過去に乞い願う
のばした音が消えた時、泣かない自分を褒めたくなった。今この場で泣けば注目を浴びる、そう考えた私は何も考えずに下唇を強く噛みながら下に俯いた。肉を強く噛む感覚を生々しく感じながら、私はゆっくりと気持ちを落ち着けた。
とりあえず眼に浮かぶ涙になりかけたモノを、頬に伝わせないようにするのに精一杯だった私は、咄嗟に母に呼ばれた名前に反応できなかった。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
泣きそうなことを悟られぬよう、声が震えないようにしながら返した言葉は、やっぱり少し震えていた。
しかし、母はそんな私には気付かずに、興奮した様子で私に話しかける。
「すごかったね!」
「うん。よかった」
何が、とは言わなかった。いや、言えなかったといった方が正しいかもしれない。これ以上言葉を出せば、いくら今の母でも私の様子に気がつく。そして、母にバレれば必然的にとなりにいる父にもバレる。と、なると絶対に小言の一つや二つ言われるだろう。
それだけは絶対に避けたい。
「やっぱり司会の子は堂々としてて__」
未だ興奮冷めやらぬ母は、その後もずっと先程のステージのことを家族と話をしていた。私は母の言葉に耳を傾けもせず、先程まで後輩達が立っていたステージに目を向けた。
少し前までいた数多い自分の後輩達が、楽しそうにそして最高の歌を歌っていた姿はとても感動した。あの問題児ばかりだった子達が、今や最高学年で最高と言っても差し支えない演奏をしていた。
最初は、純粋に感動していた。それがステージが終わりに近づくにつれて、段々と暗い感情に覆われていくのが自分でもわかった。
__ああ、なんて酷い人間なんだろう。
自分の大切な後輩達のステージが成功して嬉しいのに、何故成功してしまったのかと思ってしまうのだから。
「大丈夫?」
「え、なにが?」
ステージ終了後、家族と別れた私は祖母と叔母、そして一つ上の従姉妹と歩いていた。パーク内は土曜とだけあって非常に人が多い。近くにいなければすぐに迷子になるレベルである。
もともとパーク内の地理に明るくない私は、ある意味このパークを知っている従姉妹についていくことしかできない。
従姉妹、叔母、祖母、私で歩いていたから従姉妹から私の顔は見えない。それなのに、今の私の様子に気づくとは思いもよらなかったのだ。
「泣きそうだったから、さ」
ああ、つくづくこの従姉妹は私のことがよくわかる。普段ならば嬉しいことだが、今は何故気づいたのかと問いただしたくなった。
「感動して泣きそうだったの?」
叔母の言葉を聞いた時、そっちの涙もあったかと私は認識した。そっちの涙なら、あの場で流しても違和感はない。そう言い訳して泣けばよかっただろうか。
自分に問いただしたが、それは否と返ってきた。あの場で流す涙は純粋で綺麗なものしか流せない。それを偽ってまで泣きたいかと言われたら否という答え以外自分の中にはない。
舞台で演技したものに贈られるべきなのは、拍手と賞賛そして感激の涙のみだ。それ以外のものを贈ってはいけない。皮肉なことだか、現役時代のその考えが仇となってしまった。
そして、どこにもやることのできない複雑な気持ちを、少しだけ言葉に表してしまったのは自分のミスだ。
「感動だったらどれだけよかったことか」
そう呟いた後、ハッとした。いくら周囲が騒がしいとはいえ至近距離にいれば完璧聞こえる範囲だ。
これから楽しむというのに、自分の一言でわがままで今の雰囲気を壊したくなかった。
「…なんでもない」
「なんでもなくないでしょ?」
予想以上に強い従姉妹の言葉に泣きたくなった。彼女はわかっている、そう思っただけで自分の感情がおかしくないことを認められた気がしたのだ。彼女もそうだ、自分と同じように他人に喜びを奪われた者だった。
「…ほんとは、こんなこと言っちゃダメだと思うよ」
震える声を隠しもせず、私は吐き捨てるように言った。従姉妹も、叔母も、祖母も。ただ私の言葉を待っている。
言ってはいけない。言えば何もかも止められなくなる。
そう考えても、私は言葉を止められなかった。
「なんで苦労したウチらがあのステージに立てなくて、ウチらの最後の一年を邪魔したあの子らがステージに立てるのさ」
思い出すは全国を目指せる世代と言われたあの夏。顧問からも保護者からも、そしてOGからも期待と重圧を感じた忌まわしいあの夏だ。
自分達の学年の三倍はいる後輩に振り回されていた私は、部長として三年としてなんとかしなきゃならないという気持ちに駆られていた。
去年の部長は、一昨年は、その前は。そんなふうにいわれたくなかった。
しかし、私のその頑張りは裏目に出てしまったのかもしれない。
最後の夏、私達は県大会に進むどころか予選敗退をしてしまった。今まで、先輩達が体験したことのない最悪の出来事だった。
あの時の苦しみは、悔しさは、悲しさは、いつまでも忘れられない。涙を流し、自分を責めたあの日を。
今日、一度目に流しそうになった涙は、納得する演奏ができたときに流した涙に近い。
二度目に流しそうになった涙は、あと0.2で全国に行けなかったあの悔しさに近い。
なら、三度目は?三度目の涙は、憎しみと苦しみ、ドロドロとした汚い感情が混ざった初めて流しそうになった涙だ。
「…強いね、心が」
ふいに従姉妹からそんな言葉がかけられた。そんな綺麗な感情で片付けられるほど簡単なものではない。
「強くなんてないよ。強かったらこんなドロドロな感情抱えない」
「いいや、強いよ。」
それでも従姉妹は強い言葉で言う。まるで私を否定する人を否定するように。
「それに、あたしは知ってる。たとえ一人になってもみんなのために頑張っていたのを、どんなに苦しんでいても前を見続けたことを、決して諦めなかったのを」
(ああ、この子は。こういう時、いつも私が今一番欲しい言葉をくれる)
私はこの感情を隠さなくてもいいと悟った。隠す必要など、最初からなかったのだ。
しかし、涙は流さないことは最初から決めていた。流したらそこで、私は今までやってきた誇りある三年間を、自分で否定することになるのだから。
「…ありがとう」
泣きそうな声で感謝を述べると、従兄妹はいつものようににっこり笑った。
拝啓、合唱部のみなさま。
お元気ですか?みなさんのステージ、最高でした。
思えば、今の最上級生が一年の頃に、この挑戦が始まりました。あの頃は、本当に色々あって苦しかった時代でしたね。
しかし、あなた達はその苦しみを越えてステージに立つことができたのです。途中でリタイアしてしまった私達とは違います。
その経験はきっと生涯の中でも誇れることでしょう。それが、私は誇らしくて仕方がありません。
願わくば。あなたたちのゆく先に、これからも導となる光が射しますように。客席であなたたちを応援しています。
笑顔溢れる、そしてそれぞれが楽しめるステージにしてください。