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8/3

 

 翌日の朝九時。瞳子がまだ朝ごはんを食べている時でした。家の黒電話が鈴の音をやかましく鳴らしたのは。けれどそれも鳴りやみます。誰かが取ったのでしょう。しばらくして電話を取り次いできたのは由希で、


「お嬢様、光様からお電話です。どうしますか、お食事中なので後でかけ直しますか?」


「いえ、だいじょうぶです」とご飯を味噌汁で流し込みながら答えて、受話器を受け取ります。由希の聞えよがしなため息が耳に入って素通りしました。


「はい、もしもし、瞳子ですけど」


「瞳子! なんであんな大事なこと黙っていたのよ!」


 光は開口一番そう叫びました。大事なこと? はて何のことでしょう。瞳子の優秀な記憶装置を検索しても、今取り立てて大事なことなど、いっかな思いつきません。


「例の自殺死体のことよ。歪から聞いたわ。なんだか不審な点があるそうじゃない」


 もう話してしまったのですか。仕事の速いことです。


「それで、その話を聞いて光はどうするのですか?」


「もちろん真犯人を捕まえるわ」


 ですよねぇ。それは予想通りの反応でした。だから瞳子は常識人らしく鹿爪らしくこんなことを言っておきます。「どうして? そういうのは警察の仕事じゃないですか。なんで瞳子たちがやらなくてはいけないのですか?」


「なんでって、瞳子は腹立たないの? ほんの目と鼻の先で、今まで一緒だったクラスメイトが殺されたのよ? それにあんなものを見抜けない警察にはきっとこの事件は解決できないわ。凶悪な殺人鬼を野放しにするわけにはいかないもの。私たちがやるしかないのよ!」


 やっぱり、光はこれくらい元気な方がいいです、なんて思いはしませんが、ただ、昨日みたいな暗い光は見たくありません。


「それにね」と光は声を落して続けます。


「それに私ちょっと怒ってるのよ」


「怒っている?」


「だってもしも本当に他殺なら、そいつは私をだしにして自分の嫌疑を免れようとしたわけよね。それって腹立つじゃない。今私の胸の中にはめらめらと怒りの炎が燃えているわ。絶対自分の手で犯人を捕まえてやるって」


「でも、もしも犯人がいるなら危険なんじゃないのですか?」


「大丈夫よ。私がいるもの!」


「……」一体どこからその自信が湧いて出てくるのでしょう。あまりの非常識に頭がくらくらします。


「じゃあ今から一時間後、十時くらい瞳子のとこ行くから」


 とそれだけ言って電話は切れてしまいました。


 中断していた朝御飯を再開します。その日の朝は和食で、ご飯とみそ汁それから漬物、というものでした。もしゃもしゃと咀嚼しながら思い出したように言います。


「由希、後で光たちが来るから。多分十時前くらいだと思います」


「はいわかっております」


 由希の穏やかな声も少しばかり弾んで聞えたのは、瞳子の耳の錯覚でしょうか。


「ああ、所で旦那様の銀の食器は出したほうがよろしいでしょうか?」


 普通でいいです。普通で。


 **** 


「第一回、米倉浩二変死事件捜査会議!」いえーい、どんどんぱふぱふぅ。


 光の宣言に、歪は持ってきていたタンバリンを打ち鳴らしました。なんでタンバリンなんか持ってきているのでしょう。謎です。瞳子は二人のテンションの高さにちょっと引き気味です。


 二人は予告より少し早く、九時五十分ほどにやってきました。自転車を表にとめてもらって中に招きます。内部での二人のお出迎えは、まあ割愛してもいいでしょう。村民の例外にもれず。うちのお手伝いさん達も光のこと大好きですから。今日屋敷にいるのが三人だけで助かりました。五人とかいた日には瞳子は目をまわしていたかもしれません。


 なんとか無事に瞳子の部屋に案内して、良く冷えた麦茶の一杯飲んで。光は腰を落ち着けるなりさっきの宣言をしました。変死、とはよく言ったものです。自殺だって殺人だって、病死だってある意味変死でしょう。逆に変じゃない死ってなんですか。日常的な死、自然死?


