最終章:堕天使の断罪1
「おい、姉ちゃんよ。
俺と遊ばないかい?」
柳井征は、黒いボディコンを着た妙齢の女性に話しかけた。
かなり身長が低く、ボディラインもハッキリしない。
だが大人びた化粧と顔立ちが、それらを全く感じさせない外見の女性だった。
左手に持った、口紅のついたピアニッシモフランがまた似合う。
身長はやや高めだったが、やや幼い顔立ちの栗山藍とはまた違った魅力があったのだ。
「ねえ」
艶のある声とは、こういう声のことを言うのだろうか。
「最近流行りの合法ドラッグってのがあるって聞いたんだけど?」
ピアニッシモフランの火を消しながら、上目遣いで女性は尋ねた。
「おっ、姉ちゃん、お目が高いな。
こいつのことかな?」
自身がばらまいているクスリの話題になって、柳井征は目の前の女性に俄然親近感が沸いた。
「『ルシファー』ってんだよ。
覚えててくれよ?」
「『ルシファー』……ねえ」
柳井征からクスリの入った小袋を受け取ると、
女性はそれを、まるで年下の可愛い男の子を品定めするかのような目つきで眺めた。
「堕天使ルシファーみたく、
このクスリの快感に堕ちていく――そんな所かしら?」
「お、おう、まあそんなトコだぜ」
柳井征は話についていけなかったが、美人の目の前だということもあり、
適当なことをいってごまかした。
「そうね、私もこのクスリの恩恵にあやかりたいわ」
大人びた目線を見せても、低身長ゆえにどうしても上目遣いに見えてしまう。
それが柳井征を激しく刺激した。
「っしゃ!
それじゃあ、早速……」
小袋を開けようとする柳井征の手は、女性によって止められた。
頭から疑問符を出す柳井征の耳に、女性は顔を近づけた。
「私が欲しいのは、オ・カ・ネ」
「イッテ……クソ、何なんだお前は?」
霊兎寺高校の校舎裏では、マリファナ・パーティーならぬ『ルシファー・パーティー』が開かれている。
その噂を聞いた興津は、事の真偽を確かめるため、現場に赴いた。
そこでは、案の定5名ほどの男女が『ルシファー』を乱用して悦に浸っていた。
男はケンカ慣れした不良が多く、何人か格闘技を経験していると思われる者もいたが、
薬物中毒者など、興津にとっては練習相手にすらならない。
「さあ、もってるクスリ全部出しなさい」
「クソ……腕が折れたみてーだ」
ポケットの中には妙な膨らみがあった。
その形状から携帯電話でないことは明らかだった。
「じゃあ、せっかくだしもう1本も折っちゃう?」
興津の口は笑っていたが、目だけは全く逆の感情だった。
ここでシラをきれば、冗談ではなく本当に腕の骨が折られると恐れた男は、
「クッソ! 全部出しゃいいんだろ!?」とヤケクソ気味に言って、
ポケットの中に隠し持っていたクスリを全て白日のもとに晒した。
興津はライターを取り出し、5名から集めた『ルシファー』を彼らの前で灰にした。
クスリが灰にされていくなか、5名はまるで信仰していた神が目の前で断罪されたかのようにうな垂れた。
興津はこの光景を、ここ数日間で既に3回は見ている。
『ルシファー』という堕天使信仰は終わらせなければいけない。
興津は、そう思わずにはいられなかった。
「そうですか、ありがとうございます」
嶋村は自分の足で校外に出向き、独自に聞き込みを重ねていた。
聞き込みの結果、おぼろけながらも『ルシファー』騒動の全体像が把握できた。
第1に、『ルシファー』は法規制の追い付いていないいわば脱法ドラッグである。
脱法とはいえいつかは法規制の対象にされるので永久に脱法であることはありえない。
しかし現にそれを取り締まる法律がないので、違法ではないとされているのが実情である。
第2に、『ルシファー』をばらまいている連中は暴力団とは関連がない。
