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第5章:サークルに強制拘束力はあるのか?1

 自宅から霊兎寺高校まで徒歩でおよそ10分。


ブレザーの下に着るセーターが欲しくなる日も出てきたが、


まだ寒いというよりは涼しい日々である。


そんな嶋村の登校に、最近一つの変化が起こった。


「……まだいらしてないか」


ついこの間までは通り過ぎていた駅前の広場には、大きい時計台がある。


そこで嶋村が立っていると、嶋村と同じ高校の制服を着た女性が小走りに向かってきた。


「ごめんなさい、少し電車が遅れてしまいまして」


植野絵梨佳。


霊兎寺高校3年生で、嶋村の先輩にあたる。


かつて痴漢に悩んでいたことを『ミレーヴァ』に相談し、


痴漢の撃退を依頼した。


その過程で嶋村は毎日のように彼女と登校をともにしていたが、


ある日、痴漢を退治してからも一緒に学校に行きたいとお願いされた。


「構いませんよ。


では行きましょう、植野さん」


異性との交流。


『ミレーヴァ』設立以前においては想像すらできなかった状況である。


白紙に突然何色もの絵の具が豪快かつ綺麗に塗られていくような生活の変化に嶋村は戸惑いながらも、


自身の高校生活という絵が色とりどりになっていくさまを楽しんでいた。


「あれ以来、変な輩には会ってませんか?」


「ええ。


最近では、後ろに壁やドアが来るような位置で立っているので」


「そうですか、それはよかっ……」


嶋村は言いかけて、整った植野の表情が先程と違うものになっていることに気づいた。


植野は、無邪気に有象無象の事柄を話す幼児を、


諭しながらも愛でる若い母親のような顔をしていた。


その目線は、嶋村の顔――より少しばかり下に向いていた。


嶋村にとっては、まっすぐ顔を見られるよりも却って気恥ずかしいものだった。


「ど、どうされました?」


「あ、いえ」


植野の顔が更に綻ぶ。


「面白いネクタイの結び方だな、と思いまして……」


嶋村の目も下へと行く。


植野の言うとおり、むちゃくちゃな結び方になっていた。


「あーと……今日は僕も遅刻気味でして、アハハハ」


首筋を軽く掻く嶋村の顔は、誰が見てもわかるくらいに紅潮していた。


その嶋村の首筋を狙って、二本の白い手が伸びた。


「っ!」


既に赤みを帯びていた顔は更に赤くなり、


更に嶋村は、汗がYシャツや制服にはりつくのを感じた。


しかし不思議と、不快感は感じなかった。


「……」


首筋では、器用な手つきで嶋村の粗相が正されていく。


新婚夫婦がこのように朝の支度をしているシーンを、


嶋村は、映画や小説を通して見聞きしたことがある。


こういったシーンを目にした時、嶋村はいつも、


こそばゆい気持ちになりながらも、一日仕事を全うする元気ももらえそうな日常風景だな、と考えていた。


現に今も、今日くらいはあの退屈な講義を聞いてやるかという気分になっていた。


女性的でおっとりとした植野の性格的な側面もあって、


嶋村の妄想は一気に加速した。


『あなた、ネクタイが曲がっていますよ。


直してさしあげますわ』


『ああ、すまないね』


『今日もがんばってきてくださいね』


嶋村の頭の中全ての思考が、目の前の女性に傾いた。


滞りない手の動き、その手を覆う透き通った肌。


どんな表情を作っているのか想像するだけで鼓動が速くなりそうなその顔。


嶋村の意識から、その3つ以外の概念が消えかけた時だった。


「はい、これでオーケーです」


「あっ……」


植野の声で、嶋村の意識は一気に現実へと引き戻される。


しかし嶋村の心臓は、未だなお早い鼓動を繰り返していた。


「そ、その、ありがとうございます」


頭の中で新婦に仕立て上げた負い目もあって、


落ち着かない口ぶりで恭しくお礼を言う。


植野は、相変わらず優しい笑顔を見せていた。


「嶋村さんって……」






 「……」


「おい嶋村、何をボーッとしてる?」


「……」


休み時間。


東海林の呼びかけにも関わらず、嶋村は沈黙を貫いていた。


というよりも、東海林の呼びかけが聞こえていないようだった。


「おい嶋村! 嶋村操!」


フルネームで呼ばれ、ようやく我に返ったようだった。


「なんだ、どうしたんだ東海林?」


「それはこっちの台詞だよ。


お前ってば、授業中からずーっと上の空だったからさ。


なんか悩み事か?」


「いや、あまり寝てないから眠いんだ。


顔を洗ってくれば少しはマシになるだろう」


顔を洗ってくる、といって嶋村は教室を後にした。






 「……」


嶋村は顔を洗いながら、今朝の出来事について考えていた。


たまたま嶋村のネクタイが雑に結ばれていて、


それを植野が直し、そのことで嶋村はお礼を言った。


その後に植野が言った台詞が、嶋村の心を支配していた。


『嶋村さんって……』


『な、なんですか?』


『なんだか可愛い弟って感じがします』


可愛い弟。


『ひとりの男』としては見れない、という言葉も裏返しにも似ているこの響き。


しかも先程まで頭の中で新婦としていた人からの台詞である。


(どうせなら、思いっきり落胆した気持ちになりたかったものだ)


