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学校周りの捜索もしました。
「やっぱりやらないとダメですか?」
「当たり前じゃない」
あたりを見回します。瞳子たちは学校に来ていました。夏休みの学校は静かで遠い油蝉の声だけがあたりを埋めます。目の前には鉄筋コンクリート三階建ての校舎がありました。背後には事件のあった林と時計塔がありました。無駄に広大な校庭がありました。
「やっぱり警察の調査を待ちませんか? それで瞳子たちは安楽椅子探偵を気取るのです」
「却下」光は瞳子の意見を一言の元に切り捨てました。「いい? 確かにそれだけの範囲を探すのなんて、三人だけじゃ無理だわ。だから私たちは頭を使うのよ。実際に犯人に関わる場所なんてたかが知れてるはずだわ。要はそれをピンポイントで探せばいいのよ」
そんなこと言われても。実際に数的不利は圧倒的だと思うのです。
「数的不利なんて問題にならないよ。だって犯人はきっと一人でこの犯罪を成し遂げたんだもの。だから三人もいたらむしろこっちの方が有利だわ」一人ごねる瞳子に光は滔々と語りします。謎の論理です。歪はこんな面倒そうなことやる気なのが信じられません。
「お姉ちゃんが言ってる以上絶対だよ。ほらほら、小山内先輩も考えてみたら?」
「歪は何か考えがあるのですか?」
「さあ?」
「二人ともくっちゃべってないで、早く行くわよ」
と光の号令のもと、三人はバラけます。範囲が広いので手分けして探そうと決めていたのです。光は学校周りの田んぼへ、歪は時計塔の立つ林へ、瞳子は校舎に向かいました。光は最後に思い出したように付け加えます。
「職務質問を受けたら夏休みの宿題ですって言うのよ」
イヤな夏休みの宿題です。
****
時計塔に上がることが出来ました。それも意外なほど簡単に。
つい最近転落事故、自殺、他殺、あるいはどれでもない何か、なんにせよヒトの死に関わる事象が発生したのだから、てっきり侵入を制限されていると思っていたのです。ですから本心ではきっと入ることなんてできないだろうと思っていました。当初の計画としては、一応調べようとしたけど、鍵を貸してもらえなかったから、いじけて保健室で寝てた、とかそんな言い訳になるはずでした。けれど、職員室に入ってすぐの場所にいた教員は、瞳子が声をかけると不審なほど狼狽して、瞳子の言葉に唯々諾々と従いました。
「あの、それでさっきまで私が見ていたものは内密に……」
その教師の机の上にはノートPCが置いてありました。瞳子が話しかけた時、その教師はなにやら熱心にそれを覗き込んでいたようでした。
「誰にも言いません。あなたも瞳子のことを誰かに話したりしないでください」とにっこりと笑います。瞳子の作り笑顔はかなり怖いそうなのできっと効果的でしょう。まあ実際は彼が見ていたものは、よく見えなかったのですけどね。勝手に勘違いしてくれたのはラッキーなのか、不運なのか。
そんなわけで首尾よく鍵を手に入れた瞳子は、そのまま時計塔に向かいました。林の中の時計塔の前には黒く塗られた金属の扉が一枚、瞳子の行く手を遮っています。しかしそれは、鍵をまわすと微かな軋みと共にゆっくりと開き、埃っぽい空気と微かな油の匂いを吐き出しました。
中は薄暗くて、思った以上にひんやりとしていました。壁はセメントで塗られていて、叩いて見ましたが、黒猫の死体は出てきそうにありませんでした。延々と続くらせん階段を上っていくと、小さな扉があり、その向こうから歯車が回るような音がしました。扉には鍵などついていません。すんなりと開きその向こうが機械室でした。文字盤に出られるという窓はすぐに見つかりました。けれどその窓にはしっかりと鍵がかかっていて開けることができませんでした。それから壁の一方に梯子が一つ懸かっていて、恐らくその上のハッチが鐘つき堂へ出るものなのでしょう。けれどそこに出る扉にも鍵がかかっていて、上ることはできませんでした。
そりゃそうです。
事件直後なのですから管理は徹底していてしかるべきです。
機械室は畳三畳ほどの空間でした。だから当然一瞬で見渡すことが出来ました。怪しいもの、あの機械は多分時計のメカニズムなのでしょうね。ほかにはとくにありません。というか、機械なんて良くわかりませんから、判断しようがないのです。ただ、少なくとも、最近設置された後とか、何かを取り外した後とかは見つけられませんでした。
瞳子は時計塔の下まで降りて鍵を閉めました。降りるときに戯れに時間を測ってみますと、もちろんゆっくり歩いたせいもあるのですけど、ちょうど三分ほどでした。らせん階段というのは早く上り下りするのに向いていません。
時計塔の影はひんやりとして意外なほど涼しく心地よいとさえ思えました。足元にある赤黒いしみさえなければですが。上を見上げれば文字盤が見えました。死体が落ちたのはちょうど文字盤の真下になります。自分の時計と時計塔の文字盤を見比べてみましたが、一分の狂いもありませんでした。
一粒の汗が額から地面に滑り落ちました。汗はアスファルトに黒い染みを作り、そしてすぐに蒸発した。
耳を聾する蝉の大合唱があたりを包み込んでいました。それはあまりに聞きなれた、日常的なものだから、うるさいから聞えない。騒がしいから目立たない。いくら大きくてもただのバックグラウンドノイズとして処理される。そこに意味を見いだせるのは、奇人、詩人、物理学者。瞳子にはきっとリア王は書けませんし、宇宙背景放射は発見できません。
思考が脇道にそれているのを感じます。多分脳細胞は働かないと死んでしまうのです。だから暇だと妄想を始める。赤身魚ちっくなアレなのです。
ちなみに瞳子は鯵とか鯖とか好きですよ?