柳井征という赤い髪の青年がごろつきを手なずけて、この地域一帯に『ルシファー』をばらまいているに過ぎないらしい。
柳井征の父親・柳井康晴は大手の柳井重工株式会社の代表取締役で、
祖父である柳井茂雄は都議会議員として活躍している。
見かけ上は柳井征は警察から逃げているが、彼が警察から逃げていられるのも、
この2人の重鎮からの圧力がかかっているからではないかと推測することもできる。
暴力団が関わっていないことがわかり内心胸を撫で下ろした嶋村だったが、
依然として安全視はできない。
むしろ暴力団が相手の時よりも厄介なことになるかもしれない。
(どうやって陥れてやろうものか)
嶋村は脳みそを雑巾のように絞った。
政治家が相手では、下手には動けない。
政治的な圧力、そして政治家という名称から漂う荘厳さから、
本来は相手しなくていい存在まで相手しなくてはならなくなる。
「政治家、ね」
嶋村は、同じく『政治家』である鳴瀬川に相談した。
「まあ、私らみたいな人間は評判が生命線なのかね。
悪い評判が立ちこめて投票者からの信頼を失えば、
政治家はご飯食べれなくなっちゃう」
嶋村はもう一度、自身の書いたメモ帳を見る。
柳井茂雄はあまりメディアに出ることはないが、
十数年前から政財界に顔が利く重鎮であり、彼が所属している民自党の次期総裁候補とも言われている。
(何とかしてこの男のボロを出すことができれば……)
年度が替わり、4月になった。
東海林と遊佐はまだ退院できず病院でベッドに横たわる生活が続いていたが、
駒田は4月の初めの頃に退院し、『ミレーヴァ』に復帰した。
しかし復帰するやいなや、『ミレーヴァ』の活動日以外はジョギングやスパーリングなど、ボクシングの練習に勤しんだ。
2年間のブランクを経たのちのジョギングはかなり忍耐を要するものではあったが、
駒田は使命感に駆られていたので、決して手を抜くことは無かった。
「それでは失礼します。
毎度のことですがありがとうございます」
この日も『ミレーヴァ』のヘヴィユーザーである白川舞が去って『ミレーヴァ』が解散になると、
駒田は「ちょっとジョギング行ってくるわ」といってそそくさと帰った。
もっとも格闘技に勤しんでいるのは駒田だけではない。
「そんじゃアタシも道場行ってくるわね。
『ルシファー』の奴らをボコボコにしなくちゃ」
虚空に拳を振りながら興津も教室を足早に去った。
魚住はまだ帰らないかと思いきや、彼女もいつのまにか荷物をまとめていた。
「今日も柳井征の所へ偵察に行ってきますね」
素早く消えていった魚住も、変装をして柳井征の弱みを握ろうと躍起になっている。
嶋村は皆がさっさと教室を出て行くさまをみて寂しさを覚えないではなかったが、
皆がこうして『ルシファー』根絶のために動いてくれてるのかと心が温まる想いも感じた。
(さて、僕も動こうか)
そういって嶋村も荷物をまとめた。
嶋村は一旦家へ戻ったが、またすぐに家を出た。
カネを貯めて買った念願の背広に金色のネクタイ。
黒い縁のダテメガネに茶色のビジネスバッグ。
簡単な変装は魚住に教えてもらった。
もっとも嶋村操という人物は別段有名人でもなんでもないので、
魚住に教わった変装を駆使せずとも、
彼を知らない人からすれば、彼はどこから眺めてもサラリーマンだった。
サラリーマンと化した嶋村は京王線へ乗って新宿まで行った。
受験の年なので本来であれば英単語の1つや2つでも覚えたいところだが、
あいにくそれではせっかくの変装が台無しになってしまう。
そこで、「外国の文学の本、しかも原作を読めば周りを威圧できますよ」という魚住の言葉に従って図書館で適当に借りた、
