8/2
サイドテーブルに置かれた時計を見やれば、時刻は午前六時でした。
ビビります。なんでこんな朝早くに起きたんでしょう。瞳子は現代の高校生らしく、きちんと遅寝遅起の習慣を守っています。規則正しい生活リズムこそが、生き馬の目を射ぬく現代社会の生活を営ませるのです。朝六時なんて時間に起きることはただの異常事態で、健康を害する行動以外の何物でもありません。年寄りの冷や水、ベジタリアンに松坂牛です。こういう時は二度寝ましょう。決意してベッドにもぐって、そして気づきます。はて、ベッド? 瞳子は普段布団で寝ています。だってベッドなんていつ落ちるか分からないもの、恐ろしくてとてもじゃないけど使えません。別に瞳子の寝相がひどいとかそういうのではないのですよ? ただ単に、ちょっと落ちそうでヤダなぁってそれだけの話です。さておき、そんなわけで瞳子の屋敷にはベッドは一つもありません。ということは、ここはどこ?
そこは白い部屋でした。白い机、白いイス。白いクローゼット。広さは十畳ほど。ベッドのそばには窓があり、そこから緑色の銀杏の木が覗けました。人工的な清潔感にあふれ、真っ先に思いつくものは――病院。でも、なぜ、瞳子が病院のベッドで寝ているのか。そういえば昨夜、とそこで思い至ります。フラッシュバックする記憶に、胸の中にすっぱいものがこみあげましたが、いがいがとする吐き気をなんとか飲み下し。「そっか、瞳子は倒れたのでした」
「あ……瞳子……?」
その声は、静まり返った病室によく響きました。驚きのあまり背筋が一瞬こわばります。そんな瞳子の様子をしり目に、声の人物は大きく伸びをして、
「あーよく寝たわ。瞳子は大丈夫――って何よ。そんな鳩が猟銃くらったような顔して。そんなに私がここにいるのが意外?」と、声の人物、光は言いました。
「いたのですか」気がつきませんでした。
「昨晩のことだけど瞳子はおぼえてる? どうして自分がここにいるかわかる?」
「ええ」瞳子は昨日の晩のことをきちんと思い出していました。夜の学校に行ったこと。死体を見つけたこと。そして、気を失ったこと。大方心配した光が、わざわざ病院に搬送させたのでしょう。「大正解」光は答えました。
「心配もするわよ。だっていきなり倒れるんだもの」
「だってしょうがないじゃないですか。あんなの」
死体なんて、初めて見たのですから。
「先生、呼んでくるわね」
瞳子の言葉を打ち切るように短く言って、光は出ていきました。
なぜでしょう。それは少し、光らしくない態度のように瞳子には感じました。
二分と経たずに光は一人の男性を連れて戻ってきました。高橋と名乗ったその男は、いくつか形式的な質問を瞳子にして、
「まあMRIとるようなこともないでしょう。ちょっと疲れたが溜まっていたみたいですし――あまり寝てなかったりするんじゃないんですか?」曖昧に笑ってごまかす瞳子に一つ溜息をもらして。「若いからと言ってあまり無理するものじゃないですよ。また気になることがあったら来てください。どんな下らないことでもかまいません。何か不安があるとか。そんなことでも、気軽に」
あっさり言ってから、退院の許可をくれました。
「それから、光様も」
「私?」
「私程度が言うことではないかもしれませんが、もしも気になることがあるようでしたら、なんなりと、どんなことでも当院が全力でサポートしますので」
「わかってるわよ。でも、今は瞳子の方が大事よ」
光様がそうおっしゃるなら、と医者は素直に引き下がりました。
瞳子が入院、というか一晩の宿としたのは村に一つだけある大きな総合病院でした。昔は村にはおじいさん先生が一人だけでやる診療所が一つあるだけで、不便なこともあったのですが、ついこの間、確か一年ほど前でしたっけ、いきなり先進医療研究センターなる施設が村の端に出来ることが決まったのです。そして、それに付随する大型の総合病院が開業したのが今年の六月のことでした。だから見慣れない病室だったのですね。考えてみると、ここに来るのは初めてです。真新しい建物独特の粉っぽいような空気は微かに胸にしみる気がしました。
誰もいない夜間診療受け付けの前を通り過ぎて外に出ます。病院の前のロータリーにはタクシーもなく、瞳子たちは歩いて家に帰ることにしました。病院から家まで歩いて二十分ほどの距離にありました。
