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 一学期最後の教室は、空電のようなざわめきで満たされていました。


「そこ、静かにしろ。今はホームルーム中だぞ」


 注意する教員の声が教室に響いても、ざわめきは収まりません。それも仕方がないでしょう。もはや教室は目の前に迫った夏休みという報酬を前に、心躍らせる若人に占拠されています。それくらいに夏休みというのは魅力的でした。けれど教壇に立つ男にはそうでもないみたいで、


「そんなわけで今年の夏休みは通常よりも長いが――」


 溜息とともに、欠伸が出そうな説教を再開しました。どうせそんな注意誰も聞いてないですから、さっさと終わって欲しいものです。


 小山内瞳子はそんなことを願いつつ、窓の外を眺めていました。

 

 見えるものは、タイルのように敷き詰められた緑の田んぼ、その合間を縫うように走る小さな小川、ところどころぽつねんと孤独に立つ家屋の茶色。それから一際目立つ細長いシルエット。時計塔です。三十メートルはある巨大な。それは大昔のご先祖様が建てた村のシンボルで、今となってはただ一つの機能しか残っていない、文字通り無用の長物でした。そんなこんなを全部まとめて、瞳子が生まれ育った山村の景色です。かわり映えしない風景ですけど、教室の中見てるよりはましでした。

 

 ふと時計塔の文字盤を見やれば、あと数十秒ほどで正午になるようです。


 だから瞳子はそれに備えて、耳をかるく押えました。


 3、2、1。長針と短針が重なると同時に、高い鐘の音が村中に響いて、正午を知らせました。この時計塔は一日に一度だけ、正午の鐘だけをつくのです。学校は村はずれにあり、時計塔に最も近い建物です。ですから、その鐘の音はちょっとした爆音となって教室を襲います。


 その音の前に、延々熱弁をふるっていた教員も、さすがに一瞬言葉を途切れさせました。


「先生」


 その隙を突くように、声が一つ教室に響きました。声と同時に、直前までざわめきに満ちていた教室が、自然と静寂に包まれました。まるでそうすることが暗黙の了解であるかのよう。声は続けます。


「もう夏休み中の注意や約束は十分わかったわ。わかったから、そろそろ私たちに本物の夏休みを感じさせてくれてもいいんじゃないかしら?」


 その声は、まるで天上の楽器の奏でる音色のように美しい声で言いました。すると、先程まで元気に長広舌をふるっていた教師は、親に怒られた子供のような、半ば怯えた声で、


「お、おう。分かった。じゃあもう終わりにしよう。級長、号令」


 と、突然話を打ち切り、級長と呼ばれる生徒を呼びました。級長というのは、体裁上はクラスのまとめ役の様なものでして、創作物のなかに出てくるクラス委員みたいなものです。最も中身は単なる雑用に過ぎませんが。級長は――瞳子は、呼ばれて立ち上がります。


