第4章:この人痴漢です!2
「お、おはようございます……」
嶋村が約束していた場所に行くと、既に植野はその場所に立っていた。
時計を見ると、長針が4を指していた。
「おはようございます、植野さん。
約束の時間よりも早く来られるなんて、時間に厳しい方なんですか?」
依頼者と世間話をすることで、依頼者の不安な気持ちを紛らわす。
このことも、『ミレーヴァ』としての職務の1つである。
また、世間話をすることで依頼者との親交も深めることが出来る。
『ミレーヴァ』としての活動を通して色々な人と知り合いになれることを、
嶋村は単純に喜んでいた。
「基本的に、時間には、その……厳しい方だと自負しています……」
「そうですか。
僕も時間には厳しい方で、10分前には絶対に集合場所に来ちゃうんですよね」
「私も、です」
植野はあまり顔なじみでない人との会話に慣れていないようだったが、
嶋村にとっては会話に長けた人物との会話よりも、肩が凝らなくて気楽に感じた。
植野との会話もひと段落した頃、興津と東海林が来た。
「「おはようございます」」
「おはようございます、今日はよろしくお願いしますね」
かくして一行は7時49分発・新宿行に乗車した。
植野から少し離れた三箇所に、嶋村、興津、東海林がそれぞれ1人ずつ立った形で、
電車は穣布駅を発車した。
(あ……っ!)
東海林は声を挙げそうになったのを、何とかこらえた。
穣布の隣の駅で乗り降りする客に合わせて動き、
最終的に植野の後ろに陣取った一人のサラリーマン。
大きく肩を上下させたかと思うと、背広の腕が植野の下半身付近に伸びていった。
東海林はその動きを見逃さなかった。
「取った!」
まもなく駅に到着した。
東海林に腕をとられたサラリーマン、植野、東海林、そして嶋村と興津が駅を降りていった。
手柄をたてた東海林を筆頭に、『ミレーヴァ』の3人は誰もが依頼の成功を信じていた。
「なんだって!?
俺が痴漢したってのか!?」
駅の構内で、半狂乱に叫ぶサラリーマン。
「あの……えと……」
サラリーマンの豹変ぶりに、植野はうろたえてしまった。
オロオロする植野の態度が、サラリーマンの悪態を加速させた。
「おい。
もしこれが間違いだったらどう責任とってくれるんだ!?
こっちはよ、てめえらに電車降ろされて遅刻なんだよ!?
え? いい加減にしろよ!?」
自分の行いを非にあげて、聞き分けのない子どものように怒鳴り散らす。
その様は、通勤や通学の徒に強烈な苛立ちを提供していた。
「間違いなわけ……!」
「……間違いだったかもしれません」
東海林の言葉を遮るように、植野が口を滑らせてしまった。
彼女の目の周りは濡れていた。
その台詞を聞いた途端、サラリーマンは意地悪い笑みを浮かべた。
そして、東海林たちに向き直った。
「触られた張本人が『間違い』だと言ってるんだ!
外野がとやかく言ったって意味ないんだよ!」
そして、丁度やってきた電車にさっさと乗っていってしまった。
電車に乗るまでの間、彼は誇らしげに歩いていた。
蹴りたい背中と言わんばかりに、東海林が思い切り蹴ろうとした。
興津も加勢しようとしたため、嶋村は慌てて2人を止めに入った。
「ごめんなさい……」
サラリーマンが去って、植野は開口一番に謝罪した。
「構いませんよ植野さん。
悪いのはあのお短気底辺スケベですからね」
サラリーマンの誇らしげな去り方が気に食わなかった東海林は、
彼の去った電車のホームを睨みつけていた。
「ほんと、あいつの顔面に一発入れてやりたいわね!
