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瞳子たちは地元の小さな無人駅に集まっていました。時刻は十時前、光が言った海水浴場は、列車で一時間ほどの場所にあるそうです。
「お姉ちゃん、小山内先輩、もう電車来るよ」
重い車両に悲鳴を上げるレールの軋み、駅舎のそばの踏切の警告音、車体が切る風の音、それらが渾然一体となった塊が耳に届き、そして間もなくホームに列車が入ってきました。くすんだ黄色のディーゼル列車は目の前で車両の中身をさらし、空調が効いた少しカビ臭い空気を吐き出します。乗客は一人もいませんでした。三人でホーム側のボックス席を占拠します。無人駅の自動改札の上に座った白い猫が、大きな欠伸をして、ちょうどそれが合図だったかのように笛が鳴り、車両が小さく揺れて、列車はゆっくりと滑りだしました。
「今から行く場所ってどんなところなのですか?」
「さあ私は行ったことないからよく知らないわ、でもあなたの伯父さんが紹介してくれた場所だから間違いは無いはずよ」
伯父さん? なぜ伯父が光にわざわざビーチの場所なんて教えるのでしょう。
「あの人はお姉ちゃんの信者なんだよ」二人の話を聞いていた歪が突然声を上げました。
信者って、光は神様?
「神様じゃないって。お姉ちゃんは天使よ」
どっちにしたって何様です。どう違うのですか。
「なんだか天使の方がきれいなイメージがあるよね?」
徒労感をおぼえました。
「徒労感ってなに? 中国の史跡の名前?」
それは、函谷関とかの仲間ですか。
「徒労感の戦い?」
「二人はなんの話してるの?」
瞳子にもよくわかりません。
一時間はあっという間でした。女三人集まればと言いますが、それは結構正しいのかもしれません。おしゃべりをしているうちにいつの間にか、車窓から見える風景は濃い緑の山々と田んぼの織りなす風景からだんだんとまばらな松林に変っていき、線路と並行して走る道路は一車線から二車線に増えそして、
《まいどJR××線をご利用いただきありがとうございます。つぎはーたからがはまーたからがはまーでございます。ごりようのおきゃくさまは――》
間延びした車掌の声が、瞳子たちしか乗っていない列車に響きました。列車はトンネルの中に入り、かすれがちなその声は窓外の轟音にかき消されてしまいます。
「次よ。瞳子、荷物下ろすから持っててね」
光は立ち上がり、網棚の上に押しやった荷物を次から次に下ろしだします。瞳子はそれを受け取るのですけど、なぜこんなにも荷物が。ビーチパラソル、クーラーボックス、大小のビニール袋。ちなみに瞳子が持ってきたのは着替えとタオルとお弁当だけ。この違いはどこから生まれてくるのでしょう。
突然、耳をふさいでいた轟という音は止んで、車内は光に満たされて、
《たからがはまで、ございます》
その言葉はクリアに響きました。そして同時に窓の外の視界も開けます。そこには、碧色に輝く海と白い砂浜が輝いていました。黒々とした車道を挟んで、潮騒が聞こえるほどの目と鼻の先に。海です。誰の文句も出ないほどに間違いなく。
加速度が一つ、後ろ向きにかかる。車体は徐々に減速し、ひどい騒音を立てながら小さな駅舎に滑り込んで行く。慌てて降りた三人を残して、黄色い列車はまたどこかへと旅立っていった。駅に降り立つとまっすぐな潮の香りが瞳子の鼻をくすぐった。宝が浜駅は無人駅で、やっぱり自動改札の上には三毛猫が一匹寝そべっていました。
****
夏休みの初日ということで、光はああ言いましたが、いくらなんでも少しくらいはヒトがいることを覚悟していたにも関わらず、砂浜には文字通り人っ子一人いませんでした。出迎えてくれたのは小さなカニが一匹。そいつも挨拶もそこそこに横歩きで足早に去っていきます。失礼なやつ。でもそれくらいでケチがつくような場所ではありませんでした。
そこは細長く海に突き出た岬に挟まれた小さな宝石のような入り江でした。水はキラキラと碧色に透き通り、砂浜は日の光を弾いて真白に輝きます。波打ち際にはごみ一つありません。寄せては引く潮騒を聞いているだけで気持ち良くなる、そんな浜辺でした。なんでこんなきれいな砂浜にヒトが来ないのか逆に不思議なくらいですよ。
「気に入ってくれたみたいね」光の声に振り向きます。
光と歪は二人で白いビーチパラソルをつきたてています。
「白いワンピースを着た金髪幼女が砂浜で戯れているのを見るためだけでも、来る価値がありだよ」歪は意地悪そうな笑い声を上げながら言いました。ありえない感想です。
ていうか誰が幼女ですか。歪よりも一歳年上という事実を忘れないで欲しいです。多少、身長に差があるのは、まあ、認めないこともやぶさかではないこともないのですけど。
「そう言えばどこで着替えるのですか?」
すぐ目に着く場所にはシャワールームらしきものはありませんでした。
「あっちに着替え室があったわよ」
あっちと言われてもわかりません。
「こっちだよ」と歪に袖を引かれて連れて行かれた先には、確かにそれはありました。安っぽいプレハブチックな箱が一つ。中が周りから見えなければいいという男らしい仕様です。恐る恐る覗いてみますと、一応脱衣場らしきスペースと、シャワールームがあります。中には誰もいません。女性用とマークしてありますし、多分。というか辺りを見回してもそれらしいものはコレ一つしかありません。
はて? ということは、男はどこで着替えるのでしょう。まさか、野外?