 起立、気をつけ、礼、ありがとうございましたー。


 そして教員は逃げるように、教室から出て行きました。


 とたんに元のざわめきを取り戻す教室。そしてその騒ぎの中心は、やっぱりさっきの声の女子生徒でした。


「さすが光様、私たちの言いたいことを言ってのける!」とか、


「また光様に惚れ直しました。夏休みにもし暇があるなら、僕と一緒に」とか、


 そんな風に呼ぶ男子女子に囲まれて彼女はご満悦です。瞳子は人混みが苦手なのでああいう手合いには近づきません。速やかに撤収するのみなのです。


 にもかかわらず、薄っぺらい鞄に荷物をまとめ、脱兎の勢いで教室を出て行こうとした瞳子を、「ちょっと瞳子、待ちなさいよ」やっぱりどこまでも美しい声が止めました。


 振り返ります。そこには多分、多くの学生に囲まれて彼女がいるのでしょう。うん十年ぶりに来た転入生、誰からも好かれるクラス一の美少女、その名前を檻場光と言いました。


 瞳子は彼女がほんの少し苦手でした。


「なんですか?」


「せっかく家同じ方なんだから、一緒に帰りましょうよ」


 瞳子が何かを言う前に、「あの、光様」と、光の周りにいた男子の一人が、勇気を持って声をかけました。けれど光はそれを軽く流して、


「あ、ごめん、私もう帰るわ。瞳子も帰るみたいだし」


 なぜ敢えて瞳子に絡めて言うのでしょう。まるで瞳子が光を連れて行くみたいじゃないですか。


「それから、夏休みだけど、ごめんなさい。私この夏休みは忙しいの」


「何か用事があるのですか?」


「そうよ、当たり前でしょ? 私を誰だと思ってるのよ?」


 誰って。光は光でしょう。


「そう、私は私だわ。だから瞳子、明日からめいっぱい遊ぶわよ」


「はい?」


 瞳子は彼女がほんの少し苦手でした。


 近づいてくるだけなら、構わないのです。ただ、適切な車間距離を開けて欲しいと思うのは、欲張りなのでしょうか。できればあと三馬身くらい。だってあんまり近づかれると。


「光様、やっぱり、光様は……」


「嘘だぁ」


「この世の終わりよぉ」


 非常に局所的に気圧が下がるのです。


 ****

 

 檻場光という同い年の女子について瞳子が説明できることはあまり多くありません。その理由はいくつかあります。その一つは彼女が瞳子の近辺に出没するようになって、まだそれほどの時間が経っていないから。もう一つは瞳子には彼女のある特徴が理解できないからです。


 彼女はつい半年ほど前、冬の終わり、一番寒い時期に村に越してきたばかりの転校生で、そして瞳子にはよくわかりませんが、美少女という奴でした。


 美少女。美しい、少女。


 陳腐な言葉です。つまるところ、見目麗しい女の子のことです。どれくらい麗しいかと言うと、転入してきたその日のうちに、瞳子を除いた学校の構成員全員(教員、事務員を含む)から愛の告白をされるくらい。着いたその日に彼女のファンクラブが出来るくらい。そしてそのファンクラブのメンバー数が設立から三日で二千人を超えるくらい。


 ちなみに村の人口は千人程度に過ぎません。


 おかしい、どう考えてもおかしいと思います。でも、例えば、彼女が下駄箱を開けた瞬間に大量のラブレターが雪崩を打って落ちてくる光景とか、あるいは校庭のはずれに立っている大きな楠の下に並ぶ、何十人もの彼女に告白するヒトの列とか、そういう現実を目の当たりにすると、もう疲れてしまって。


 どうでもいいと思ってしまうのでした。


 あゝ、いつから現実は狂ってしまったのでせう。


 瞳子の嘆きも呆れも何もかも無視して、けれど時間は残酷に過ぎて、おおよそ一カ月ほどで檻場光という異物は村の生活に溶け込んで行きました。結局モノは慣れです。


 実際、ほとんど慣れました。


 ただ、半年経っても彼女がやたらと近づいてくることには、まだ完全には慣れきれません。


 ****

 

「あ、それから瞳子、あなた海と山とどっちがいい?」


 あたりの雰囲気の悪さなんて、はなにもかけず光は瞳子に問いました。


 瞳子は仕方なく教室を後にしてどこか落ち着ける場所を探しました。誰だって竜巻が近付けば逃げるでしょう?


「ちょっと瞳子、どこ行くのよ」


「誰もいない場所です」


「あらなに大胆ね」


 意味不明でした。


 逃げた先は廊下の奥にある空き教室。つい先日大掃除をしたばかりですし、多少汚れていますが許容範囲内です。


 乱雑に置かれたパイプイスの一つを引っ張り出して座り、瞳子は改めて切り出しました。


「それで、海とか山とかなんですか?」


「瞳子は海と山、どっちに行きたい?」


 夏休み、暇だしどこかに行こう。せっかく夏なわけだし、やっぱり外に行きたいな。だったら海か山に行きましょうよ。それはほんの三十秒ほどで考えられたようなちょーてきとーなお話でした。わあ、ほんとに大丈夫?


「というか光は夏休み忙しいのではなかったのですか?」


「忙しいわよ」だったら海にも山にも行く暇なんてないでしょうに。


「瞳子で遊ぶのに忙しいのよ」


 なーるー、じゃありません。いつそんなことが決まったのですか。


「いつって、だって瞳子どうせ暇でしょ?」


「夏休みちょう予定ぎっしり。遊ぶ暇なんて全然」


「ダウト」


「なぜですか」


「だってあなた友達いないじゃない」


 ひどい偏見です。瞳子にだって友達くらいいますよ。ワインバーグとか、サクライとか、ブルバキとかとか。


「それ全部教科書の著者の名前よね。最後の人の名前ですらないし」


 ま、意外と博識?