「今日集まったのは他でもないわ。例の事件の真犯人を見つけるためよ。それはオッケぃ? そしてそのためには一に情報の整理、二にその情報の吟味、三に足りない情報の捜索よ。というわけで最初のから行ってみましょう。今まで集まった情報はこんな感じよ」


 と言って光が取りだしたのは昨日瞳子が歪に見せてもらった紙でした。昨日の時点での警察の捜査情報がまとめてあります。


「これを見た感じだと米倉浩二の死はただの自殺だわ。でもその説では説明できない部分がある。それについて、歪君!」


「はい。遺書の問題ね。警察の見つけた遺書はお姉ちゃんに送られたラブレターと同一のものだよ。もちろんあたしの記憶違いでなければの話だけど」でもあたしは自分の記憶に自信があるよ、と歪は言います。


「そう言えば昨日言っていた、恋文のチェックはしたのですか?」


「まだ完全なことは言えないけれど、米倉浩二のラブレターはあるべき場所には無かった。倉庫には今までお姉ちゃんが貰ったラブレターを日付別にファイリングして保管しているの。まだ調べた部分はこっちに引っ越してからの部分だけだから確かなことは言えない、でも今のところは彼のラブレターは見つかってない」


 ただ、他の場所に紛れ込んでいる可能性も捨てられないのも事実。


「そういえば米倉浩二のラブレターはいつ頃貰ったものだったっけ?」光が割り込む。


「はっきりとは言えないな、でもせいぜい引っ越してから一カ月までの間だと思うわ。それくらいの時期が一番多いっていう事情もあるけど」


 と歪は曖昧な答えを返しました。二人が引っ越してきてから一カ月と言うと、今年の三月くらいまで、ということになります。


「つまり現状『あの遺書は光が受け取った恋文を偽装したものである』という主張を否定する証拠は無いのですね」


「ええ、あたしの気付いている限りでは」


「他に新しい情報は何かないかしら?」


「そう言えば警察には遺書のことは知らせたのですか?」


「当たり前じゃない。瞳子は私をバカにしてるの?」


「だったらそんなことしなくても、遺書の指紋を調べてもらえばいいんじゃないでしょうか。もしも光宛の恋文なら、そこから光の指紋が検出されるはずです。あの夜、光は遺書に触っていないのでしょう?」


 ああなるほど、と光と歪は同時にぽんと手を打ちました。なんでそれが思いつかないのですか。一番楽なのに。そう言うと二人は口をそろえました。「あんまり警察に頼るのはねえ」


 スコットランドヤードといい警視庁といい、警察はいつだって意味もなく軽んじられるのです。あはれ。


 呆れる瞳子をよそ眼に光はどこかに電話をかけました。電話は二コールも鳴らずにつながって、受話器から無駄に元気な熱い声があふれ出る。それに光は無感動に答えます。


「あ、刑事さん、私、光だけど、朝話した遺書のことで調べて欲しいことがあるのよ。え、もう調べてる? それで結果はどうだったのかしら? ふうん、そうありがとね。じゃあ」


 通話はものの一分ほどで終わり、


「お姉ちゃん、それでなんと言っていましたか?」


「微かに私と歪の指紋が残ってたってさ。それから当然米倉浩二の指紋も。歪、あなたあの晩にその紙に素手で触ってないわよね?」


「ええ、もちろん」


「つまりあの遺書はやっぱり偽造されたものと見て間違いないわ」


「あたしたちと米倉君以外には指紋は出ていないの?」


「そうみたいね、あらどうしたの、瞳子?そんな豆鉄砲くらいそうな鳩みたいな顔をして」


 そんな顔していますか。というか豆鉄砲くらいそうな鳩ってなんですか。ただのどんくさい鳩じゃないですか。誹謗中傷の域です。まるで意味が分かりません。そういえば豆鉄砲って何なのでしょう? 豆を飛ばすパチンコみたないものなのでしょうか。でもそれなら鳩的にはわりとおいしい気もします。豆が勝手に飛んでくるわけですから。痛し痒し? おいしいけど、痛いのはイヤってことですか。全然関係ない話です。


「いえ、仕事が早いなって思っただけです」


「確かにそうね。でもおかげで時間短縮につながったわ。指紋からあの遺書が実は歪が保管していて私へのラブレターで偽装したものと分かったわけだもの。米倉浩二の死は自殺ではあり得ないわ。つまり、彼は殺されたのよ」


 しかしそうなると当然出てくる疑問。じゃあ、フーダニット?


