化とが混淆し、帝都として著しい発展を続けていた東京の内に幾種もの新しい街並みを生み出すこととなったのだが、その断片が、谷崎潤一郎の未完の作品「鮫人」の中で描かれている。「鮫人」の舞台となるのは浅草。時は大正、世界が第一次世界大戦の混乱に苦しめられていた時代の話である。主人公の服部は二十七才の青年で、芸術の道を志しつつも、仕事はなく、ひとり松葉町にある自宅で呆けているだけの人間である。彼には家族もこれといった財産もなく、かといって都会育ちの彼は田舎へ移る気分にもなれず、友人知人からの借金で生活を賄っているという有様で、極度の不精からか、彼は浅草の中だけで生活のすべてを完結し、浅草外へはなかなか踏み出そうとはしないくらいである。こうして、作品内では、主人公服部を中心軸として、当時の浅草の光景が語られていくのであるが、以下の文章は作者である谷崎による当時の浅草評とみなしてよいであろう部分を本文より抜き出したものである。


『彼は都会人であるから、東京の醜悪が厭になっても田舎へ引っ込む気にはなれなかった。そこでつまり、其の醜悪が最も露骨に現れて居る方面――公園の近所に巣を造った。此れは一見甚だしい矛盾のようであるが、世間には斯う云う例が案外多いのである。現にあの公園に依って衣食して居る俳優や、芝居ごろつきや、堕落文士や、その外何とも名のつけようのない浮浪者や醜業婦の群のうちには、いろいろの意味で服部に似た心境を経てから、始めて彼処へ流れ着いた者が決して少くはないだろうと云うこと、――此れは誰にも想像し易いことであって、また事実も其の通りに違いなかった。怠け者で、金がなくて、意志が薄弱で、それでやはり贅沢な物質慾から自分を救い出すことが出来ない人々、そう云う人々がだんだんと社会の壓迫に追い詰められ、不平の餘り世を茶化したり拗ねたりする料簡になり、やけ糞半分から安価な享楽に溺れる為めに集って来る土地としては、浅草ほど究寛の場所はないのであるから。まことに浅草へ行きさえすれば、此の都会にある総べての享楽機関は大概其処に備わって居るのである。但し、その最も醜悪な形に於いて! ――だが、どうせ此の東京では何処にも「美」を求めることは出来ないのだから、醜悪が醜悪そのまゝの姿で現れて居る浅草が、一番住み心地のいゝ場所だとも云えないことはないであろう。其処には下町の中心地や山の手にあるような虚偽や不調和がなく、醜悪がやゝともすると「美」に近い光を放って輝いて居る。その輝きはあの程度ではまだ甚だ不十分ではあるけれども、公園へ落ち込んで行った哀れな享楽主義の人々には、(そうして服部には勿論の事、)それがせめてもの慰籍であり得る場合もあるにちがいない。だから彼の人々のうちには、昔のそれよりはもっと複雑な性格を持つ紙衣姿の伊左衛門や紀文大盡も居るであろうし、拗ねた挙句に悟り澄ましたような仙人も居るであろうし、飽く迄も世間を罵って已まない不平分子も居るであろう。』(鮫人より引用)


 谷崎は以上のように、東京の「醜悪が最も露骨に現れて居る方面」として浅草を挙げ、さらには「醜悪が醜悪そのまゝの姿で現れて居る」からこそ住み心地がよく、「美」に近い光を放っているとまで評している。これは一体どういうことなのだろうか。その問いに答える前に、まず当時の浅草について説明する。明治の時代に入って以降、政府は浅草を公園化するとともに、浅草全体を七つの区に分割した。時代を遡ること江戸時代、浅草の猿若町は芝居街として栄えていた。やがて芝居街としては衰退したが、明治時代に入ってからも浅草の観光地としての魅力は衰えることはなく、観光客を相手とした見世物を主とする娯楽産業が栄えていた。その中でも浅草六区は、政府の産業分野ごとの集中を目的とした区画整理によって、それまで五区にあった娯楽産業すべてが移転され、その結果、六区は浅草の中でも娯楽街として特化することになった。物語の背景となっている十年代の東京は欧州大戦を要因とする特需景気に沸いており、生活にゆとりのできた中流以下の東京人の間にも、娯楽を求める向きが強くなっていた。そして、その需要に応えたのが浅草六区を中心とする浅草公園の娯楽街であり、老若男女多種多様な東京人が、細やかな楽しみを求めて浅草へと足を延ばしたのである。


