第11章:脱法の毒牙1
「えーっ? 諦めちゃったの?」
植野絵梨佳は、久々の登校を友人の霜田澄枝とともにしていた。
植野の受験戦争が終わったのは昨日である。
無事第一志望の合格を勝ち取り、開放感に満ちていた。
受験期に失恋の憂き目を見たとはいえ、
受験からの開放、久々の親友、そして空気中を微かに香る芳醇な花の匂いで、
植野は上機嫌だった。
「だって、悔しいけどあの2人、お似合いなんだもん。
私は、大学でいい人を見つけるよ」
「あーあ、無欲だねえ。本っ当に欲がない!
大学だって、いい人がいるとは限らないよ?」
植野のあまりの潔さに、霜田は首を大きく横に振った。
「でもさ、そういうところが絵梨佳っぽくていいのかもしんないね」
久々との友達の会話は植野にとって楽しいばかりでなく、
ただでさえ塞がりかけた失恋の傷を、更に癒してくれるものでもあった。
しかしその楽しい時間は、突如霧消することになる。
植野は右から、何かが地面に倒れていく音を聞いた。
「え?」
何事かと思って右を見る。
さっきまで右隣を歩いていた霜田の姿が見えない。
少し下を見ると、霜田がうつ伏せになっていた。
「澄枝、どうしたの?
こんななんでもない所で転んで……」
植野が異変を感じたのは、霜田の返答がなかったからだった。
「え? ちょっ、澄枝、大丈夫!?」
仰向けに寝かし、胸に手を当てる。
かすかに呼吸はあるようだ。
素早くケータイ電話を取り出し、119を呼ぶ。「もしもし! すぐ来て!」
電話の向こうからは、「落ち着いてください。場所は? 電柱に何か書いてありますか?」と聞こえる。
「ええっと、霊兎寺3丁目2番地……パン屋が近くにあります!」
「わかりました! 今すぐ向かいます」
植野は、声を発さぬ霜田の手を挟み込む形で両手を組んだ。
それは、救急車が到着するまで、離れることはなかった。
霊兎寺高校のパソコン教室は、この日の放課後はパソコン部が使用していた。
副部長というある種最もおいしいポジションについていた東海林は、
何をするでもなくネットサーフィンをしていた。
少なくとも傍目からはそう見えるように個人のブログを見漁っていた。
『彼氏まぢ大好き(はぁと』といったような取るに足りない内容のものだが、
今の東海林にとっては、画面にどんな文字が映し出されようがどうでもよかった。
無表情で画面内の文字に目を走らせつつも、
その目は時折、ある男子部員の方を向いていた。
パソコン部員の1年生である永澤公孝は、特に目立ったところのない生徒である。
オンラインゲームが趣味とのことだが、今は何かのサイトを閲覧しているようだった。
(オンラインゲームが趣味つったって、いつもやってるわけじゃない。
それよりも、あいつが怪しいのは……)
季節は3月。
特に空調も異常がなく、汗をかくに値する要素は何一つない。
それにも関わらず永澤公孝の顔は、汗まみれだった。
永澤公孝はそのことについて、「最近病弱になって身体がおかしくなった」と吹聴しているが、
東海林はこれを信じていなかった。
正確には、信じられなかった。
『嶋村』
東海林は、今日の休み時間を回想した。
『やっぱりあいつ、クロだったよ』
『そうか』
嶋村は表情を変えずに答えた。
『俺は動揺を隠せねえ。
まさかとは思ってたが、こんな身近な所で、そんなことする奴が出てくるとはな』
『東海林』
相変わらずの無表情だったが、嶋村の声の調子は変わっていた。
『決して独断で動くな。
こういう類の問題は、下手に動くとお前の身が危うくなる』
『わあってるよ。
ともかく、もう少しあいつのこと調べてみるわ』
『そうしてくれ』
過去から現実に意識を引き戻す。
突然永澤公孝が立ち上がった。
隣でパソコンをやっていた部員が驚いた顔を永澤公孝に向けると、
彼は「トイレ行ってくる」といってパソコン教室を後にした。
数分立ってトイレから戻ってきた永澤公孝の顔には、
汗らしいものは出ていなかった。
東海林が永澤公孝を張っていた頃、遊佐は栗山藍とともに駅前のコーヒーショップ『セレナーデ』でくつろいでいた。
『ミレーヴァ』の活動日でもなかったので、遊佐は早々に帰ろうとしたのだが、
栗山藍に相談を持ちかけられたのだ。
「えっ? また盗撮されてる気がする?」
「うん……」
「今度はアレじゃないでしょうね」
遊佐はいぶかしむ目で栗山を見ながら、苦めのブレンドコーヒーを啜った。
「私、そこまで悪人じゃないよ。
ほら、見てよこの手紙」
慌てて机に手紙を出したものだから、栗山はカップに腕をぶつけ、危うくこぼしそうになった。
カラメルオレンジラテという期間限定の飲み物だっただけに「危ない所だったー」と胸を撫で下ろしたのちに、
栗山は本題に戻った。
「『お前の彼氏の住所教えろ』」
綺麗な字で、どれだけ丁寧に書いてもミミズがのたくったような字しか書けない栗山の筆跡でないことは明らかであった。
「そもそも私、今フリーだし。
前の彼氏は、なんか危なそうだったからフっちゃったんだよね」
栗山の言う前の彼氏とは、赤い髪の持ち主だったそうだ。
「最初は音楽やってるのかなって思ってね、
カッコいいなって思って付き合ったんだけどさ。
なーんか変なクスリ、確か『ルシファー』とかいうやつ、ばら撒いてるとか自慢してきて、
次第に暴力とかも振るうようになってきたから、メールも電話もシカトしたの」
「自然消滅させたわけね」
遊佐は再びコーヒーを口に含んで、苦味を口全体で味わった。
遊佐が相談料として栗山藍に奢ってもらっていた頃、
駒田は久々に昔の不良仲間と街に繰り出していた。
『ミレーヴァ』の活動でなかなか遊べなかった駒田は、いつもより上機嫌で、
パンチングマシーンで過去最高点を出した。
「どうだ!