ビーチにヒトがいないわけが分かった気がしました。
「そう言えば瞳子はちゃんと水着持ってきた」
「当たり前です。一体何のために海に来たんですか」
「大丈夫よお姉ちゃん、小山内先輩はきっと間違いなく期待にこたえてくれるよ」
一体何を期待しているのですかと一喝して瞳子は服を脱ぎ捨てました。確かにその日着ていたのは白いワンピースで、随所についたレースとかデザインは若干子供っぽいのかも知れません。うぐぐ、もっとアダルティックな服を着ればいいのでしょうか。でも瞳子には、美的センスというやつが壊滅的にないらしく、自分で服を選ぶと大概悲惨な結果になる、らしい。
自分ではわかりませんが。
わからないから今日の服もお手伝いさんに選んでもらったのですけど、そう言えばあの子も『瞳子様最高に可愛いらしいです』と息を荒げていました。かわいらしいということは、つまり幼いということ?
「下着で何してるの?」と声をかけられ瞳子は我に帰りました。
「あ、いえ、ちょっと考え事を」
「ふうん。あんまり裸でいると風邪、は引きそうにないわね」
どういうことですか。
もちろん瞳子は水着を持ってくるのを忘れたとかそんなベタなボケをかますこともなく、つつがなく着替えを終えました。しかし瞳子の着替えを見た二人は、
「ほらね、お姉ちゃん、やっぱりスク水でしょ?」
「それは、いえ、むしろナイスよ! これはありだわ!」
「あらお姉ちゃん?」無駄にテンションが高い人たちです。
二人でひとしきりはしゃいだ後、光は我に返ったように叫びました。
「ってそうじゃないわ。さすがにそれはダメよ。確かに似合ってるかもしれないけど、でもそういうのを求めてるんじゃないのよ。それは少なくとも女子高生が着るものではないわ!」
な、なんで、そんな剣幕で怒るのでしょうか。
スクール水着っていうくらいだし、むしろ学生は着るべきじゃないの?
「そのスクールはスクールでもエレメンタリな方なのよ」
ひと悶着あって、結局瞳子は光が持ってきた水着を着ることにあいなりました。余分の水着を持ってくるあたりに瞳子への信頼の無さが透けて見えます。水着だけに。
「別に水着は透けないわよ」光が呆れたように言いました。
言われてみるとそうですね。水着が透けたら大変なことになるのでしょう。例えば下着は上に来ているものがあれば最悪透けてもかまいませんが、水着はダメです。無防備に見えて頑強。防御を薄くするからこそ必死に守らなくてはならないのは世の常なのかもしれません。
光に借りた水着はセパレートで、さっきまでのと比べると布面積の小ささになんだか不安になりますし、このひらひらと過剰な装飾はなんだか気恥ずかしくなります。が、
「アクセントがあった方が、体型のごまかしもきくしむしろ年相応に見えるわよ」
とか言われると、つい。まあ着てあげてもいいですよなんて思ったり。
「まあ身長はどうしようもないけどね」
不用意な発言をした歪が光にはたかれていたのは、予定調和と言えば予定調和でした。だいたい、瞳子は自分の体が子供っぽいか否かなんて瞳子は全然気にしていません。それこそSUSYの現象論がLHCで完全に止めを刺されるのかどうかくらい気にしていません。
気にしていませんとも。
****
焼きつくような太陽の下でも水は冷たく瞳子を包みました。思わずため息が出るほどの気持ち良さ。ああ、癒されます。極楽極楽。
「瞳子」呼ばれて振り向いた瞳子の顔に、塩辛い水の塊がぶつけられます。
「何するのですか!」
「あはは、別にいいじゃない」そう言って光はさらに水をかけてきます。それに反撃して復讐の一撃をかける瞳子に。「小山内先輩」と違う方から声聞こえてきました。
見え見えの手! それこそ馬謖だって騙されません。腕で顔を隠しながら振り向くと、なぜか下から水が噴き上がります。目があっさり塩味に。一体何が?