 では、どうして当時の東京人は浅草の娯楽街を選好したのだろうか。当然、浅草以外にも人々に娯楽を提供する場所は東京内にも東京外にもいくらでもあったはずである。浅草と他の娯楽街との相違点とはいかなるものであったか。その理由として谷崎は「三つの理由」を挙げている。まず「第一の理由」として上で既に述べたようにその客層があらゆる年齢、性別、階級を網羅している点が、そして「第二の理由」としてそこで提供されうる娯楽の多種多様な点が挙げられている。上記の引用中に述べられているように、そこで消費される娯楽は安価で大衆的なものがほとんどであって、高尚で高価な伝統的娯楽文化と縁の希薄な庶民を惹きつけていた。その内容がいかようかよりも、手軽さと廉価さとが重要であり、それが幅広い客層の支持へと繋がったのである。また、それと同時に珍奇な舶来の娯楽も多数存在したために、その物珍しさという点も、高い集人効果を発揮した。質さえ問わなければなんでもあるという多様性もまた当時の浅草の備えていた長所のひとつだったのである。そこには日本在来の芝居、演劇だけではなく、欧米から伝わった西洋式の演劇や、活動写真、サーカス、水族館といった新しい型の見世物も同時に存在していた。「浅草オペラ」と称された和洋両要素の混淆した独自の演劇文化も成長し、そのための劇場も雨後の筍のごとく建ち並んでいった。殊に風変わりな洋風建築の立ち並ぶ浅草六区は、東京の中でも、ひときわ異国情緒溢れる不思議な街へと変貌しており、当時の東京の人々はそこで束の間の非日常的世界を愉しむことができたわけである。


 最後のそして最も重要な「第三の理由」であるが、恣意的に切り貼り要約はせず、かなり長くなってしまうが、本文より一部省略しつつ引用させてもらうことにした。それが以下の文章である。