とある外国の文学の本を読むことにした。
適当とはいっても、実際に読めないようでは不自然に写りかねないばかりか面白くない。
嶋村が選んだのは、昔かじった程度に独学で学んでいたロシア語の本だった。
この言語は日本人にとってはあまり馴染みのないキリル文字で発音も難しいが、
文法自体はそれ程難しくはないので、単語さえ覚えてしまえば、
語尾変化という特定の外国語特有の現象に留意しなければならないとはいえ、ある程度は読むことができた。
十数ページ読み進めたところで、ちょうど電車が新宿駅に到着した。
そこから複数の地下鉄を乗り継ぎ、最終的に芒橋駅で降車した。
芒橋駅には、とある政治家の事務所がある。
この政治家も柳井茂雄と同じく民自党の都議会議員で、党内の次期総裁の座を狙っている。
事務所の外観は、『和泉行雄』と大々的に書かれた次期総裁選のポスターにうもれていた。
「ようこそ」
秘書と思われる女性が事務所に入ってきた嶋村に一礼する。
「先生に御用ですか?」
「ええ。
実は、和泉行雄さんの政敵・柳井茂雄についてのスキャンダルな情報を耳にしたもので……」
「……少々お待ちください」
この時、秘書の顔が引きつったのを嶋村は見逃さなかった。
嶋村の目論見通り、数分すると秘書が駆け足で戻ってきて、「どうぞこちらにおかけください」と言って、
嶋村を事務所内のソファに腰掛けさせた。
秘書に対して嶋村は、情報の提供者(つまり嶋村自身である)の存在を内密にすることを条件に、
柳井茂雄の孫・柳井征の暴虐ぶりを演説した。
薄暗い中、サンドバッグが拳に打たれる鈍い音だけがジムを支配していた。
かつて駒田が通っていたボクシングジムも、今では塾生もまばらになり、
すっかり廃れてしまった。
1発1発を打ちながら、駒田はボクシングに打ち込んだ自身の中学時代を思い出した。
あの頃は、単にケンカが強くなりたいからボクシングをはじめたにすぎない。
実際にジムに通うようになると、サンドバッグ打ちだけでなく地道な筋トレやジョギングなどもあり、
逃げ出したくなったことも多々あった。
しかし、せっかく最初は反対した親を説得してジムに通わせてもらうことになったのだからと、
辛い練習にも必死に耐えた。
地区大会で優勝した時、父親は泣いて喜んでいた。
「よく頑張ったな!」
強くなったな、とも言わず、優勝おめでとう、とも言わずに、
父親が息子にかけた言葉は功労の労いだった。
小学校の頃から勉強にもあまり精を出さず遊び呆けていた駒田にとっては、
努力で何かを勝ち取った経験はこの時が初めてだった。
心身を研磨したことでもなく、結果を残せたことでもなく、
この心身、そして結果に至るまでの過程を、父親は褒めたのだ。
だから駒田は、途轍もなく嬉しい気持ちになった。
だからそれ以降は、これまで以上にボクシングに精を出した。
努力すれば、何かを勝ち取ることができる。
その一心でボクシングに打ち込んできたはずだった。
しかし、ヒザマという男にやられ自信をなくした駒田は、
やがてその拳からグローブを脱ぎ捨てた。
(未熟だったな、あの頃の俺は)
今、駒田の拳には再びグローブがはめられている。
『ミレーヴァ』の仕事として、ルシファーをばらまく連中を叩きのめすのが目的だが、
かつて自身を引退に追い込んだヒザマへの復讐も兼ねていた。
あるいは本当の敵はヒザマではないのかもしれない。
(あん時の俺がいたら、張り倒してやりたいぜ)
サンドバッグを打つ音が重たさを増した。
駒田の足元には駒田の身体から放出された水分が水溜りを作っていた。
早いもので、もうこの話も最終章です。
私が書いてきた小説の中でも屈指の自信作。
どうかもう少しだけ、お付き合いくださいませ。