 そこで光は少し黙りこんで、


「それを詰めるのは難しい気がするよ」と歪が引き継ぎました。「まだデータが足りないと思う。例えば今あたしたちが知っている事件の関係者は、被害者の米倉浩二を除いてあたし達三人と、それから彼の家族くらい。その中でもあたしたち三人はアリバイがある。なぜなら彼が死んだ時刻にあたしたちはいっしょに、校舎に向かう途中だったもの。残るは家族の三人ね。でも彼らについてあたしたちはまだよく知らない。そして他にも誰か事件に関わっている人がいるのかもわからない。こんな段階で犯人を特定するのは困難だよ」


 おとぎ話の中には酒場で聞いた十一語の文章から、殺人犯を捕まえる教授もいますけど、ああいうのはやっぱりファンタジーでしょう。


「そうなると今の時点でこれ以上考えるのは難しいかもしれませんね」


「そうかもしれないわね。でもまだ考えるべきことはあるわ、ワトスン君、一体犯人はどのようにして被害者を殺したと思う?」


 誰がワトスンですか。瞳子はアフガンに行ったこともありませんし、軍医でもありません。


「え、ワトスンって軍人だったの? 知らなかったわ」


 さておき、それは犯人に聞かないと分からないでしょう。でも一番あり得そうなのは、やっぱり背後から突き落とすとか?


「一つの可能性としてはありえるわ。じゃあその仮定の下で犯人はどのような行動を取ったことになるかしら?」


 まず米倉君を学校に呼びだします。方法はわかりませんが。そしておもむろに靴を脱がせて、裸足で時計塔の一番高い場所まで誘導、彼が外に出た所で突き落とし殺害します。そして遺書と靴を整えてから逃走。彼が死んだ正確な時刻はわかりませんが、瞳子たちが死体を発見するまでほとんどタイムラグはありませんでした。瞳子が聞いた音が米倉が落下した際の衝突音だとしたら、それこそ五分ほどもありません。そして瞳子たちが入った時にはあそこには誰もいませんでしたから、かなり時間的に厳しい制約があるように思います。時計塔から駆け降りて、数分。その上、村の中心部から学校までは一本道で、さらに辺りは田んぼばかりのため相当に見晴らしがいいのです。あの晩は満月で晴れていたので、田んぼのあぜ道を歩いている人がいれば、間違いなく気がついたはずです。正直な話、犯人が町の方へ逃げられたとは思いません。ならば、どこかに身を隠したのか。隠れられる場所は時計台の周りの林くらい。いくら月夜といえ、夜の森は怖いものです。じっとヒトがいなくなるのを待つ方が無難でしょう。言っていて馬鹿らしく感じてきました。これ絶対見つかります。


「でも、不可能とは言いきれないわね、ものすごい運が良ければ。他にはないかしら?」


「別に現場に犯人がいる必要性はないんじゃない? 例えば何らかの自動的な方法で殺すとか」光の問いに歪が答えました。「例えば、機械的な方法とか」


「でもそんな怪しげな機械あったら警察にばれるのではないですか?」


「うん、だから本当にありふれたものでなんとかならないかな」


 時計塔にあっても不自然でないもの、むしろあって当然なものを利用して殺す、そんな魔法みたいな方法があるでしょうか?


「あたしには思いつかないけど」


 言っている本人がこれです。


「それを今から調査するんじゃない」


 光が笑って言いました。


「取りあえず、調べるべきは次の二つじゃないかしら。


「一つは、被害者の周りの人間について。今言ったどちらの手段も被害者を学校におびき寄せる方法がいるわ。見ず知らずの人間の言うことなんて聞く奴はいないわ。その関係が友好なものか敵対かは別にしてね。