朝の空気は瑞々しく、胸の奥につかえた物を忘れさせてくれるようです。日はまだ低いけれど、じっとりと汗ばむ熱気を感じさせます。今日も元気に核融合を続けているようでご苦労様。いっそ冷えればいいのにと、夏になるたびに思う無体な願いは胸の中で消えました。とはいえ、太陽から放射されている光は、実際は太陽中で散乱されて出てきたもので、今見ている光の年齢を考えると(もちろん光の年齢なんてものに本質的な意味はありませんが)だいたい数百万年前の太陽活動によるものらしいです。ということは今すぐ太陽が突然活動を停止してもすぐには涼しくなるということはあり得ません。人の世は常に見ず知らず聞いたこともない遥か彼方の昔の因業で動いているものなのです。
病院を抜けて、誰もいない農道を二人で歩きます。
「ねえ、光」光は瞳子の後ろをゆっくりと歩いていました。押し黙っている空気は少し、気まずい。「光はなんで黙っているのですか?」
「言うことが思いつかないからよ。瞳子、あんたはなんで昨夜倒れたの?」
なんでと言われると困ります。それは多分、老衰の果て眠るように死んだ人になんであなたは死んだのか問うようなことでしょう。
「死んだ人にだって聞けるものなら聞くんじゃないかしら。それで、そんなにショックだったの、死体が?」
「倒れたのだからショックだったのだと思います」
「そう」光は呟くように言いました。「私は瞳子が倒れたほうがショックだったわ」
それはさすがに、どうなんでしょう。人が一人死んでいるのに、その人よりも周りの人間を心配するというのは、あまりにも外道なのではないかと。
「あら、私を批判するの?」
「批判してはいけませんか?」
「ううん。全然。むしろ嬉しいわ」
マゾッホ伯爵的なアレなのでしょうか?
農道を通り、小さな林を抜ける細い小道を歩いていきます。乱雑に並んだ朝の細長い影が格子のように二人の足元に伸びて、瞳子たちの影を食べては吐き出し食べては吐きだす。
「だってあんたくらいしか私のことを批判する人、いないもの」光の声はその影の中から響きました。「だからよく知りもしない自殺者と瞳子なら当然瞳子の方が大事よ」
「昨日のあれは自殺だったのですか」
「時計台からの飛び降り自殺。上に遺書も見つかったそうよ。ほんと――下らないわ」光は不機嫌そうに。言い捨てました。「こんなことあなたに話すことじゃないわね、そう言えば瞳子、こんな小話知ってる?」
光に適当に相槌を打ちながら、瞳子は昨日のことを思い返していました。
飛び降り自殺。
重たい何かがぶつかる音が、耳の奥で響いたような、そんな気がした。
****
光は瞳子を家まで送った後なにも言わずに帰って行きました。さすがにその日のうちに何かをするほどの気力は無かったのでしょう。だから瞳子は一つ、例の事件について個人的に調べてみることにしました。
「昨晩のことを教えてほしい?」受話器を通した歪の声はいつも通りに聞えました。
「別にあたしは構わないけど、どうしてお姉ちゃんに聞かなかったの?」
光がなんだかそのことに触れて欲しくないように感じられたからです。
「お姉ちゃんが喋りたくないことをあたしが喋ると思う?」
「いえ、期待はしていません」
「じゃあなんであたしに電話したの?」
「他にいないからです」
「ふうん、まあいいよ」あら意外です。「別に、お姉ちゃんが話したくないことを話さなければいいだけの話だよ」
歪は簡単そうに言い切りました。
「その代わり、交換条件じゃないけどさ、あたしも先輩に一つお願いがあるんだけどいい?」
「なんですか?」
「小山内先輩が昨日履いていた下駄を見せて欲しいな」
瞳子と歪は直接会うことにしました。場所は最寄りの喫茶店。瞳子の家は村の中心部から離れているので、歩いて三十分ほどの場所にあります。
****
からんと、扉についたカウベルが呑気に声を上げて来訪者を歓迎しました。クーラーの冷たい風が火照った体を心地よく包みました。
「遅いよ、小山内先輩」歪は隅のテーブルに座っていました。他のお客は誰もいません。空いていて良かったと心の中で息をつきます。
「随分早かったのですね」
歪の前におかれたグラスは、もう氷だけになって、わずかに底面が黒く色づいているだけでした。多分アイスコーヒー、対抗馬でコーラ、大穴でウーロン茶です。瞳子の家からも歪の家からも、そのお店までの距離は大差がありません。それなのに歪がお茶一杯分早く着いているということは、歪は自転車で来たに違いありません。「むしろこんな暑い中歩いてここまで来る方がバカみたいごめんなさい、小山内先輩は自転車乗れないんだったね」
