8/1 part2
「ちょっと瞳子、目を覚ましなさいよ!」
私が呼んでも瞳子はうんともすんとも返事をしなかった。胸がざわついた。辺りは月明かりがあるとは、木々に囲まれた林の中は視界が悪い。頼りになるのは手に持った懐中電灯くらいだった。その上目の前にはもの言わぬ死体が一つ転がっているのだ。不安にならない方がおかしいだろう。
そう死体だ。それは一目瞭然の死体だった。こんなにも血を流して、あんなに頭が歪んでしまって生きている人間なんているとは、私には到底信じられない。死体は男子のものに見えた。血に染まったシャツ、スラックスから覗くのは血の気のなくなった素足、中肉中背、あまり特徴があるとは言えなかった。強いて言うなら死んでいることが最大の特徴。自分で考えてあまりの趣味の悪さに一つため息が漏れた。
でも今はそんなことよりも、それよりも倒れた瞳子の方が問題だった。取りあえず死体のそばに倒れた瞳子をかついでそばにあったベンチの所まで運ぶ。息は、している。脈も、ある。ただ単に気を失っているだけのようだ。小説の中の人物の様な反応をする子だ。まあヒステリー起こされるよりはましと思うしかない。なんとか瞳子をベンチに寝かせて、私もその横に座る。なんとなく、彼女の頭を私の膝の上に載せた。だって枕が硬かったら痛いじゃない。
その日瞳子が着ていたのは白地に、水玉模様が散らされたシンプルなデザインの浴衣だった。彼女は普段着に浴衣を着るらしい。最初その姿を見たときは、その凛としたたたずまいと、瞳子の幼い見た目のギャップが私の胸に直撃したものだ。
けれど、今となってはそれも台無しだ。浴衣にはべっとりと赤い血がついていて、本来の水玉をつぶしている。倒れた時についたのだ。一瞬それを脱がしかけて、でも他に着せるものがないことを思い出して、浴衣を整えるだけで済ませておく。瞳子が小さく身じろぎした。髪がベンチからこぼれて、白い、華奢うなじがあらわになる。一瞬それに目を奪われて、そして我に帰った。思春期の男子か、私は。
懐から瞳子愛用の懐中時計がこぼれ落ちた。慌てて拾い上げる。
浴衣といい懐中時計といい、大時代的だ。変わった子だと思う。
実際瞳子はとても変わっていた。今まで見た他人の誰とも違う。街にいた大人とも、子供とも、女とも男とも。それから歪とも。どうしてなのかはわからない。でも私にとって、とても貴重で、そして好意を抱くには十分のもので――私はなにを言っているんだろう。こんな血なまぐさい夜に。
「おねえちゃん!」とその声が夜のしじまを切り裂いたのは、無意識のうちに彼女の唇に手を伸ばしかけたまさにその瞬間だった。
「な、何よ! 別に私は何も縦縞なことはしてないわよ!」
「何の話!?」とやはり叫ぶような声が響く。けれど辺りに彼女の姿は見当たらない。声は真上から聞こえた。歪は時計塔のてっぺん、文字盤よりもさらに上、鐘のそばから呼んでいたのだ。下からでは彼女の頭が小さく見えるのみで、満月の灯りの下で、歪の白い顔がぼんやりと浮かびあがっているように見えた。
「歪、何か見つけたの?」叫ぶように問いかける。
「遺書らしきものがあったけど。お姉ちゃんも誰か出ていく人とか見た?」
「あやしいことは何もなかったわ!」
「わかった! じゃああたしも下に降りるね。これ以上現場を荒らしたら警察に怒られそうだし」とそう叫んで顔が引っ込んだ。耳を凝らせば扉が開くような音が微かに聞えて、多分時計塔の中に入ったのだろう。私はより深くベンチに座り直した。もう一度見上げる。文字盤は午後九時になったことを知らせていた。
上には遺書。あやしい人物は少なくとも私も歪も見つけられなかった。ということはやはりこの死は自殺だろう。私はもう一度その死体を見た。よく見ると、その体つきや顔つきには見おぼえがある気がした。というか、あ。
「どうしたの?」
降りてきた歪が問うた。どうして今まで気が付かなかったのだろう。その死体が着ていた服は、私たちが通う学校の制服だった。ということはもしかして、死体は私の知り合いかしら?
「その人は米倉君よ」私の問いに歪は間髪いれずに答えた。
「米倉君? ええとそれって誰かしら?」
「ほらお姉ちゃんのクラスメイトにいたでしょ。ちょっと暗くて、たまに眼鏡をかけてる。ほら、学校で一人だけ髪染めてる人がいるでしょ、似合わない金髪の。あの人の弟だよ」
そう言えばそんな人がいたような気がしないでもないわ。
「でもなんで歪はソレが分かったの?」
歪のことだから学校の構成員全員の名前をおぼえていてもおかしくはないけれど、でもあんな損壊した死体を見て分かるものかしら。
「上に置いてあった紙を見たのよ。最後にフルネームで書いてあった。まさかこんな小さな村で同姓同名なんてことは無いでしょ。ただ……」
「ただ?」私が促すと歪は。「ううん……まだ言えるような段階ではないけど」
「別に無理に言わなくてもいいわ」
「ありがとうお姉ちゃん。終わったら教えるよ。ただちょっと手紙の内容が、気になって」
「どんなことが書いてあるの?」
「それは今上に置かれている紙の事?」
「当たり前じゃない。他になにがあるのよ」
「あっさりしたものだよ。紙きれ一枚、短文一つ」
「なによ、ごまかさないで言いなさい」
「『檻場光様、あなたのそばにいられないのならば、僕は死んだ方がましだと思えます 米倉浩二』」私は黙って聞いていた。「上に置いている紙には、そう書いてあったよ」
遠くからサイレンの音が微かに聞えてくる。きっと後五分もすれば警告灯で夜は深紅に染まるだろう。私は今すぐにでも帰りたい気分だった。でもそういうわけにもいかない。少なくとも瞳子を放っては帰れない。だったら瞳子だけ連れて帰ろうかしら。それも瞳子に迷惑がかかりそうだ。見上げれば、月明かりに照らされて浮き上がるように文字盤が見えた。時刻は九時十分。これでは、肝試しは諦めるしかなさそうだった。