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8/1 part1

 

 八月一日は珍しく光たちと会わずに終えようとしていました。


 それまでほとんど毎日のように三人で海に行き、山に行き、川で遊び、部屋で遊び、と遊び倒していたので光もいい加減疲れがたまっていたのでしょう。


「遊びに集中するためにはきちんと休息をとることも大事よね。明日はまだ予定なんて立ててなかったし、一日休むことにしましょう」


 光が宣言したのはきっちり二十四時間ほど前の話。そんなわけで屋敷の端におかれた電話のベルが鳴った時、瞳子は自室の畳の上に腹ばいになって、小説を読んでいました。読んでいたのは確か、カーか横溝か、その辺。誰かが受話器に向かう足音がします。鴬張りというわけではないけれど、それでも飴色に光る年代物の檜の廊下はよく音が響きます。足音は多分由希のだろう、と瞳子はあたりをつけました。由希は小山内の屋敷に住み込みで働いているお手伝いさんの中の一人で、今屋敷で働いているお手伝いさんの中では最古残の一人です。なんといっても瞳子が生まれる前からここで働いているのだから、屋敷のことは彼女の方が瞳子よりもはるかに詳しい。電話が鳴りやんで、


「お嬢様、光様からお電話です」


 電話を取り次いできたのは、やはり彼女でした。受話器を受け取ると途端に光の明るい声が頭に響きました。


「あ、瞳子? ちょっと今から会えない?」


「今日は一日ゆっくりするんじゃなかったの?」答えながら時計を見やるともう八時を回っていました。「それにもう外は暗いし、明日じゃダメですか?」


「歪が学校に本を忘れたとか言ってて。どうしても今から読みたいんだって」


 迷惑な話だと思いました。けれど、確かに無性に手元にない本が読みたくなる時ってあります。でも学校に忘れるなんて随分不用心なものです。瞳子は迷って、慎重に言葉を選びます。


「でも瞳子が行く意味はあるのでしょうか?」


「別にないわよ。だからせっかくだし肝試ししない?」


 せっかくって、また何の脈絡もなく思いつくものです。


「何言ってるの、夜の学校と女子高生が集まったら、もうそれは肝試しするものと学習指導要領で決まってるのよ!」


 今から三十分後にいつもの分かれ道に集合ね、と一方的に言ってから電話は沈黙しました。もう、本当に光は。ぼやいてから瞳子は由希を呼びます。さすがに部屋着で光たちに会うわけにはいかないだろう、とそれくらいは考えていたのです。


「お嬢様、楽しそうですね?」


 由希のからかうような声を、瞳子は黙殺しました。

 

「瞳子、遅いわよ」約束の場所に到着した瞳子を出迎えたのは光の叱責の声でした。懐から時計を出して確認したところ、ちょうど八時半ぴったり。ただ単に二人が早いだけです。


「小山内先輩はよく出させてもらえたね」歪が意地悪そうに問います。「こんな夜更けに外に出るなんて、由希さんはさぞや心配したんじゃない」


 それが分かるなら呼ばないで欲しいものです。でもご安心を。光と歪が一緒だと言えば、すぐに許してもらえました。彼女達、もとい光の信用はこの村では絶大でした。


「それじゃあ行きましょ、夜はこれからよ」光の号令のもと三人は歩きだしました。


 東の空の中ほどに、磨き抜かれた鏡の様な月がかかっていて、あたりはをうっすらと影が出来るほどに照らしていました。ほんの少しかけた満月。だからこそ遠くに見える林の暗さは際立つようで、もしかしたら瞳子は不安そうな顔をしていたのかもしれません。手のひらに暖かいものが重なりかけて、瞳子はごく自然にそれをかわした。


「お姉ちゃん振られてやんの。しょうがないからお姉ちゃんの手はあたしが握ってあげる」


「ち、違うわよ!」


 にぎやかな二人の声が夜の闇に吸われて消える。念のためにと由希に持たされた懐中電灯の作る丸い光を追いかけて三人はにぎやかに歩きます。田んぼから聞こえてくる蛙の大合唱は何を歌っているのか、三人が近付くと声をひそめるのでわかりません。聞こえてくるものただ、曖昧な愛の歌と、風に揺れる木々のざわめき。遠くで犬が物悲しげに細く叫びました。こんなにも妖しい夜だから、光は肝試しなんて思いついたのでしょうか。そのとき、