これが『ミレーヴァ』の力よ」
一方、不良仲間の1人である大塚宗郎は過去最低点を叩き出し、
消化不良に陥っていた。
「くそっ! どーなってやがんだ!」
大塚宗郎は自身の黒いリーゼントを両手で押さえるようにして嘆いた。「この機械よ、壊れてるんじゃねえのか? え?」
「大塚ぁ、そんなんじゃ喧嘩勝てねーぞ?」
笑いながら駒田が大塚宗郎の肩を叩くと、
大塚宗郎は「うるせーよ」と言いながら、小袋に入った錠剤を取り出してそれを飲み込んだ。
「おいおい、なんだよ、ドーピングかぁ?」
柿沼知也も茶化しながら言うと、大塚宗郎はニヤリと笑い出した。
「ああ、飲むだけでハイになれる最高のクスリだよ」
「え……」
柿沼の顔が一瞬淀んだ。
ドーピングとは言いながらも、柿沼自身は大塚が飲んだのは単なるビタミン剤か何かだと考えていたのである。
「それってまさか……」
「そんなヤバい顔すんなよ?」
大塚宗郎は笑ったつもりだったのだろう。
しかし彼の浮かべた顔は、笑顔というよりも崩壊しているといった方がしっくりくるような表情だった。
「法律違反なんかじゃねーよお?
なんたって『ルシファー』は、今巷で大人気の脱法ドラッグって奴だからなあ」
「オマッ……なんてモンに手出してやがんだ!」
駒田には『ルシファー』が何かはよくわからなかった。
ただ、大塚宗郎が危険なものに魅入られていることだけはわかった。
「おい、脱法だかなんだか知らないけどさ、
妹とか弟とかいるか?
そいつらのためにもさ、今すぐ捨てろよそんなクスリ!」
自身をシスコンと認める彼らしい台詞をはきながら、柿沼は恐怖で身体が震えていた。
「ハ……」
大塚宗郎は笑顔のままだったが、その表情は他人を嘲るものになった。
「脱法なんだぜ?
法律で禁止されてないってことだぞ?」
「脱法だろうがなんだろうがな、
ダメなもんはダメなんだよ!
お前、早死にしたいのか?」
「……フン、せっかくダチだと思って紹介したのによお」
彼は駒田の叫びにも耳を傾けなかった。
「何でも屋気取ってる『ミレーヴァ』の駒田に、シスコンバカの柿沼じゃ、
『ルシファー』の魅力なんかわかんねえよ」
「テメエ……」
駒田はこの3人の中では唯一の格闘技経験者である。
彼が両拳を構えようとしたその時、大塚宗郎は「あ、どーも!」といって誰かに手を振った。
すると彼の手の振った方から、ぞろぞろとガラの悪そうな連中が現れた。
全員で5人くらいになろうか。
「オッスオッス、宗郎ちゃんじゃん。
どうしたんよ?」
「なんかですね、『ルシファー』の魅力をわからないバカが2人いるんスよお。
ちょっと、シメてやってくださいよ」
駒田は焦った。
大塚宗郎自体は、ボクシング経験者からすれば大した相手ではない。
柿沼も大塚宗郎より少し強い程度の戦力だが、
気合で行けばどうにかなると駒田は思っていた。
しかし集団の中にいたある1人が、駒田を激しく動揺させていた。
そのある1人は集団の最後尾で腕を組んでいたが、
駒田に気づくと、目線を駒田に合わせてきた。
「よう、2年振りだな」
すっかり剃りあげた(と思われる)頭に白いバンダナを巻いた大男と初めて会ったのは、駒田が中3の頃の秋である。
本名はわからず、通り名のヒザマでこの男を覚えていた。
「やっぱりお前か」
自身の身体が震えていることなど、駒田にとっては百も承知だった。
目の前にいるヒザマこそ、駒田がボクシングをやめた原因なのだから。
「うん?」
集団のリーダー格っぽい、赤髪の男が突然バツの悪そうな顔をした。
「チッ、サツがきやがった!
逃げるぞ!」
リーダー格の声を皮切りに、
集団が蜘蛛の子を散らすように出て行った。
その時にまぎれたのか、いつのまにか大塚宗郎の姿も消えてなくなった。
「あいつ……」
駒田はついさっきまでガラの悪い連中が立っていたフロアを見つめ、苦虫を噛んでいた。
今日はですね。
なんと模試がないんですよ!
(というか、もう日曜に模試はないようですが)
夜はバイトとはいえ、ゆっくり過ごせる日曜日は久しぶりです。