「そんな馬鹿にしたみたいな口調で言わないでください」
「別に馬鹿にはしてないよ。むしろ可愛くていいんじゃない。きっとよく萌えるよ」
わけのわからないことを言う歪を無視して、瞳子はアイスティーを注文します。
「それで、例のブツは持ってきた?」
「なんですかその言い方は、ええ持ってきましたよ」
瞳子は手に提げていたビニール袋を渡しました。中には昨日瞳子が履いていた下駄が入っています。藍色の鼻緒のそれはそれなりに気に入っているものでしたが、渡すのをためらうほどのものではありません。
「それで、なんでわざわざ下駄なんかを持ってこさせたのですか?」
「ううん、そうねえ、小山内先輩、この靴昨日から洗ったりした?」
「いえ? でもなぜですか?」
「それは重畳だよ」
歪は機嫌がよさそうでした。その理由は皆目見当もつきません。
「話してくれるのですよね。なんで瞳子の下駄が必要なのですか?」光は少しの間沈黙しました。「言いにくいことなのですか?」
「実はあたし小山内先輩のこと好きなの」
……はい?
「その上足ふぇち。でも足をもらうわけにはいかないでしょ。だから靴を欲しいと思ったの。しかも出来ることなら一度使用した後で洗ってないものが」
瞳子は何も言えませんでした。無意識のうちに鞄を探ります。
「冗談だよ。なによ、そんな真顔で黙っちゃって。ってこら。無言で出ていこうとするのやめてよ! 嘘だってば嘘! 本当に足ふぇちなら多分ストッキングとか欲しがるはずだよ! 大体あたしはお姉ちゃん一筋なんだから。ほら、まだ紅茶も来てないのに、もったいないよ」
見計らったようなタイミングで紅茶が届いて。瞳子は仕方なく席につきました。
「まったくもう、冗談が通じないんだから。小山内先輩って本当に人が嫌いなんだね」
「別に嫌いじゃないですよ」ただ、瞳子はヒトが苦手なだけです。
「それで本当に何なのですか?」
「そうね。別に証拠とかあるわけではないわ。これはまだ単なる可能性の話。そのことをきちんと頭に置いて聞いてね」と前置きをして、そして歪は声をひそめて言いました。
「もしかしたら、米倉浩二の死は他人の意思が極めて強く反映されているかもしれない」
他人の意思? 奥歯にものが挟まったみたいな中途半端な言い方です。それってつまり。
からりと、カップの中の氷が音を立ててその立方を崩しました。
つまり、殺人よ。と、歪は心底面白そうに、そう言いました。
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米倉浩二がその夜、家を自分の意思で抜けだしたことはほぼ間違いない。その夜というのはつまり彼が死んだ昨晩のことだ。最後にその生きている姿が確認されたのは夜の六時過ぎ、確認したのは両親と兄だった。米倉家では家族そろって晩御飯を食べる習慣があるらしく、その晩も例外にもれなかったのだ。その時の彼は、好きなアイドルについて兄と明るく語り合うなどいつも通りの様子で、特に変わった点は見られなかったと、家族は証言している。そして夕食が終わり、すぐに浩二は自分の部屋に引っ込んだ。それが七時ごろ。そこから死ぬまでの二時間余り、浩二の姿は誰にも確認されていないようだ。彼の部屋の様子も、例えば荒らされた形跡などは存在せず、普段と変わっていた点は特に見られなかった。窓の鍵が開いていたのでどうやらそこから出たもよう。浩二の部屋は二階にあったが、窓のすぐそばには雨どいのパイプが這っていて、それが地面まで続いていた。そこを伝って行けばまず安全に降りることは可能だろうと、警察は結論づけていた。彼の家から学校までは歩いて四十五分ほど、普段は自転車で登校していたらしい。歩いて四十五分なら、自転車で十五分程度だろう。彼の自転車は家に置いてあったままだったらしく、歩きで学校まで行ったということになる。その点が不思議と言えば不思議かもしれないが、でも死ぬ前くらいゆっくり自分が生まれ育った場所を見たかっただけとも考えられた。
以上の事実は警察が一日の家で調べたものだそうです。そこからその日の彼の行動を再現するとこのような物になります。