「もう一つは、現場の調査。現場百篇って言うものね。自動殺人にせよ、犯人が潜んだにせよ、何かが残っているかもしれないもの。だからまずはこの二つ」


「遺書のことを忘れていますよ。光の家は今まで泥棒に入られてことはありますか?」


「ない、と思っていたけど、でも盗まれている以上盗みに入られたことは確実ね」


 もしかしたら他にもこっそり盗まれている物があるかもしれません。あるいは盗みに入った痕跡が残っているとか。何にせよ、調べてみる価値はあります。


 他には何かあるかという問いに、歪と瞳子は沈黙を返しました。


「ううん、もっとピリッとした意見を出してくれると期待してたんだけど、まあいいわ」


 光は好き勝手言いますが、殺人事件の調査なんてしたことないのです。それは過大な期待だと思います。具体的に調査法はどうするかという話になると話し合いは荒れました。前の二つを徹底的にやるのはどちらにせよ人出が三人では足りないのは確実です。いかんせん多勢に無勢、三人では山狩りなんて無理ですし、関係者全員に聞き込みするのもとても面倒です。そもそもそんな権限瞳子たちにはありません。調査は困難を極めるでしょう。


「だから、警察に丸投げすればいいじゃないですか」


「ダメよ、瞳子はすぐに怠けようとするわね!」


 時計を見ればいつのまにかお昼時です。瞳子の鋭敏な鼻は微かに空気に混じるだし汁の香りを鼻ざとく嗅ぎ分けました。部屋に近づいてくる足音の後に。


「お嬢様、お食事の準備が出来ました」


 出かける前にご飯を食べましょうということにあいなります。きっと由希がはりきっていつも以上においしいご飯を作ってくれていることでしょう。匂いから多分和食であることは間違いないようです。三人は相次いで瞳子の部屋を後にします。最後に部屋を出たのは瞳子でした。瞳子の部屋は十畳ほどの和室です。置いてあるのは文机一つと、ちゃぶ台が一つ。それから本棚とそれに詰まった本。服を入れておくための竹かごが一つ。電気を消すと、障子越しに入る光であたりはぼんやりと照らされます。ちゃぶ台の上に、今は空になったカップとレポート用紙が散乱しています。片付けないと後で由希に怒られそうです。急に静かになったので、蝉時雨がやけにはっきりと聞えました。


「瞳子、早く来ないと全部食べちゃうわよ」


 遠くから光の声が聞こえる。いやそれほど遠いはずがない。同じ屋敷の中なのですから。


「待ってください。今行きます」大声で返し、瞳子はふすまを閉めて自分の部屋を後にした。


 ****

 

 檻場家の捜査はその日のうちに行われました。


 光と歪の住む洋館は、村を流れる小さな川を挟んで瞳子の屋敷とおおよそ線対称の位置にあります。デカルト座標で考えると、川が大体x軸とみなして、(0,1)に檻場家が、(0,-1)の位置に小山内家が、そしてついでに言っておくと、(-1,1)に学校がある、そんなイメージです。小山内家から檻場家はまでは歩いて二十分ほど。


「ほら瞳子、私の後ろに乗って」


「お姉ちゃん、小山内先輩ならあたしが乗っけてくよ」


 自転車なら十分とかかりません。


「あの、一応二人乗りというのは軽犯罪なのですよ?」


「お姉ちゃんがそんなことする必要はないよ。あたしに任せて」


「それこそ余計な御世話だわ。瞳子くらい大丈夫よ」


 瞳子のやんわりとした辞意は二人にさらりと無視されます。騒ぐ二人をよそに、瞳子はそのとき大変わざとらしいタイミングで現れた恭子を捕まえて車を出してもらうことにしました。「ってちょっと瞳子、待ちなさい!」


「イヤです。恭子早く出して」


「あの、でも光様が」


「いいのです。光は瞳子に止まれと言っただけで、恭子に車を出すなとは言ってないです」


 その言葉を聞いて、芥子色の車はゆっくりと動き始めます。


「ああ、光様ごめんなさいすみません申し訳ございません許してください」


 ……恭子には悪いことをしたかもしれません。もともと道が悪いのに加えて、恭子がやたらにアクセルを踏むので瞳子の体は車内をボールのようにバウンドします。舌をかまないようにするだけで精一杯です。でもそのおかげ(?)で、猛烈に追ってきていた二人の気配もすぐに消えて、それからやっと車はスローダウン。橋を渡りました。橋の向こうの道はアスファルトできれいに舗装されて、車もほとんど揺れませんでした。


