12/1 エピローグ
「ねえ。あなたはなんでこんな事件を起こしたのかしら?」
もちろん彼女は答えない。彼女はあの事件以降、まだ一度も意識を取り戻していない。今も目の前のベッドに横たわり、静かに息をしている。だからこれは独り言だ。
「今でも私にはわからないわ。瞳子は『きっと光が瞳子にご執心だったから嫉妬したのです』なんて言ってたけど、それはどうなのかしら? だってあなたは私が今まで何人の男女と付き合ってきたかなんて知ってるはずだわ。もしも私が好きになった人を全部憎んで行動してたら、あなたはとっくの昔に大量殺人犯か。あるいは自殺してるわよ」
当たり前だが、私は今までずっと一人身だったわけじゃない。むしろこれだけ好かれて恋の一つや二つしていない方がおかしいだろう。そりゃ瞳子ほど一生懸命になったことは今までなかったが、でもこの子可愛いな、とか、この人カッコいい、と思わなかったわけではない。そして一言「付き合って」と私が言えば誰だって二つ返事なのだから、平均より経験は多い方だと思う。この村で片端から告白を断ったのは、ひとえに瞳子がいたからに他ならない。
でも、私の元カノ、元カレが特に何かの被害にあったとか言う話は聞かない。むしろ彼女ら彼らは、私の庇護下にあると認識され、裕福な生活をしていると聞いている。
「なのに今回だけあなたが行動を起こすなんて、やっぱり変だわ」
だからきっと違うのだ。そもそもそれは彼女の行動原理にそぐわない。だって彼女は常に私のために最良と思われる行動しかしないもの。だからきっと今回の事件も私のために起こされたに違いない。
でも、彼女がいなくなって私は間違いなく不利益を被っている。一人であの家には住めないから、瞳子の屋敷に居候することになったし、それに歪がいなくなって、やはりどうしようもなく悲しいのだ。
じゃあ一体なぜ?
窓から見える銀杏の木はもう完全に黄に染まり。大分葉っぱも落ちて身軽になっている。一月ほど前には、ここに来るたびにその実の匂いが体に付くんじゃないかと思うほどに地面を覆った黄色いその実も、今ではほとんどなくなった。時間は残酷に過ぎていくが、まだ彼女が意識を取り戻す気配はなかった。
病室の扉が開く。
「光、面会時間はあと少しですよ」
入ってきたのは瞳子だった。
****
真赤な液体が、いくつもいくつも床に落ちて、そしてそれは床で奇妙な水玉模様を作りだします。反射的に目をつむったけれど、予想した痛みはいつまでたっても届きませんでした。
「バカじゃないの」冷たい声が、空気を瞬時に凍りつかせて。
「ばっかじゃないの!」絶対零度の声が、瞳子の動きを止めました。
瞳子がいくら力を込めても、まるで宙に固定されたように、刃は頑として動こうとしませんでした。だから瞳子は気がつきました。これはきっと光の血で、そして手の中の刃が傷つけたのは一番愛しい人だったのだと。
体全体から力が抜ける。けれど刃は地面に落ちず、その場に崩れ落ちる瞳子の手からそれは自然に抜けていきました。
「なんで私が瞳子の事嫌いにならないといけないのよ」
「だって瞳子は光の事騙した」
「でも私はあなたの本当を知ることが出来た」
「だって、光は瞳子が光に一目ぼれしないから好きになったのでしょう? でも実際は一目すらも見てなかったのですよ」
「それがなに? 確かに私は瞳子が私に惚れないことが不思議で近づいたわ。でも、もしも瞳子がイヤな奴だったら、その後すぐにあなたと疎遠になってるわよ。私は好き嫌いが激しいの。私は嫌いな奴とわざわざ海に行ったりしないわ」
「でも、でも――」意味が分かりませんでした。こんな嘘つきに優しい言葉をかける理由なんてどこにもないのに。もしかして光は瞳子をいじめているのでしょうか。ありもしない希望を見せて、そして目前で奪い去る。なんてひどい。それはきっと瞳子を殺すでしょう。瞳子の心を粉みじんに砕くでしょう。そこまで瞳子は光に憎まれていたのか。
「それにね」
なぜか、直感しました。