六時、食事をしながらかわいい女の子について語る。七時、自分の部屋に引っ込む。七時から八時くらい、窓から家の外に出て学校へ。九時前、飛び降りる。
死亡推定時刻は午後八時四十五分くらい。そしてそれは発見時刻とほぼ重なります。
発見された場所は瞳子たちが通う学校の敷地の林にある時計塔の真下、死体の第一発見者は瞳子、光、歪の三人。瞳子たち三人のその時の行動はすでに記述したので割愛します。言ってしまえば、瞳子は死体を見て倒れて、光はその介抱と警察消防への連絡。歪は一目散に時計塔を駆けあがったとのことです。
そういえばなんで歪は時計塔に上がったのでしょう。
「死体はまだ出来て間もないみたいだったし、もしも殺しならまだ犯人は近くにいるはずだと思ったのよ、で、いるとしたら塔の中じゃない」
歪は呑気に答えました。
危機感のないヒトです、というかそれってかなり危険だったのでは。もしも殺人犯があの中にいたなら歪が襲われて死体が一つ増えていただけ、という気がしないでもありません。
「心配はいらないよ、だってあたしは強いもん」
歪はあっけからんと言い切りました。ああ、そうですか。
「それで、中には誰かいたのですか?」
「いいえ、誰もいなかったよ」じゃあ意味ないじゃないですか。なじる瞳子に歪は不敵に笑いました。「そうでもない」
何なのですか。
「まあ先を読んで」
渋々瞳子は手元の文章に戻ります。
時計塔の構造は極めて単純です。外から見た感じでは単に細長い丸い塔です。鉄筋コンクリート製で、高さは三十五メートル、半径は一番太い下の部分で四メートルほど、上に行くほど細くなるので一番上では三・五メートルほどになります。基本的に中に入っているのは時計と鐘の機械だけで、後はそれらが置いてある最上部へのらせん階段ということになります。ほんとなんでこんなもの作ったのでしょう。謎です。時計塔に入る扉は一つだけ、つまりそれは歪が通った扉であり、米倉が最後に通った扉と言うことになります。その扉の鍵は普段閉められているが、その日はどういうわけか鍵が開いていました。米倉浩二が何らかの手段で愛鍵を作っていたのではないか、というのが警察の見解です。
時計塔から外部に出られる場所は三つあります。一つ目は当たり前ですけど、出入り口、地面に接した扉。二つ目は文字盤の表面、ちょうど9の部分が窓になっていて、無理すればそこから外に出られると、時計塔に詳しい技師が証言しています。最後の一つは一番上、鐘つき堂です。そこはかつて鐘をヒトが突いて鳴らしていときの名残でヒトが上れるようになっています。一応、腰の高さほどの塀がありますが、それくらい成人男性なら余裕で越えられるでしょう。ちなみに米倉浩二は上の方の鐘の部分についている窓から飛び降りたようです。そりゃそっちの方が確実に死ねそうですからね。合理的です。ただ、それくらいの高さでも死に切れるかどうかは確実ではないらしく、米倉は頭からがつんと行ったから死ねた、というのが正しいようです。死因は所謂脳挫傷、打撃によって脳が損傷して死んだとのこと。誰かと争ったような形跡もなし、薬物も体内から検出されなかった。つまり米倉は極めて自然に落下したということになる。死体は靴を履いていなかった。もちろん学校まで裸足で来たということもなく、履いていた靴と遺書は時計塔のてっぺんに置いていた。靴は彼が普段から履いているスニーカーだった。それから最後に、瞳子が現場で踏み割った何か。それは彼の眼鏡でした。より正確には彼の眼鏡の一部。彼はどうやら眼鏡をつけたまま飛び降りたようで、落下する途中で外れて死体とは離れた場所に落下、粉砕。その一部を瞳子が踏み割った、と。
以上が死体の概要です。
最後に、遺書について書きましょう。彼の遺書はほんの一行。
『檻場光様、あなたのそばにいられないのならば、僕は死んだ方がましだと思えます』
それから署名だけでした。実にあっさりしたものです。筆跡鑑定の結果、間違いなくこの文章は彼自身が書いたものだと確認されました。
以上のような証拠から、米倉浩二は自殺したと判断されました。
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瞳子はその書面から顔を上げました。
「感想は?」
「これどこから持ってきたのですか?」
「警察のコンピュータ」
ハッキング?