でも植野さん、いけませんよアレは。
ちゃんと自分を保たなきゃあ」
興津は、植野の対応に不満を持っていたようだった。
「何言ってるんだ。
あんな脅しにも似たようなこと言われちゃ誰だって萎縮するに決まってるだろ?」
「そこで萎縮したらあの痴漢ヤローの思うつぼなのよ?」
「皆が皆、対抗できるわけじゃないんだよ!」
「2人とも喋るんじゃない」
嶋村の一声で、口げんかが一瞬で収まった。
「さて、過ぎたことをああだこうだ言っても仕方ありません。
それよりも、明日の話をしましょう」
嶋村はあくまで冷静にこれからの話を切り出した。
明日もメンバーを変えて、嶋村、遊佐、駒田の3人で植野の周りを見る。
方針は特に変更は加えなかった。
「そうだな。俺は特にあいつから顔を覚えられてるかもしれないしな」
「ま、嶋村の案ならばおおかた大丈夫でしょ」
東海林も興津も、別段異論はないようだった。
「ごめんなさい! 次はちゃんと本当のことを言います!」
植野はただただ平謝りしていた。
「いやもういいですって先輩。
それよりも明日こそは頑張ってくださいね!」
興津の励ましに少し心強くなったのか、植野はかすかな笑顔を見せてくれた。
その顔を見た東海林は、
「くっそー! 今に見てろよ、あのくそ野郎!」
メンバーから外されたことも忘れ、虚空に拳を振り上げていた。
「ちょりーっす」
「……どうも」
「おはようございます」
嶋村は肩の骨がなくなったように肩を落とした。
1個上の先輩である植野がきちんとした敬語で話しているのに、
駒田も遊佐もまともな敬語を使っていない。
まだまだ新興勢力の域を出ない『ミレーヴァ』にとっては、サークル員の風紀の評判すら致命傷となりうる。
(……正しい敬語を使わせるセミナーでも開こうかな)
「悪かったわね、正しい敬語使えなくって。
ちょっとトイレ行ってくるから待ってて頂戴」
ぷんすか怒りながらさっさと歩いていく遊佐。
「コーラが飲みてーな。
ちょっと待っててくんねえ?」
自分の言い分だけ言って、そそくさと自販機へ向かう駒田。
「……嶋村さんも大変そうですね」
植野がかすかに笑いながら嶋村に話し掛ける。
依頼者の気持ちが和んだことが唯一の救いである。
昨日のサラリーマンは、昨日と同じ要領で植野の後ろについた。
(来るか……!)
植野の近くの席を確保できた嶋村は、
本を読むフリをしながら継続的に植野の方をちらちらと見張っていた。
植野からそう遠くない位置に立っていた駒田だが、
低身長ながら、混雑の隙間から植野の後ろにいるサラリーマンに目をつけた。
遊佐は植野の方を向いてはいなかったが、
植野の心を読んでいた。
痴漢が彼女の身体に触れれば、何かしらリアクションがあると踏んだのである。
「……」
しかしサラリーマンは突然キョロキョロしだしたのみで、
その両手が植野の身体に触れることは無かった。
何も起きない状況の中、霊兎寺高校の最寄り駅に到着してしまった。
「どういうことだよ?」
サラリーマンが脅しを入れて植野をやりこめた次の日から1週間が経った。
『ミレーヴァ』は毎日メンバーを変えて2~3人編成で植野と登校をともにしていたが、
例のサラリーマンは植野の後ろに居こそすれ、
痴漢行為に及ぶことがなかった。
「おそらく警戒しているんだろう。
バラバラに配置しているとはいえ、1週間前からいつも僕たちが近くにいるんだから」
2日目の時から、サラリーマンには一定のルーティンワークが形成されていた。
突然キョロキョロしたり、ゆっくりと辺りを見渡したりしているのだ。
「周りに私たちがいるかどうか確認してるってことね」
「それで俺たちがいなかったら痴漢に踏み切ろうってんだな」
『ミレーヴァ』の構成員が誰かしらいれば、きっとサラリーマンは痴漢行為には踏み切らないだろう。
もしその推論が正しかったとすれば――極論をいえば、植野が卒業するその日まで『ミレーヴァ』が登校に同行すれば、