 田舎道の景色がゆっくりと窓の外を流れています。両脇に広がる田んぼの緑に目を焼かれました。ひらひらと飛ぶアゲハチョウの鮮やかな黒と白の紋様が目に焼きつきます。


 きぃと、軋むような音を立てて車が止まりました。見やれば、小さな庭の向こう側に、白いペンキも新しい洋館が一軒、ぽつんと立っていました。


「光と歪に会ったら瞳子が命令したからで、自分は悪くないって言っておきなさいな。あと、ありがとう」


 恭子に礼を言って、外に出ました。草いきれの香りが瞳子を包みます。空にはたくさんの赤トンボが舞い、静かなダンスを踊っています。まだ光たちは来ていません。


 暇です。


 暇なので、洋館の玄関の取っ手に手を回してみました。取っ手は四十五度ほど動いて、それ以上動きませんでした。鍵はちゃんとかけているようです。


「人んちの前で何やってんの?」


 微かなブレーキ音と共に背後から光の声が聞こえました。


 そこは檻場家の前でした。


 **** 


「なんで逃げんのよ!」


「瞳子が自転車乗れないと知っていて乗せようとしたのは光たちの方です」


「まあそれは悪いことをしたと思わないこともないこともないわ」


 結局悪いとは思っていません。


「と、友達を自転車に乗せるくらい誰だってすることでしょ?」


 そうかもしれませんけど。


「そんなことより、早く家を調べようよ」


 歪が扉の前に立ち、呆れたように言いました。渋々二人も言い争いをやめて引き下がります。かちりと錠がまわる音がして、さっさと歪は中に入っていきます。どうやら中には誰もいないようです。


「そういえば瞳子がうちに来るのは初めてよね」


 檻場家は洋館ですけど、玄関で靴を脱ぐスタイルになっていました。なんでも掃除するのが面倒だから、だそうです。と言いつつ掃除なんて基本お掃除ロボットに任せているのでそれは疑わしいです。何にせよ瞳子は慣れていませんので、ありがたいです。


 玄関からつながる廊下の正面には二階に上る階段があって、その階段の前で廊下は右に曲がり、リビング兼ダイニングにつながっていました。リビング以外にも一階にはふた部屋ほどあり、それぞれのドアが廊下の途中にありました。三人は最初リビングに向かいました。


 本音を言えば、全然やる気が出ないのですけど。でもやると決めたからには自分の仕事には全力で当たるつもりです。


「探偵は仕事じゃないわ。生き様よ」


 じゃあそれでいいです。あんまり突っ込むと頭が痛くなりそうな予感を感じて瞳子は黙り、「それじゃあ捜索開始よ」


 光は機嫌よく宣言するのでした。


 ****

 

 仕事は思った通り難航しました。

 というか、瞳子のやることはほとんどありませんでした。そもそもいつ入ったのかもわからない泥棒の残した痕跡を探しているわけですし。普段ここに住んでいる光たちが分からないことが瞳子に分かるはずもありません。


「そういえば、歪の管理する倉庫とはどこにあるのですか?」


 手持無沙汰にソファーのクッションに身をうずめて二人が家の捜索するのを眺めていた瞳子がふと、思い出したように問いました。


「ああそれはこの建物じゃないわ。ほら、隣の倉庫よ」とキッチンの収納をかき混ぜていた歪のくぐもった声が瞳子に届きました。


 ふうん、じゃあ本当にこの母屋に泥棒が入ったという保証はどこにもないということになります。実際、調べてみると、母屋の扉はすべて防犯用の鍵になっていました。泥棒が入るのはそれ相応の技術が必要でしょう。もちろん、いくら防犯用でも絶対破れないというわけではないですし、そもそも常に戸締りを完璧にしているかと言われると、そんなこと保証できないでしょうけれど。どんな建物にせよ、泥棒が絶対に入っていない、ということを証明するのは難しいものです。


 概して、何かを否定すると言うのは難しいものです。例えば『位相空間X,Yが同相である』を証明するなら具体的に同相写像を作るという手があり得ますが、『X,Yが同相でない』を示すのは素朴に出来ることはあまり多くありません。ホモロジーや基本群といった位相不変量が作られたモチベーションの一部はそういう気持ちだったのでしょう。


 今の場合、そういう都合のいい量はなに?