「なにか、聞えませんでしたか?」不意に、列の最後尾を行く瞳子が小さく声を上げた。


「なあに? 犬の遠吠え?」


「それはあたしも聞こえた」


 光と歪は怪訝そうに顔を見合わせました。


「それじゃなくて、何か重いものが落ちるような」三人の足がぴたりと止まります。


「私には聞えなかったわ、歪は?」


「あたしにも……小山内先輩、それはどっちの方から聞こえてきたの?」


「学校の方です」瞳子の答えは、なんとなく三人に不吉な印象を抱かせるには十分なものでした。その場に降りた冷たい空気に、慌てて瞳子は取り繕います。


「あの、でも別に何が落ちたとか分からないですし、ほら、窓の下に置かれていた花瓶が落ちたとかかもしれないし、それにそもそも瞳子の聞き間違いかもしれないですし」


「もう、脅かさないでよ。とにかく先に進みましょ」


 光の声は、不自然に明るく、かえって不吉に聞えました。校舎は林に邪魔されて見えませんが、もうすぐそばでした。林の中に立つ時計塔だけが、月を突き刺す針の様なその姿を誇示していました。

 

 ****


 そして瞳子たちは学校にたどりついて、それを見つけました。


 場所は例の時計塔の目の前。


 瞳子にはそれが何か、最初わかりませんでした。頭の中を埋める疑問符。


 この全体的に赤く汚れた物体はなんでしょう。辺りに漂う鉄の匂いはなんでしょう。赤く染まった布の隙間から見える、白い棒の様なものはなんでしょう。あの黒い犬の毛の様なものはなんでしょう。この場に漂う、ひどくグロテスクなこの空気は、一体全体何なんでしょう。足元で何かが砕ける音がして、瞳子は無意識のうちに足元を見ました。ガラス片。ところどころ赤く染まったそれを踏み割ってしまったようです。


「な、なによ、これ」後ろから微かに震える光の声が聞こえてきました。いつの間にか瞳子一人が一歩前に出ていたようです。小さく震える光の横で、歪はまるで彫像のようにじっと動きを止めています。


「お姉ちゃん、警察と救急車に電話して」未だ混乱する瞳子の頭には、その声が場違いなほど冷静に聞こえました。「それから小山内先輩はお姉ちゃんと一緒にいてね」


「え、歪は?」

「あたしは念のために上を見てくる」

「それは、いえ、分かったわ。気をつけるのよ」


 大丈夫、と答える時間を惜しむように歪は駆けだしていきます。時計塔の正面に着いた黒い金属性の扉を勢いよく開けて、中に駆けこんで行きます。光は携帯を取り出して、どこかに電話をかけ始めます。さっき歪は警察と救急に連絡と言いました。それが意味する所はとどのつまり。


 瞳子はもう一度それを見ました。赤い液体、白い棒状の何か。損傷が激しくてはっきりとは言い切れませんが、それはざっくり言って、太い棒に四つの細長い棒と丸っこい何かをくっつけたような構造に見えました。四つの細長い棒は思い思いの方向に曲がっており、自由度の高い構造になっていることを示しています。丸い部分には特に損傷が激しく赤にまみれていますが、大まかな構造としては大きな裂け目が一つあり、その少し上に一対の穴が開いています。その穴からは白く濁った何かが見えました。


 ああこれってつまり。


 頭に霞がかかったように、思考が定まりません。こめかみがずきずきと痛みます。これ以上考えるな。これ以上考えても意味がない。ひきかえせと。側頭葉の痛みは必死に警告を与えているようです。でも残念瞳子にはもうわかってしまいました。いえ、本当は最初からわかっていたのです。ただ分かりたくないからわからないふりをしていただけで。


「――ええ、多分、もう死んでいます――」


 光のその言葉は、かすむ思考にも、やけにクリアに響きました。

 赤は血で、白は骨。あるいは脂肪だろうか? 瞳子にはもうわからない。


「警察がすぐ来るって……瞳子? ねえ瞳子、ちょっと大丈夫! 顔真っ青じゃない!」


 体が不規則に揺れる。光の声は脳にとどまることなく一瞬で駆け抜けていく。体から力も抜けていく。視界は黒い。空だろうか。でも今晩は月夜のはず。こんなに真っ暗なわけがない。だからこれは。意識がゆっくりとその中に落ちていく。多分瞳子は倒れたのだろう。不思議と痛みは感じませんでした。微かな暖かさを感じて、反射的にそれから身をそらす、そらしたつもりでしたが、しかし現実の瞳子の肉体はすでに瞳子のコントロールを離れていて、一ミリも動かずただぐったりと横たわるのみでした。そんなにショックだったのだろうか。ちょっと自分でもよくわかりません。


 たかが、死体じゃないですか。


 その言葉を最後に思い浮かべて、瞳子の意識は完全に闇の中にのみ込まれていきました。

 

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