植野が泣きを見ることは無くなる。
しかし、京王線ユーザーは東海林のみである。
他の4人にとっては半年弱もの間、毎日朝早く起きてわざわざ京王線まで行くのはかなり厳しい。
「誰か、『ミレーヴァ』だと気づかれずに協力してくれる人がいれば……」
興津の目が扉に行くと、それに呼応するかのように扉が開いた。
「その、お取り込み中、失礼します」
白川舞。
かつて彼女の弟・白川守の素行不良改善を頼んだ依頼者である。
「ようこそ、白川舞さん。
また何か頼みたいことができましたか?」
「あ、いえ、仕事というわけじゃないんですが、その。
弟が遊佐さんに会いたいと申しておりまして……」
「えっ、私に?」
窓をボンヤリ眺めていた遊佐が顔を白川舞に向けた。
「『なにかあったら霊兎寺高校に来い』って言ったの、あんただろ」
白川舞の後ろから、やや不自然な黒髪の少年が出てきた。
以前会った白川守は茶髪だったが、本来の色に戻したのだろうか。
「一応、俺もこれから真面目に勉強してこうと思って、さ。
こうなったのは全部あんたのおかげだから、お礼しに行こうと思ったんだけど」
白川守は、なぜかニヤリと笑った。
その顔からは、かつて中学校で屈指の悪ガキと言われていた一面を垣間見ることが出来た。
「『ミレーヴァ』じゃない人間の協力者がほしいらしいな」
「ま、そういうことになるわね」
「借りは返さないと気がすまない。
俺にやらしてくれ、遊佐……さん」
「そろそろ『さん』付けくらい、躊躇いなく言えるようになんなさい」
「うっ……それは姉ちゃんにも言われる……まあそれについては気をつける。
で、やらしてくれるのか?」
『ミレーヴァ』としては、意外な形で助け舟をよこされたことになる。
しかし嶋村は、別のことを考えていた。
「『遊佐が他人の言葉遣いにケチをつけるなんて、雪でも降るかもしれない』……か」
遊佐の顔が歪んだ。
「お、おい、勝手に僕の心を読むな。
そもそも僕は敬語を使えない遊佐を心配してだな、」
「なんだ、あんたも言葉遣いできてないのか」
「そういう守も、敬語くらい使いなさい」
「だって姉ちゃん、遊佐さんだって使えてないんだぜ?」
「ぬっ……1個上にはタメ語でいいけど2歳以上離れてる人には敬語じゃないとダメなのよ、わかった!?」
「揃いも揃ってだらしねえなあ。
敬語くらいは使えないと、社会に出たら絞られるぞ?」
「パソコンヲタに言われるようじゃお前らも終わりだな」
「なんだと駒田、今の台詞はな、
お前に百万回くらい聞かせてやりてー台詞なんだよ!」
「あぁ? やんのかコラ!」
いつのまにか敬語の話になってしまい、
しかも何人かは感情的になっていた。
「そもそも『ちょりーっす』は曲がりなりにも敬語だからな!
『……どうも』の遊佐よりはマシだ!」
「なんですって、前近代ヤンキー風情が!」
「ヤンキーでも敬語使えない陰気ショートよりはマシですー!」
「なんですって、このションベン頭!
『ちょりーっす』で敬語使った気になってるんじゃないわよ」
「お前たちが敬語を語るな!
僕に言わせりゃ二人とも敬語の『け』の字にもなってない!」
「なんだとこの青ビョウタン!」
「ちょっと頭がいいからっていい気になってるんじゃないわよ!」
「ぬっ……!」
元々今朝の2人がみせた態度に辟易していた嶋村である。
がらにもなく、頭に血が昇った。
「誰のおかげで『ミレーヴァ』構成員でいられると思ってるんだ!」
「あんだと? てめーなんざ1発でぶったおしてやんぜ!」
「駒田、この頭でっかちモヤシに食らわしちゃいなさい!」
「やってみろ?
2人とも少年院に叩き込むぞ!」
「……ハァーッ……」
1人だけこの空騒ぎに参加していない者がいた。
興津は臍下丹田に力を込めて、大きく息を吸い込んだ。
長く続いた微かな呼吸音が、やがて途切れた。
「今はそんなこと言い合ってる場合じゃないでしょ!!」
その瞬間、皆が水を打たれたように大人しくなった。