「そう言えば、光たちのご両親はどちらにいらっしゃるのですか?」


 光と歪があたりを漁る音が、本のすこし小さくなりました。


「瞳子は知らなかったのね」


「あたしたちの親は、もういません」


 そして何事もなかったみたいに、捜査の続きを再開します。


「そうだったのですか」


 じゃあ、瞳子と同じですね。


 そして今度は光だけが動きを止めました。


「同じってどういう意味?」


 どう、と言われても。


「別に大したことじゃありません。瞳子の家族は十年ほど前に事故で死んでいるって、ただそれだけの話です」


「そっか、同じ様な感じかもね」と歪は言いました。光は数秒何かを言いたそうにしていましたけれど、それも諦めて、


「私、二階に行ってくるわ」


 そう言い残して、逃げるように去って行きました。


 白けたような空気が、リビングに流れました。


「……でもそう考えると随分と不用心じゃないですか。こんな街から離れた場所で女二人暮らしなんて」瞳子の問いに歪は少しだけ間をおいて。「そうかな。お姉ちゃんやあたしを乱暴できるヒトがいたらお目にかかりたいものだけど」


 謎の自信。世の中には変なヒトなんていくらでもいるのです。もしも、万が一という可能性も考えれば、やはり街中で暮らすべきだと、瞳子は思います。


「それじゃあこっちに来た意味がないじゃない。せっかく田舎に来たのだもの。ヒトがいない場所で過ごしたいわ。それに、小山内先輩だって随分辺鄙な場所に住んでいるじゃん」


 確かに街外れですけど、でも瞳子には一緒に暮らしているお手伝いさんたちがいます。


「とにかく大丈夫よ、心配することはなにも、ないよ」


 その自信に気圧されて、瞳子は沈黙しました。


 それにしても、やはりやることがないと言うのは暇です。


「瞳子は倉庫を調べてみます。そっちは泥棒が入ったのは確実なのですから」


「後であたしも行くよ」という声と同時に、銀色に光るものが飛んできて、慌てて瞳子は受け取りました。「倉庫の鍵」とだけ歪は言いました。


 玄関から外に出て、瞳子はとなりの建物に向かいました。


 ****

 

 その建物はざっくりと言えば木造の大きなさいころの様な形をしていました。一つの面の大きさは三メートル四方程度。色は隣の洋館と同じく白く塗られています。扉は一つ。鍵も一つ。洋館側に向いてついていました。鍵は洋館と違って普通の錠の様です。これならば技術がなくてもピッキングで開けられるかもしれません。逆にそこから洋館を見てみますと、洋館の側面には三つの窓と一つの扉が開いていました。さっきまで瞳子がいたリビングの比較的小さな窓が二つ、それから二階には大きな窓が一つ。見ているとちょうど窓が開きます。


「瞳子、そんな所で何やってるの?」光でした。


 光の様子はさっきの話の前に戻っていました。強い人。


「倉庫の方を調べようと思いまして。そっちは何か見つかりましたか?」


「なにもないわ。大体変な部分があれば今までで気が付いているはずよ。逆に言えば今まで気がついてないことを今さら気づくわけないわ」


 珍しくまっとうな意見です。何を今さら、と思わないでもないですが。


「ちょっと待ってて、私も行くから」と光は言い残して窓は閉じました。


 辺りを見回します。取りあえず、足跡なんて素敵な物はありません。当たり前です。


 十日前にサハラ砂漠に落したピンを探すヒトの気持ちになります。家の周りは広大な草原の真ん中といった風情で、これを完全に捜査しようと思うと、間違いなく瞳子たちだけでは不可能です。やっぱり全部警察に丸投げではダメでしょうか。今さらみたいに心に暗雲が垂れこめてきます。


「お待たせ? もう入っちゃった?」


 瞳子の気分にお構いなしに、明るく元気な声が背後からかけられます。


「いえ、光が来るなら歪も待とうと思いまして」


「もう、歪は何やってるのよ。ひずみーそっちはいいからこっちにきなさーい」


「はーい」


 歪の声はすぐそばから聞こえました。そして洋館の側面にある勝手口が開いてそこに置いてあったスリッパをつっかけます。


「歪、何か見つかった?」


「ううん、特には。お姉ちゃんは何か見つけた?」


「ダメね」


 どうやら二人とも釣果は芳しくないようです。


「でもメインディッシュが残ってるし」


 そう、確実に賊が入ったと分かっている倉庫、ここを調べずして調査なんて意味はありません。鍵をまわす音が響きます。蝶番が軋む静かな音とともに、扉はゆっくりと開きました。