「貴重な夏休みをそんな紙魚みたいな生活に費やすつもりかしら?」


「学生の本分は勉強ですよ?」


「学生は休みに作られるのよ。そんな不健康で不摂生な夏を送ったら、不健康で不摂生な人生送って人生五十年を体現することになるのよ。そんなのイヤでしょ。だから」


 海か山か、どっちがいい?

 振り出しに戻る。押し問答は無駄っぽい。


「海にせよ山にせよ、具体的にどこか行く場所を考えているのですか?」


「そうねえ。山だったら比婆山系とかいいんじゃない?」光はあっけからんと答えます。まるで今思いついた名前を適当に言ったようなそんな空気を醸しながら。


「だったら悪い?」


「思考することは人間の義務ですよ?」


「いちいち芦が思考をしていたら怖いわよ」


 むべなるかな。なんにせよ、今さら山に入って既存の生物学に挑戦はありえません。そのブームは世間様的には十年以上前に終わっていますし、瞳子的には始まってすらいません。けど、今海なんて場所に行ったらそれこそ芋を洗うような人混みなのでは。


 自慢じゃないですけど、瞳子は人ごみ嫌いです。

 ゴミの様なヒトよりも嫌いです。

 ぎりぎり許容できるのは学校の教室くらい。


「大丈夫よ。人が来ないいい場所を考えているわ」


 逃げ道はないように思えました。

 それに、瞳子は少しだけ思ってしまったのです。

 こんなに積極的に瞳子を誘ってくれるヒトを無下に断るのは、なんだかかわいそうだと。

 つまりは同情です。


 別に、彼女の話す夏休みが楽しそうだなんて、つゆほどにも思ってなんていません。

 ええ思ってなんかいませんとも。


「じゃあ、海なら一緒に行ってあげてもいいですよ」


 結局、緑青の吹いた仏壇みたいな山を見ながら、瞳子はそう答えました。ここからは山は腐るほど見えます。人口千人足らずの山村、県庁所在地までガタピシディーゼル電車に乗って二時間、いまさら山なんて行きたいとは思えませんでした。


 その答えを聞いて光はその名の通り輝くような声で、


「分かったわ! じゃあ明日の昼に迎えに行くわね」


 その突拍子もなさが、とてもらしいと思いました。


「ああそれから、歪も一緒に連れて行っていいかしら?」


 歪、檻場歪とは光の一歳年下の妹で、面識がある程度には瞳子知っていました。だから、いいですよと答えようとしたその瞬間。


「当たり前じゃん、お姉ちゃんが海に行くのにあたしが山に行くなんてありえないでしょ」


 聞こえてきたのは異様にテンションの高い、そして同時に音階も高い声。


「あら、歪もホームルーム終わったの?」という光の問いに「いえーす!」と元気よく答えた声は返す刀で、「おはようござい、小山内先輩」と瞳子の耳朶を叩きました。もう色々枯れた瞳子にはこの元気は眩しすぎます。これが、女子力?


「ねえお姉ちゃん、海ってどこに行くの?」


「この間話してたビーチなら近いし人もいないし、いいんじゃないかしら?」


「それってどこですか?」


「小山内先輩には内緒だよ」歪が笑いました。


 そんなわけで、夏休み最初の日の予定は決まったのでした。


 ****

 

 暑くて帰るのが億劫だったので、そのまま空き教室で持ってきていた本を読んで、瞳子は日が傾くのを待つことにしました。頼んでもないのに光と歪はそばにいて、おしゃべりをしていました。


 五時過ぎになると、あたりは急にうす暗くなり、遠雷の音がサッシを揺らしました。


 夕立でした。


 木造の校舎は一雨来ると、薬みたいな匂いがします。電気をつけていない教室は雨の中に沈むようです。一条の雷光。照らされた教室はまるで廃墟。


「誰かいるのか?」一人の男性教員が部屋に入ってきたのは、ちょうどそんな時でした。「小山内と、あと」


 そしてその教員は呟くように言いました。


「光様……」


「あら、先生じゃない」入ってきたのは瞳子たちの担任教員。彼は光の姿を認めると開口一番言いました。「あの、さっきはすみませんでした。調子に乗って、長々と説明をしてしまって」