「まさか。ちょっと知り合いにお願いしただけよ。あたしはコンピュータとか機械全般に弱いもの」歪は笑いました。一応納得。瞳子にも警察関係の知り合いはいますし、多分知ろうと思えば出来なくはありません。重箱の隅をつっついていても仕方がないようです。時間稼ぎしたかったというのが本音ですけど。
出来ることなら本題に入りたくないのです。でも仕方ない。覚悟を決めて、
「それで、米倉浩二が自殺したのではないと判断した理由は何なのですか?」瞳子が問うと、歪は逆に問い返す。「小山内先輩はおかしいと思わない?」
おかしい? 正直な話、瞳子にはそれほど奇想天外なストーリーとは思えませんでした。ただ自殺願望の持ち主がふらふらと夜学校にやってきて飛び降りる。それだけです。強いて言うなら動機でしょうか。あの遺書をそのままに受け取りますと、光に振られたのがショックで自殺した、ということになります。振られてくらいで自殺? 光に振られたヒトなんて村にはごまんといます。振られたくらいで死んでいたら、村はとっくに全滅です。誰かに振られたから自殺するなんて、瞳子にはちょっと信じられない感性でした。愛とか恋とか、命より大事? だってそんなの生殖するための方便にすぎないわけで、矛盾しませんか。
「小山内先輩はバカねえ。問題はそこじゃないよ。大体お姉ちゃんが原因で自殺するなんてとても普通で、普通すぎて欠伸が出るほど。むしろお姉ちゃんがそばにいるのに、お姉ちゃん以外の原因で自殺するほうがよほどおかしいのよ」
歪の方がよほどおかしいと思う瞳子は間違っているのでしょうか。
「ええ、それはもうばっちり。だって小山内先輩はとびっきりの異常だもん」
……まあいいですけど。だとしたら一体ほかにどこかおかしな点があるのか。メガネをつけたまま自殺したこと? 女性は死ぬ時に見た目を気にする傾向があって、普段眼鏡をかけているヒトでも外して自殺することが多いと聞いたことがあります。自分が死ぬという時にまで見た目を気にするとは、世の女性とは執念深いものです。
けど米倉浩二は男だし。
「わからない?」
「わかりません」
そう答えると歪は得意そうに言いました。
「遺書に着目したのはいい着眼点だったと思うわ。あの遺書ね、あれは遺書じゃないわ」
「どういうことですか」
「あれはお姉ちゃんに渡された米倉浩二のラブレターなのよ」
光はモテます。そして何故かこの村では恋文という、古式ゆかしい伝統的な手段で思いのたけを伝えるのがスタンダードな方法のようです。なので光は当然(当然?)米倉浩二からも恋文を受け取っていて、その文面と遺書の文面がそっくりであったと。
「そんなのアンフェアです。瞳子の知らない情報を使って結論を出すなんて!」
「別にいいでしょ。あたしと小山内先輩は推理勝負してたわけじゃないし」
瞳子の怒りを歪は涼しい顔で受け流しました。
それはそうかもしれませんけど。けど、歪の語り口から、なんとなく瞳子にも推論できるのではないかと思っていたのです。
「小山内先輩は推理小説に毒されすぎだよ。大体において現実は本格推理物なんかじゃないし。どっちかっていうと」歪は少し言葉を選んで。「エログロサスペンス?」
にべもありませんでした。
「しかも十八禁」
未成年は違法プレイ状態らしいです。
「若いころは人生全力で頑張れってことだよ。遊びとか言いだすのは大人になってからで十分」
と、瞳子の一つ年下の未成年が言いました。
気を取り直して、
「それで、どのくらい似ていたのですか?」