閑話休題。
というか、なぜ瞳子は光に付き合っているのでしょう。あんな傍若無人な、ヒトの予定も気にしない、特大の台風みたいな人間から、一体どうして逃げないのでしょう。
それは多分、彼女があまりに傍若無人で、無遠慮で、強引だから。
逃げないのではなくて、逃げられない。ダウト、誰でもない声が耳の奥でそう言った。
逃げ出そうと思えば逃げれるでしょう。例えば今立ちあがって、そのまま家に帰ればそれで十分。ものの三十分。でもそれをしないということは、瞳子は、もしかしたら、彼女と一緒にいたいのだろうか。
馬鹿みたいです。だって瞳子が、誰かと一緒にいられるはずもないのに?
って、閑話休題できていません。
愕然としました。
一つ溜息をついて、あたりに置いてあるベンチに座りました。懐からあるものを出します。それは飴色に焼けた一冊の文庫本。とても有名な推理小説。それは母親のコレクションの一部で、山と残った遺品の一つでもありました。
****
足音が聞えてきたのは、ちょうど名探偵がその愉快なかぼちゃを放り投げる場面まで読んだ時分のことでした。足音が止んで、瞳子は自然とそれまで読んでいた文庫本を閉じました。
「小山内先輩、やっぱりここにいたんだ」歪でした。
「なんで瞳子がここにいると分かったのですか?」
「そんなの簡単よ。校舎で事件にあからさまに関わってる場所なんてせいぜいここか、後は米倉浩二がいた教室くらいしかないじゃない。それで教室に行ったら誰もいない。だからここ」
言われてみれば当然の理屈。言葉にしないと当然のことでもわからないものです。思考とは言語化に他なりません。
「小山内先輩は時計塔の中に入った?」
「歪も中に入るなら鍵を貸します」
歪は鍵を受け取って塔の中に入って行きました。中の足音はかすかに瞳子の耳に届きました。三十分ほどしてまた今度は足音が下りてきて、軋むような音とともに扉は開きました。
「小山内先輩は、何か面白いもの見つけた?」
瞳子は黙って首を横に振ります。
「歪の方は何かありましたか?」瞳子の問いに「別に大したものは、あ、そうだイイもの見つけたのよ。」となんだかよくわからない答えを返した歪は何かを取り出しました。
歪が取りだしたのは、多分古い雑誌でした。全体がセピア色に退色し、文字もかすれてほとんど読めません。歪が開いたページには、恐らく写真が貼ってあるのですけどいまいち何なのかわかりませんでした。なにせ古いもので。
「ふうん、じゃあこっちは?」とページをめくりました。
「さあ……ペンギンダイアグラム?」
それからも何ページか見せられましたが、全体的に薄汚れていてよくわかりませんでした。そして最後に見せられたのが、
「な!」
「何顔赤くしてるの?」
歪が見せたのは、その、ええと、あーうー。口にしたくありません。
「ふっ、瞳子ちゃんも初心ね、ただの絵じゃない」
「変態」それは多少誇張しても蚊の鳴くような声の抗議で、当然歪は馬耳東風。
なるほどなるほどと、何かに納得している様子です。「それで、その雑誌は事件と何か関係あるのですか?」
「ううん。別に。ただ――」と歪はそこで言葉を切りました。
本当になんだと言うのでしょう。わけがわかりません。
分かったのは歪が変態だということだけでした。
太陽は少しずつ西に傾き、東の空の青が濃くなっていく。草と腐葉土の混じった香りが眠気を誘います。瞳子は黙って校庭の方を見ていました。
「自殺ってどう思う?」歪はいきなりそう問いました。
唐突な話題の転換に面食らいます。「どう、とは?」
「一度も死んだことがない人間が、どうして死んだ方がましと判断できるのか」
「ヒトには想像力があるから、とか」
「根拠のない想像を一般に想像とは言わないよ。強いて言うなら、それって妄想だよ」
でもきっと、その妄想のために死ねるのもまた、ヒトという生物なのです。
「でも、どうしてそんなこと聞くのですか?」
「さあ、なんでだろうね――米倉浩二の死は自殺じゃないし、今の話は、なんというか、暇つぶしみたいなものだよ。忘れて」
歪がそう言うので、瞳子はもう何も言いません。
****
光がそこに来たのは油汚れ並みにしぶとい夏の太陽もそろそろ家に帰ってやろうかと、ようやく重い腰を上げた、そんな時間のことでした。待ち合わせていたわけでもないのに自然と集まるのがいかにも瞳子たちらしいと思います。滴るような汗の匂いが、光がどれだけあたりを駆け回っていたかをしのばせました。疲労困憊のくちゃくちゃになった声音で彼女は問います。
「歪、瞳子、何か面白いものは見つかった?」
「ごめんなさい、見つけられなかった」
「光は何か見つけたのですか?」
光は唸るように言いました。
「今日の所は失敗ね」
脱力。真っ黒な鴉が一羽、空高くを飛んでいました。かーと一言鳴いて、西の空に飛び去っていきます。真夏の暮れなずむ空も少しずつ濃紺に染まっていく。
澄み切った音が頭上から響いて、瞳子は六時を知りました。
「もう帰りましょうか。瞳子、なんか私との距離が遠くない?」
「汗臭い人は近寄らないでください」
「生まれて初めてそんなひどい言葉言われたわ!」
「あははは」歪が笑う。
八月の初旬の話でした。