『第三は斯くの如く無数なる客の階級と娯楽の種類とが、常に其処にあるだけの豊富さを保ちつゝ而も性質と内容とを刻々に変化させ、増大させ、互に入り乱れて交錯し融和し合って居る点で。――つまり浅草公園が外の娯楽場と著しく違って居る所は、単に其の容れ物が大きいばかりでなく、容れ物の中にある何十何百種の要素が絶えず激しく流動し醗酵しつゝあると云う特徴に存する。若し浅草に何等か偉大なるものがあるとすれば此の特徴より外にない。云うまでもなく社会全体はいつも流動する。いつもぐつぐつと煮え立って居る。けれども浅草ほど其の流動の激しい一廓はない。それは緩慢な流れの中に一つの圏を描いて居る或る特別な渦巻である。そうして其の渦巻は年々に輸をひろげ、波紋を繁くし、周囲に漂うて来る物を手当り次第に呑み込んで育って行く。流れの中にある物で一度は其処へ巻き込まれないものはないと云ってもいゝのである。だが、たった今巻き込まれた物がいつ何処へ行ってしまったのか? 依然として其処に渦巻はあるが巻き込まれた物はもう見えない! 正に浅草は其の通りである。われわれが覚えてから二十年来あの公園にはさまざまな物があった。仰山な物や馬鹿げた物や奇怪な物やふざけた物や其の外枚挙し切れない物が、嘗て一度は其処にあった。それらは今、何処へ行ってしまったろう? [……]通り過ぎたものは総べて幻影だったのであるか? ――実際中には幻影よりも果敢なく消えてしまったものが多いのである。[……]斯くの如く此の公園の流転は激しい。そうして茲に見逃してならぬ事は、それらの流転しつゝある物を一つ一つ仔細に検べると、孰れも此れも殆ど悉く俗悪な物、粗雑な物、低級な物、野卑な物であるに拘わらず、たゞ其等が目にも留まらぬ速さを以て盛んに流転するが故に、公園それ自身の空気は混濁の裏に清新を孕み、頽廃の底から活気を吹き、乱雑の中に統一を作り、悲哀の奥に歓楽を醸し、不思議にも常に若々しく溶々たる大河のように押し進んで行くのである。其処へもたまには優れた物や美しい物や立派な物が落ち込むこともないではない。が、落ち込むと同時に、それらの立派さや美しきや優越さは大地に滲み込む水の如くに跡形もなく吸い取られてしまう。誰も其処では自分独りを威張ることが出来ない。[……]皆公園の一要素たるに過ぎない。――そうして此れは見物人の場合にも云えるのである。見物人も等しく公園の要素であって興行物と共に流動し廻転する。彼等の間には趣味の高下もなく階級の差別もない。[……]。なお此の公園の特色に就いて今一言附け加えて置きたい、――「斯くの如き公園を斯くの如き状態に任せて置く事は何か社会の為めになるか?」「其処の空気の流動しつつは進歩しつつか退歩しつつか?」――と云う問題である。ところで此の問題に明確な答を与え得る者は誰もないであろう。それが社会の為めになるかならないか、その流動が進歩であるか退歩であるか、誰もハッキリと知って居る者はないであろう。けれども茲に間違いなく云える事が一つある。即ち、盛んに流動しつゝある物に退歩は有り得ない、流動は流動それ自身のうちに進歩を生む。われわれはそう思って唯あの溌剌たる有様を眺めて居ればいゝ。若し執拗く「為めになるかならないか。」と問い質す者があったら、「そんな事は我れ我れは知らない、しかし、あの流動する姿を見よ!」と、そう答えるまでゞある。其の答に満足しない者は公園を去って、市内の他の一流の娯楽機関へ走るがいゝ。其処には昔ながらの文明の遺物が、[……]時とすると其の容れ物だけを新しく装ってどんよりと沈澱して居る。其処には流動もなく混合もなく醗酵もない。徒らに上品ぶった、金のかゝった、発育の止った、乾涸らびた見せ物とお客とがあるのみである。一方には公園のあらゆる物、一方には市内一流の劇場、俳優、藝者、料理屋、――此のニつの孰方に将来の日本の文明は味方するだろうか? 或は孰方にも味方しないかも知れない。だが若し孰方かに味方するとすれば、それは云う迄もなく前者にであろう。其処には何か新しい文明の下地となるべき盲目な蠢動がある。盲目ではあるが、蠢動ではあるが、それを軽蔑する者は民衆を軽蔑するのである。』(鮫人より引用)


 上の文章を読むことで、なぜ谷崎が「醜悪が醜悪そのまゝの姿で現れて居る」浅草の住み心地がよく、「美」に近い光を放っているとまで評したのが理解できるであろう。高尚で完成された伝統芸能が老人的であるならば、低質で未完成な大衆娯楽文化は低質で未完成であるがゆえに、成長、発展する可能性を秘めており、そうした不確定的因子が、青年的美の源泉になっていたのである。つねに何かしら新しいものが流れ込み、つねに何かしら変化が起こっているその場所は、進取的気風の持ち主であれば誰であれ、居心地が悪いはずがない。そして、その何かしらの質の高低はいかがかという問題を俎上に載せる必要性はないのである。


 二十一世紀を生きるわれわれは以上のような谷崎による浅草評から何を学ぶことができるであろうか。現在の浅草もまた著名な観光地としての立場を依然として維持しているものの、「鮫人」の舞台である大正期の浅草が持っていたであろう青さは既にそこにはない。では、それはどこへ行ってしまったというのだろうか。