 ****

 

 倉庫の中、埃っぽい空気を吸いながら眺めますと、壁一面に棚が設置され、草刈り用の鎌や、梯子、数々の工具などが整然と置かれてします。またある場所には雑巾、竹ぼうき、掃除用具が一式。どうやら外回りの道具が中心の様です。しかしその一角に、明らかに浮いた場所がありました。プラスチックの衣装ケースが天井すれすれまで一杯に並んでいます。しかし中には服なんて一つも入っていません。その代わりにバインダーがぎちぎちに詰め込まれているのです。これが例の奴に違いありません。


「へえ、ここってこうなってたんだ」


「光のうちなのになんで知らないのですか」


「だって歪に任せてるし」


 歪には少し同情します。ですが歪は「お姉ちゃんのためにする苦労なら別に大したことないよ」となんでもないことのように言いました。本当に出来た妹です。あるいはこんなしっかりした妹がいるからこそ光はダメ人間になったのかもしれません。


「それにしてもこんなにたくさん恋文貰っていたのですね」


 それは正確にはどれくらいあるのかわかりません。でも瞳子のてきとうな目算ですが、優に一万以上はありそうでした。


「コレでも古いのは捨てているの。全部合わせたらコレの何倍もあるよ」


 と歪は誇らしそうに答えました。コレの何倍。気の遠くなる話です。


「まあ私が本気出せば世界中の木をパルプにしても足りなくなるくらいラブレターが来るけどね。でもラブレター全部取っていることは知らなかったわ」


「何かに使えるかもしれないと思って」歪は小さく答えました。


「与太話はさておき、これを調べるのはやっぱり無理じゃないですか?」


「いきなり諦めたらダメよ!」


「でも実際何を調べていいのやら」


 ふむ、と光は呻きます。


「取りあえず、指紋とかじゃないかしら?」


 思いついたままといった様子です。犯人の残す手がかりと言うと指紋が一番メジャーですか。科捜研の女的な。つまり単なるイメージですが。


「あの遺書に第三者の指紋が残っていなかった時点で望み薄だと思うけど」


「そもそも誰か指紋なんて調べられるの? ちなみに私は無理よ」


「瞳子だって出来るわけがないじゃないですか」


「歪は?」一縷の希望を託して光が問います。


「ごめんなさいお姉ちゃん」


「じゃあダメね」


 調査は遅々として進みません。有限な時間という無二のリソースががりがりと捨てられていくのを感じます。手持無沙汰な瞳子は、取るものも取りあえず手近な場所に置いてあったバインダーの中を拝見してみました。すると、


「これはまた」


 そこに広がっていたのは見ず知らずの人たちが書いた思いの丈、そのほどを表した世界でした。そのあまりのすさまじさにちょっと絶句しています。例を上げれば、例えば何枚にもわたって恥ずかしくて瞳子にはとても口に出来ない美辞麗句を延々と書き連ねた物がありました。たどたどしい筆跡と幼い文章で自分の気持ちを素直にぶつけたほほえましい物もありました。短い簡潔なセンテンスで彼女への思いをつづったものも、極端なものになると流暢な毛筆で一文字『愛』とだけ書いた剛の者もいました。さらには英語、フランス語、多分ヒンディー語、きっと広東語、もしかしたらアラビア語等々世界中の言葉で書かれた、恐らく恋文と思われるものが大量にありました。


 一つ一つはほほえましいものかもしれない。けれどそれも大量に集まれば、それはもはや魔的なものにすら感じられました。

 なぜ、こんなにも誰もかれも光が好きなのでしょう。


「瞳子、何サボってんのよ」


「あらこれは裸のイデアさんじゃないですか」


「裸のイデア? ……もしかしなくても、ラブレターを読んだのね?」


 その単語はたまたま目についた恋文の中で見つけた言葉でした。光を評して裸のイデア。美しさというイデアがそのまま世界に現れたようだと、文脈からそのような意図で書かれた言葉だと判断できました。頭湧いてるとしか思えません。