「いいわ歪。そのままひんむいてしまいなさい!」
「あいさー」
「二人がかりは反則です!」
「戦場にルールは無いのよ」
調子に乗った歪がいいます。良いでしょう。それなら瞳子だって考えがあります。
「光、もしも歪を止めてくれたら後でなんでもしていいですよ!」
「あいやあたくし急用が急に出来そうな感じ」
急用が急に出来るの、は別におかしくないです。
「歪、ちょっと待ちなさい」
「お姉様、目が笑っていらっしゃらなくってよ?」
「恨みは無いけど、果てなさい!」
悲鳴が上がって、一際大きな水しぶきに飲み込まれていきました。
ああ、もう本当に、誰かと一緒にいるのはお腹がよじれるくらいに、疲れます。
パラソルの下でご飯を食べて。また海に入って遊んで、岩場では水たまりに取り残された小さな魚を海に放って、ヒトデを投げて海胆を投げ返されて。きらめく水しぶきが輝いて、太陽は陰る所を知らず、いつまでも続くと思わせるような夏の午後でした。もちろんそんな魔法は無いのです。どこにいたって時間は過ぎるし、日は傾く。
時刻は三時を過ぎた頃になって、そろそろ帰る準備をしましょうと光は言った。
「もう体力的にも無理でしょう? 名残惜しいけど、仕方ないわ」
「そうですね。それがいいと思います」実際に体が疲れているのはわかりました。今はあまり感じませんけど、きっと明日には筋肉痛で悲鳴を上げているでしょう。それから、日焼けもでしょうか。そんなのいつ以来?
「まあまた来たかったら来ればいいのよ。ええそうよ、それが良いわ。夏はまだ始まったばかりだもの。最初と最後を海で締めるって言うのもいいんじゃないかしら。そうしましょう」
また来ればいい。まだまだ夏は終わらないのだから。その時の瞳子はそう思いました。
帰り道、少しだけ荷物が重く感じるのは水着が水を吸ったからか、あるいは瞳子が疲れたのか、少し悩んで、そういえば今瞳子が持っている水着は別に濡れてないことを思い出しました。じゃあやっぱり疲れているのでしょう。海沿いの道路には等間隔に松の木が植木され、自治体がいかに白砂青松を体現しようと努力しているのかをしのばせました。ただ海岸線の見事さに比べるといささか目劣りしている感を否めませんでした。
駅舎まであと少しというところで、近くの信号が鳴り始め、向こうから黄色い列車が軋みを上げてホームに入ってくるのが見えました。
「あれに乗りましょ」
光は突然言いました。瞳子の目算的には三馬身以上離れて無理っぽいのですけど。
「大丈夫よ。走りなさい」お尻叩かれました。痛い。
歪は光に言われた瞬間から素晴らしいスタート切っています。長いストライドを生かしてぐんぐん加速。瞳子の何倍も荷物持っているのにあの走り。インターハイを狙っていると言われても納得できる走りです。
「ほら、なにしてんのよ、置いてくわよ」
光が瞳子の手を取りました。それを反射的に振りほどきました。
あ、二人の声が同期した。
二人の動きが止まりました。海の匂いが強くなって、日差しが弱くなった気がしました。幾通りもの言い訳が頭の中をよぎって、でも結局それは口にせずに、ただ短く。
「光、走りましょう」それだけ言って、瞳子は走りだしました。
光もそれで思い出したみたいにまた走りだしました。
あるいはそう、戦う前から逃げ出したのかもしれません。
疲労も体力も一切合財無視して駅前のロータリーを走り切り、行きに買っておいた切符を猫にかざして、なんとか列車に滑り込みます。
背後で扉が息を吐いてゆっくりとしまった。
「すみません、光」
荒い息の下で、小さく言ったつもりでした。
「何が?」
聞えていた。
「反射だったのです。別に、他意はないのです。ただ」
ただ、瞳子はヒトと触れ合うのが苦手なのです。
「別に、そんなこと知ってるわ」
気にしていないというように光は笑いました。
光はぐったりとふやけた瞳子をシートに押し込んで、それから自分もその隣に座りました。なにも言う気が起きませんでした。そんな気分でした。
帰りの列車の窓から見ると、入道雲が海の向こうにそのソフトクリームの様な姿を誇示していました。空と海の混じる境界に雄姿を示す雲は、いずれ瞳子たちの頭上にも立ちあがるのでしょうか。
「今日も夕立かしら」瞳子の心を読んだみたいに光が言った。