 この百年の間、東京は二度壊滅した。一度目は関東大震災であり、特に浅草を含む下町は大きな被害を受け、浅草のシンボルであり、「浅草十二階」の名で親しまれた凌雲閣も倒壊した。二度目は太平洋戦争であり、震災からの復興を果たした東京は空襲によってまたしても灰塵と化すこととなってしまった。戦後、ふたたび東京は復興を果たすが、当然それは明治、大正の頃とは異なる新しい東京であって、再建された浅草はかつて持っていた特性を失ってしまっていた。では、それは消滅してしまったのだろうか。いや、そうではない。東京が関東大震災で壊滅したとき、その人口の三分の二が地方の親類を頼って日本各地に疎開していったというが、そうした疎開者たちは東京・浅草の文化を地方へと伝えるのに大きな役割を果たしたにちがいない。現代のように情報の往来が激しくなかった当時ではなおさらであろう。さらに、復興後の東京にふたたび日本各地より移入者がやってくるとともに、新しい街並が生まれることになるが、そのような再建設の過程の中で、かつての浅草精神が東京中に拡散、伝播、浸透することになったとも考えられうる。東京の文化と地方の文化の相互入出とその混淆を通して、十年代の浅草が持っていたのと同様な性質が東京全体に付与されたわけである。さらには、戦後となると、そこに米国文化の流入が加わることとなった。


 東京は地方より人と海外よりは文化とを現代に至るまで貪欲に取り込み続けているが、そのカオス的成長の果てに生み出された街並みをどのように評価することができるだろうか。そこには欧州の都市のごとく整えられた街並みはなく、誰もが好きなように自分の街を作っている。街はありとあらゆるモノと文化で溢れ、つねに躍動している。そうした出鱈目さは、ある人には短所にも見えるだろうし、ある人には長所として映るだろう。そして、それはかつて谷崎が浅草に見出した性質と同じものなのである。百年の星霜を閲し、東京全体がかつての浅草公園と化しつつあるのかもしれない。


 いや、それどころではない。今世紀に入ってから著しく発達した情報技術は、文化の混淆をさらに加速、拡大させることになった。インターネット上に存在するコンテンツおよびそれに関わる人々を思い描いてもらいたい。すると、それらそして彼らの特徴は、谷崎の提示した浅草公園の特徴とぴたりと一致していることに気付いてもらえると思う。試しに前記の引用文にふたたび目を戻し、そして、その文中にある「浅草」「浅草公園」「公園」といった語を「インターネット」に置き換えて読んでみてほしい。驚くほどに違和感を覚えないのではないだろうか。インターネット上に存在するコンテンツは無限と思われるほどに多種多様で、その質はまさに玉石混淆と評することができようが、鮫人時代の浅草同様に、俗悪、粗雑、低級、野卑といった言葉で評価すべきものも非常に多く、ゆえに、批判の対象、規制すべき対象として槍玉に挙げられることは多い。たとえば、「インターネットをそのような状態のままにしておくことは果たして社会の益になるのか?」「何か規制すべきではないのか?」「有害ではないのか?」「社会の進歩に本当に役立っているのか?」等々のような問いが発せられたとき、われわれはどう考えればよいのか。答えは簡単である。われわれは谷崎の「流動は流動それ自身のうちに進歩を生む」という言葉を想起して、「そんな事は我れ我れは知らない、しかし、あの流動する姿を見よ!」と答えてやればいいのである。


 谷崎潤一郎の愛した醜悪なる東京・浅草、われわれはそこに、新しい街並み、新しい文化、新しい空気、新しい価値観、そして新しい世界が生まれるその土壌の一形態を学び取ることができる。そして、それは現代世界においても形質を変えてあり続けている。一見すると醜悪、幼稚、粗雑、低俗、頽廃、混沌と思える世界の中に、新しいモノの萌芽が潜んでいるというその事実をわれわれは忘れてはならない。さもなくば、重大なる新生を見逃してしまうやもしれないのである。

上記の文章は私が学生の頃に書いた小レポートに大幅な加筆修正を加えたものです。本文からの引用文を追加したため、文字数は倍以上に増えてしまいました。「鮫人」に興味を持たれた方はぜひお読みになってみてください。未完の作品ではありますが、当時の東京下町の空気を垣間見ることができるのではないかと思います。

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