 でも少し意外だったのは、光がすぐにそれと分かったこと。どうやら光は貰ったものには全部目を通しているらしいということです。


「あのねえ。私が貰ったんだから、そりゃまあほとんどのラブレターには目を通しているのは当然じゃない」全部じゃなくてほとんどというところがみそです。


「でもあたしが注意しなかったら忘れていたことは何度もあるけどね」と歪は大量のスコップを地面におろし、一つだけついた小さな窓を調べながら言います。


「せっかく瞳子にカッコつけようとしたのに」

「あはは、お姉ちゃんがカッコつけるなんて無理しなくていいんだよ」


 歪は笑いながら切り捨てました。


「もう」と一人不満げな光は少し間をおいて。「でもいい考えかもしれないわ。手紙の中を探すっていうのは」


 手紙の中を探す? それはもう昨日歪がやったのでは?


「米倉君のラブレター探しをやるんじゃないわよ」と光は慎重に言葉を選ぶように言いました。「そうじゃなくて他になくなっているラブレターが無いかを探すのよ」


 なぜ? 瞳子は頭の上に疑問符を浮かべます。それを見て気を良くしたに違いない光は、打って変って弾む声で自説を続けました。


「無くなったラブレターが他になかったらそれでいいわ。つまり犯人は米倉君を自殺に見せかけるためだけにここに盗みに入ったってことよ。でも、もしも他にも無くなっている物があったら? 犯人はなんのためにそれを盗んだ?」


「……つまりもう一通、遺書を偽造するため?」光の問いに歪が応えます。


「ご明察」


「じゃあ逆に無くなった物があったら、その差出人が狙われる可能性が高いってこと?」


 歪もさも深刻そうな声を出して光に同調しました。


 いつから米倉某変死事件は連続殺人になったのでしょうか? それこそ人を何人も殺すようなリスクを、普通のヒトが取ること滅多にないと思います。それに仮にやるとしても同じトリックを二度は使わないでしょう。という瞳子の意見は華麗にスルーされ、それから三時間ほど、三人で何千通もの恋文の差出人と、この村の住民の名前を照らし合わせる作業に費やされることになったのでした。


 結果? そんなもの聞かなくても分かるでしょう?


 最後に三人がそれぞれの表を照らし合わせた結果、恋文が見つからなかったのは四人だけ。つまり最初から恋文なんて出していない光と歪、それから瞳子の三人と、それから例の事件で利用された米倉浩二その人だけでした。


「あれ、おかしいわね。絶対に他にも誰か狙われていると思ったのに」


 おかしいのは光の頭です、とは口に出しませんがそのかわり、ただただ虚無感と眼精疲労をためるだけの作業に対して一つ溜息が洩れました。それだけです。

 

 結局、三人が倉庫の外に出るころには日は沈みかかっていました。西の空が赤く燃えます。その赤が『今日のところはこれくらいで勘弁してやる』と言っているような気がしました。


「結局、今日一日の調査じゃあ何にもなかったわね、歪、倉庫にも誰か知らない人が入ったような痕跡は無かったのよね?」


「少なくとも、あたしの分かる限りでは」


「あーあ、しょうがないわね。警察に捜査してもらうしかないか」


 最初からそうするべきだったと思います。今日瞳子たちがひっくり返して消えてしまった証拠もあるかもしれません。そう思うと瞳子たちの行動は単なる犯罪幇助行為以外のなにでもないような気がしてきました。ますます落ち込んでしまいます。


「終わったことをくよくよしても仕方ないわ。私たちは明日を生きているのよ。それに今日の捜査で分かったこともあるわ。少なくとも私と歪にわかる範囲に於いて、他人が私たちの家に侵入したような痕跡は見つけられなかった。犯人はかなりの手練ね。それでこそ捕まえがいがあるわ」


 光はやたらポジティブでした。そのポジティブさを十分の一でも分けてもらえれば、いえそれはそれでイヤですね。明るく前向きな瞳子なんて瞳子じゃありません。


 最後に瞳子はお茶を一杯もらってから帰りました。


 一日の苦労の対価がお茶一杯。素敵滅法な一日でした。

 

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