別にそれでも構いません。欠伸を噛み殺しながら、ゆっくりと、でも確実に重くなっていく瞼の向こうで、列車はトンネルに入りました。電灯はぼんやりとした光を投げかけ、車内は思いの他薄暗いです。天井に据え付けられた扇風機が低いうなりを立てて淀んだ空気をかき交ぜています。その羽根も、電燈も網棚も、すべての物が一つの言葉をもって語りかけてきているような、そんな錯覚をおぼえました。
瞼が重くなる。これを支えるのはきっと、ヘラクレスでも無理。
お休みなさい。
****
夢を見ました。枕の固さで死ぬ夢。
固いと思った枕はプラスチックの手すりで、固いのは当たり前です。とは言えそれ以外に枕になりそうなものはありません。しょうがないかと諦めた所で、隣に座った誰かに腕を引かれるのを感じます。隣に座ったのは誰でしたっけ。そんな些細な疑問は、より大きな疑問につぶされた。これは何なのでしょうか。
頭の下に何かがあって、それはプラスチックの手すりなんか比べ物にならないほど、柔らかく瞳子を受け止めます。ああ、これはやっぱり夢なんだ。だってこんな柔らかなもの、瞳子は見たことありません。きっと夢の中の限定品に違いありません。だってそれくらい気持ち良いです。暖かく、柔らかく、どこか懐かしい。幸せを感じさせます。それを手放したくなくて、瞳子は無意識にその柔らかなものに抱きつきました。微かな声が、聞えた気がしました。
でもそれもこれも全部夢、覚めたら終わる、胡蝶の幸福。いっそ覚めなければいいのに。そう思いながら、瞳子はさらに深く夢の世界に沈みこんで行きました。
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ちょうど列車が鉄橋を渡る騒音で目を覚ましました。上体を起こし伸びを一つ。ふと隣に意識をやると小さな寝息。光もまた夢の世界に旅立っているようです。「今はどこ?」
「今は二千十二年七月二十一日よ」と小さく答える声が一つ。その声がくすくすと押し殺した声で笑います。「今はどこって、普通今はいつって聞くものじゃない? それとも小山内先輩はそんなに相対論的なの?」
歪は寝ていないらしいです。
「素敵な夢は見れた?」
夢? 夢なんて見ていません。
「それはただおぼえてないだけだよ。脳は寝てる間でも活動してるもん」
でも瞳子がおぼえていない瞳子の夢なんて、そんなの本当に存在すると言えるのでしょうか? だって誰も知らないのに?
「言えるよ」
「なんで?」
「だって寝言を聞いていたもの」なるほど。
「どうやら小山内先輩は人を殺していたみたいよ?」と悪戯そうに歪は言いました。一体どんな寝言を言ったのでしょう。
「何ならどんなこと言っていたか聞きたい?」
瞳子は首を横に振ります。それでもなお言い募る歪と言葉を交わしているうちに、窓外の景色はいつの間にか田んぼと林に覆われて、もう村に入っていることを理解しました。
《つぎはー××むらー××むらにとまります――》
車掌の眠そうな声が聞こえたのか、光は小さくうめき声を上げました。
「お姉ちゃん起きて、もう着くよ」
「後五分」呻くように曖昧な声音でのたまいました。
列車はもう減速に入っていて、五分もしたら降りる駅ははるか後方です。ごねる光をなんとか起こし、荷物を持ち出して駅舎に降り立ちました。そのころには光もすっかり覚醒していて、
「あーよく寝たわ。一時間も寝てないはずなのに一晩寝た後みたいな気分だわ」
呑気に欠伸を噛み殺しています。
時刻としては夕方と行っていい時間だけど、夏の空はまだ青く白い綿飴みたいな雲がのんびりと浮いていました。暑さに服が肌に張り付くのを感じます。
駅舎から家まで、三人で一際ゆっくりと歩きます。一日を振り返りながらゆっくりと。瞳子は初めて入った海を思い、空を見上げました。もちろんその青と海の青は違うものですが、けれど。
「瞳子」
「なんですか?」
「今日は楽しかった?」
一瞬言葉に詰まりました。
「悪くは、なかったです」
「そう」光は笑いました。「それは重畳だわ」
見透かされた気分でした。
「明日は瞳子の家に行っていい? なんだかすごくあなたと一緒にいたい気分なの」
光の声は輝く太陽よりも眩しくて、瞳子は思わず目を細めました。
「なあに? だめかしら?」
「ううん。ちょう大丈夫、です」
夏休みという限られた時間を、光は使い尽くそうと心に決めているように、瞳子には感じられた。重い響きが微かに聞えた。空の端に黒い塊が見えた。夕立は、もう、すぐそこまで来ていた。