「似ていたじゃないよ。全く同じ。もちろんあたしの記憶が正しければ、だけど。だけどあんな特徴的なラブレター他にないと思うし、まず間違いないと思う。これがどういうことか小山内先輩なら分かるよね?」
遺書は遺書ではなかった。つまり、
「米倉浩二の遺書は偽造されていた?」
「偽造、というより偽装ね。でもなんで遺書を偽装する必要があったのか?」
もともと遺書があるならばそんなもの偽装する必要はない。偽装する必要が出てくるのは、本当は遺書なんてものは存在しなかったから?
「でもなぜありもしない遺書を誰かが残さなくてはならなかったの? 考えてみてよ。遺書を偽装するってことは、その人の死に関わるってことだよ。これってかなりリスキー。もしばれたら警察には睨まれることになるし、心理的にもそんなに愉快なことじゃないでしょ。そのリスクを冒してまでなぜそんなことをするの?」
リスクを犯すのはそのリスクに見合うだけのリターンがあったから。でも、ヒトの死に関わるリスクに見合うほどのリターンと言うと――それこそ、ヒトの死に関わるものくらい。
例えば、他殺を自殺に偽装する、とか。
クーラーがいきなり強くなったような、そんな錯覚をおぼえました。意図せず体が震えます。瞳子は自分の体を抱き締め、それでも体の震えは治まりませんでした。
「ね、面白いでしょ?」
歪の言葉はまるで新しいおもちゃを手にした子供のようでした。瞳子を異常と断言する資格がどこにあるのでしょう。奇妙な浮遊感。現実の膜がうすくはがれて向こう側が見えたみたいな。そんな気分。無論錯覚です。
イヤな気分も一緒に飲み下してしまおうと、目の前のカップに残っていたアイスティーを胃に流し込む。お茶もまるで水のように味気がありませんでした。
「寒くなってきた。そろそろ出よう?」
歪の言葉に瞳子も頷きます。店に入って一時間ほど、時計は四時近くをさしていました。お勘定をすませ、外に出るとむっとする熱気が瞳子の体を包みました。湿った植物の様な植物の匂いが鼻を覆います。どこかそれにホッとする瞳子がいました。だんだん頭に血が戻ってきて、思考が動き出して。
「でも歪、それだけでまだ遺書が偽装されたとは限らないです。例えば偶然、米倉が恋文と全く同じ文面の遺書を書いたという可能性もあるじゃないですか」
「好きな人に告白するのと自殺するんじゃ随分違うじゃない。まあ清水の舞台を飛び降りる気分であることに変わりは無いのかもしれないけど、でもあたしなら遺書とラブレターを一緒にはしないよ」
そりゃそうです。瞳子だって多分いえ、それ以前に瞳子が誰かに恋したいり恋されたりなんて、そんなことありえませんけど。
「でも可能性としては否定できません」
歪は一応その可能性を認め、認めたうえで、
「でもそれなら、お姉ちゃんに送られた方のラブレターはまだうちに残っているということになるね。逆に言えばそれがなくなっていれば、その仮説はつぶれる」
「光が無くしただけかもしれませんよ?」
「ラブレターが遺書に偽装された可能性が高まるわ。証拠とまでは言えなくとも、あたしの説を補強するでしょ?」
「光がそんなきちんと恋文を管理しているとは思えないのですけど」
「ご存じの通り、お姉ちゃんはそういう面倒なことしないよ。全部あたしに丸投げ。だからあたしはお姉ちゃんに送られたラブレターの詳細を知ってるの。そしてあたしの管理は万全よ。なくなるとしたらそれこそ」
盗まれた場合くらい。歪は自信たっぷりにそう言い切りました。
「じゃあいいです。実際確かめれば取りあえずどちらかはわかるはずですし。それは調べないと分かりません。でも違う可能性もありますよ」