「別に気にしてなんかないわ。あなたはあなたの職務を果たしただけ。私の方こそ悪いことしたわね」鷹揚に謝罪を受ける光に教員は。「いえ、光様を煩わせたのは私の方です」


 平謝りに謝り倒すのでした。ちょっとうるさいです。


 気にしてない、でも申し訳ない。でも気にしてない、申し訳ない。そんな押し問答を繰り返したあげく、

「本当に、別にどうでもいいのよ。もう私は気にしてないわ。だからさっさと仕事に戻りなさい」と光は疲れたように言いました。


「光様がそうおっしゃるならば、でも本当にすみませんでした」


 名残惜しそうに教員は去って行きました。


 急に来た雨は、やっぱり急に去っていきます。気がつけば辺りは明るさを取り戻し、校庭の水たまりは鏡のように青い空を映していました。本を閉じました。


「帰るの?」光が問います。


「別に、一緒に帰るなんて言っていませんよ」


「別にお姉ちゃんもあたしも、そんなこと一言も言ってないけどなー?」


 一瞬、言葉がのどに詰まりました。その一瞬を見逃す光ではありませんでした。


「家、同じ方向にあるんだからいいじゃない」


 別に、光たちと一緒に帰るのがイヤだったわけではないのです。ただ、なんとなく、彼女たちとあまり一緒にいるのは良くないんじゃないかって、そんな風に感じただけです。


「え、ええ、いいでしょう。一緒に帰るんじゃなくて、たまたま同じ方向に行くだけです」


「さ、一緒に帰りましょ?」


 だから、そうじゃないのにー。

 

 ****


「あら」と下駄箱の前で光が頓狂な声を上げて、二人を引きとめました。


 ひらりと何かが光の下駄箱から落ちます。


「なんですか、それ?」なんとなく予想がついていましたけれど、一応問いました。拾い上げると表には檻場光様へ、と四角四面な楷書で書いてあります。手紙の様です。瞳子の問いに光の答えは「ラブレター」とそっけないものでした。らぶれたー、恋文。


「でも、まだ私にラブレター渡していない人なんて誰?」


 その便箋の裏には米倉浩二と、そう書いてあります。瞳子は知らないヒトでした。


「まあいいわ。どうせ私が付き合うことなんてないんだし、適当に返事だけ用意すればいいのよ。とりあえず歪、任せたわ」


 そう言えば、光はモテますけど、誰か特定の恋人がいるという話は聞いたことがありませんでした。小耳にはさんだのは千人振ったとか振らなかったとか、そんな話ばかり。


 もしかして恋愛嫌い?


「お姉ちゃんは今片思いの相手がいるんだよ」


 なぜか歪が答えました。


 というか片思い? ちょっと意外です。


「聞かないの?」


「え?」光に突然問われて困惑します。


「相手、誰かは聞かないのかしら?」


 そんなの詮索することじゃないでしょう。いらない好奇心は猫を殺すのです。藪をつついて蛇を出すようなことはしたくありません。


「あ、そう」まあいいわ。光はそう言って一つ溜息。「瞳子ってそういうやつよね」


 なんでしょう。意味もなく馬鹿にされた気分。


 それにしても、一体なぜ米倉某は一学期の最後の日にこんなもの渡したのでしょう。だってこれじゃあ返事を聞くのも大変なのに?


「瞳子、何してるの、置いてくわよ」


「待ってください」光に急かされて瞳子の疑問はあぶくみたいに消えました。


 **** 


 学校から二十分ほど歩いて、川を渡る小さな橋の脇で、瞳子と檻場姉妹は別れました。瞳子の家は川のこちら側、光たちの家は向こう側にあります。おざなりに別れの言葉を告げて、瞳子は二人に背を向けました。仲の良い姉妹の会話が、追いかけるように微かに聞えましたが。それもすぐに小川のせせらぎと蝉の声の中に埋まっていきます。ああ、本当に、


「誰かといっしょにいるのは疲れます」


 ついそんな言葉が漏れてしまいました。


 それを聞いて、田んぼの中で泥に埋もれていた蛙が、こんなに日が照っているのに小さく笑いました。


 きっと鬼でも笑うことでしょう。


 翌日は、空には雲ひとつない完璧な快晴で、まさに絶好の海水浴日和なのでした。

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