男として、女から(しかも植野のような美人から)弟としてしか見れないと宣告される。


本来であれば落ち込んで、東海林にフラグは立たなかったとでも愚痴を吐いて、


それで片付く問題である(もっとも、美人のお姉さんが出来た、と喜ぶ解釈もできるが)。


しかし嶋村がその言葉を聞いた時、


嶋村の心の中には別の感情も芽生えていた。


(なぜ僕は、)


それは、先程までの嶋村の脳内を鑑みれば、明らかに矛盾した感情である。


(あの時安心感を抱いたのだろうか)


それのみではない。


その安心感を抱いたとき、嶋村の脳裏には植野でない女性の顔が突然思い浮かんできた。


(なぜ、あいつが出てきたんだ)


『あいつ』の顔は、嶋村にとっては思い出すまでも無い。


彼と『あいつ』は、小学生の時から今まで常に同じクラスなのだから。


(……)


再び嶋村の顔が冷たい水にさらされる。


(考えてもわからないことは、いつまでも考えるべきではない)


五里霧中の思考の中を彷徨いながら移動する。


これほど愚かな時間の使い方もない。


何度か冷水を顔に浴びせた後、


嶋村は何食わぬ顔で教室へと戻っていった。






 この日の放課後は『ミレーヴァ』の定期活動日だった。


「最近平和すぎて、楽しい仕事がないじゃねーかよ」


机に足を乗っけて悪態をつく駒田。


正確には仕事はあるのだが、紛失物の捜索や告白の斡旋など、


あまりメンバー総出で行う必要のない仕事が多いことは事実である。


「仕事に楽しいもへったくれもないわよ。


ただやれと言われた労働をして報酬をもらう。


それができないんじゃ社会に出てから苦労するわよ」


嶋村が所用で仕事が出来ない時やちょっとした仕事では、


彼女が統括役を代行することも多々あったためか、


彼女の言葉には妙な説得力が備わっていた。


「まあ、武力担当として呼ばれた駒田としては不服かもな」


東海林は自前のノートパソコンに向かって、キーボードで何か打っていた。


「おいおい、俺を暴力しか取り柄のない男だと思ってもらっちゃ困るぜ?」


東海林はノートパソコンをたたんで、足を投げ出している駒田の方へ向き直った。


「ともかく遊佐の言うとおりだ。


たとえ自分にとって興味ないと思った依頼仕事でも、思い切り楽しめ。


少なくとも俺はそうしてる」


「楽しんではいるがよ、なんだかな。


とにかく、思いっきり暴れたいんだよなっ!」


駒田は投げ出していた足を下ろして、椅子からも降りた。


「机とか壁とか壊さないようにね」


「あ、あと俺のパソコンもな」


遊佐も東海林も、駒田がシャドーボクシングをすること自体にはとやかく言わなかった。


暇な時間帯に駒田がシャドーボクシングをしていることなど、


今となっては既に日常風景と化していたのである。


駒田のシャドーボクシングに目をくれることもなく、


遊佐は手に持っていた文庫本に目を落とし、


東海林は再びノートパソコンを開いた。


3人が同じ場にいながら、その3人全てが別々の活動を行う。


協調性よりも自分の時間を大切にする傾向のある3人の行動としては、


なんら違和感を感じさせないものであるはずだった。


「すまない。少し遅れてしまった」


教室の扉が開く音とともに、嶋村と興津が姿を現す。


「おお、お前たち。待ってたぞ」


東海林が少し大きな声を出して2人を出迎える。


「あら、こんにちは」


「ういっす」


東海林の声にあわせて、遊佐、駒田も軽く挨拶した。


「毎度のことだけどさ、どうして3人して別々のことやってんのよ?」


「うっ、いや、別に」


「それぞれの趣味が違うってだけ。


私たちだって3人で話してる時もあるわよ」


なぜかうろたえ気味に弁解しようとする東海林の声を消すかのように、


遊佐の答えが何食わぬ口調で返ってきた。


「ま、いいんだけどさ。


それよりも今日は、外部の方からの依頼よ」


最近、『ミレーヴァ』の評判は上々である。


依頼される仕事は前述のようにさほど大きな仕事ではないのだが、


その評判は霊兎寺高校中に広がり、高校の外部からも依頼が来るようになっていた。


しかし『ミレーヴァ』の相談室(つまり、この教室である)は、当然高校の敷地内である。


外部の人間にふらふらされても困るというので、


外部の人が来る時は、嶋村と興津が校門まで迎えに行ってやることになっている。


そのため最近では、教室内に東海林、遊佐、駒田が3人で待機していることが多い。


「根峰さん、どうぞお入りください」


興津、嶋村に続いて、仕事の依頼者と思われる2人が入ってきた。


1人は灰色のインバネスコートを着た妙齢の女性。


もう1人は黒色のパーカーにインディゴのジーンズを履いた男性。


女性よりは若そうな顔立ちだったが、それでも嶋村たちよりは年上のようだった。


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