「それはどんな?」
「自殺した米倉が自分で遺書を書かずに、恋文で代用した可能性」
「つまり遺書を書くのがめんどくさくて、昔一目ぼれした人の家に侵入して自分が書いたラブレターを盗んで、それを遺書がわりにしたと? そっちの方がよほど面倒だわ」
「何か書けない事情があったとか」
「書けない事情って何よ。筆記用具がなかったとか? それは残念ながらダウトだわ。だって学校に筆記用具がないはずないもの」
「腕を怪我していたとか」
「その日の夜、死の数時間前にご飯を食べているのよ? もしもペン使えないほどのけがならお箸だって使えないでしょ。そしたら証言が残ってると思う。それに死体は包帯とかしていなかったし、ひどいけがをしていたとは思えない」
瞳子は少しの間沈黙しました。これは聞きたくありませんでした。けれど、
「でも、もしも米倉が殺されたとすると当然犯人がいるわけですよ。それじゃあ犯人は誰だと思うのですか?」
「さあそれはわからないわ。というかすぐわかったら面白くないじゃない?」
同意を求められても困ります。
「というか」歪は不思議そうに問うた。「というかなんで小山内先輩はそんなに自殺にこだわるの? そんな可能性を考えるくらいなら、他殺と考えた方がよほど自然じゃない。自殺にこだわる理由が何かあるの?」
言葉に詰まりました。無理矢理話題を変えます。
「それで、歪はこの事件をどうするつもりですか?」
「取りあえずお姉ちゃんと警察に伝えるのが一般人の義務じゃないかしら。話はそれからだわ」それから歪は小さな声で、「多分、真犯人を探しましょう、ってことになると思うのだけど」と続けました。光の性格なら大いにあり得そうなことだと思いました。
目に浮かぶようです。光が意気揚々と、ホームズを自任するありさまが。気が重くなる想像でした。そして得てして悪い予想と言うのは当たるものなのです。
「ため息ばっかりついてると幸せが逃げるよ?」
瞳子の幸せ、今まで何匹逃げてったのでしょうか。
「歪はどうしたいのですか?」
「それはどういうこと?」
「歪自身はこの事件に関わりたいと思っているのですか、と聞いているのです」
「あたしとしてはどっちでもいいわ。お姉ちゃんが楽しめるのならそれで、満足」歪はどこか遠くの空を見つめるような調子で「満足だよ」と、繰り返しました。
取りあえず、今日の話はそこまでにしようと歪は提案してきたので、その提案に瞳子は一も二もなく賛成しました。もう色々と頭がいっぱいで、一人で考えたいこともありました。
帰る段になって、歪は瞳子も自転車に載せて帰ろうかと言いましたが、まっとうな常識人の瞳子は交通規則を守って帰ると、丁寧に固辞しました。
「頭が固いわね。そんなんじゃこの事件は解決できないよ、ヘイスティングス!」
名探偵気取りの捨て台詞を残して、歪は土煙と共に去って行きました。どっと疲れが押し寄せます。ああは言ったものの、歩いて帰る気にはなれませんでした。やっぱり瞳子もなにか移動手段を考えた方がいいのかもしれません。でも、なんだかああいうものに乗ると、事故ってヒトを殺してしまいそうで。結局一番現実的なのは。
喫茶店に戻り、電話を借ります。
「もしもし瞳子です。ええと誰ですか、恭子? ちょっと迎えに来てほしいのですけど」
家に住むお手伝いさんの一人に車で迎えに来てもらうという他力本願の極みな手段なのでした。迎えに来てくれたのは恭子というまだ二十歳になったばかりのお手伝いさんでした。彼女の乗ってきた芥子色のクーペに乗って瞳子は帰路につきました。