その時、光はきっと微笑んだ。瞳子にはそれは見えないけれど、きっと優しく笑いかけたのだと確信しました。なんでわかったのかは自分でもわかりません。瞳子は笑顔なんて見たことないのに。なのにそれを信じました。
ふわりと柔らかな、そして暖かな物に体を包まれて。瞳子は言葉を失います。
「それに、実際瞳子は特別だわ」耳元で囁くような声が言う。なんで人の体は、光はこんなに暖かいのだろう。ずるいと思います。だってこんなふうに包まれたら、瞳子は言葉も何もかも全部失ってしまいます。
「だって、瞳子は私も他の人間と同じように認識したでしょう? 他の人は私のことを天使だ神だと、光様だと言う。でもあなたは違った。 他の人間と同じように、認識できないものとして認識したでしょう?」
光は言いました。瞳子にとって不可視であることはすなわち人間の証明だから。それは光を人と認めた証拠だと。馬鹿な光、そんなこと以前に、瞳子はどうしようもない外道なのに、それなのに、それなのに。声が出ません。喉の奥に言葉がつまって苦しくて、
「わたしは、光といていいの?」くぐもった声が己の耳に響きました。
「当たり前でしょ。むしろ私の前から消えてみなさい。絶対に見つけ出して私の隣に持ってくるから」その声は、瞳子の耳を甘くくすぐりました。
もう、何も言えませんでした。嗚咽と涙の向こうのものに抱きついて、ただ子供みたいに泣いていました。悲しいからじゃなくて、ただただ嬉しくて。
嬉し涙なんて、てっきり都市伝説の類だと思っていました。
何か言葉を伝えたくて、でも言葉にならなくて、背中をなでる優しい腕が堪らなく嬉しくて。
光。私は――
「月がきれいね」あやすような声が耳に届きます。
涙の向こうの満月は、随分と白くなっていました。鏡のように磨き抜かれたそれは、今まで見たどの満月よりも美しいと思えました。
「わたし、いま死んでもいいです」
自然と口から言葉が漏れました。
それくらい幸せだと、そう、思いました。
光はずっと一緒にいてくれました。瞳子を抱きしめて、泣き疲れて眠ってしまうまでずっとそばにいてくれました。
瞳子と光の間で、事件は、この日、終りを迎えたのでした。
****
瞳子は私と一緒に面会に来ても、絶対に十分ほど私と歪を二人きりにしてくれる。それはありがたくもあり、すこし寂しくもあった。
「じゃあね、歪。また来るわ。全く、早く元気になりなさいよ。じゃないと、罪も償えないわ」
冗談めかして言っておいて、でもこれは冗談じゃないかもしれないと思いなおす。まあいいか。私にとってはやっぱり歪と米倉兄弟では歪の方が数段大事だ。こればかりはどうしようもない。畢竟、美少女なんてものはどうしようもなく外道なのだ。
私は瞳子の手を取って歪の病室を出た。瞳子は自然と私の腕に抱きついた。最近の瞳子はとても甘えん坊だ。私と触れあいたがる。本人曰く、今までずっと他人との距離が掴めなくて人と接することがなかった。けれど私が彼女の嘘を見破ったことで安心して接触できる他者が出来た結果、今まで思いが全部私に向かうことになった云々。
何のことはない。つまり、ツンがデレたのだ。
今の瞳子と私の関係は一体何なのだろう。よくわからない。なんとなく、今まではっきりと言葉にすることを避けてきた。言葉にすると、はっきりしすぎる気がして怖かったのだ。いい加減、はっきりさせないといけないと思うのだけど、なんだか瞳子のことだと臆病になってしまう。
だけど少なくとも、私は絶対に離れ離れになりたくないと思っているし、きっと瞳子も同じ気持ちなんじゃないかと思う。それは確信できる。それもこれも、あの事件があったからだ。あの事件がなかったら、私たちの距離は今より少し遠かっただろう。
「あ」
「いきなり声を上げて、なんなのですか?」
もしかして、そういうことなんだろうか。だから歪は?
「もう、本当に何なのですか」
瞳子が不機嫌そうに頬を膨らませる。その仕草が今の私には堪らなく愛おしい。
「なんでもないわ。ただ、瞳子は可愛いわねって」
「な!?」
赤面する。やっぱり可愛い。愛おしい。狂おしいほどに欲しい。
「そういえば瞳子、あの時の言葉、おぼえてる?」
「あの時の言葉?」
「そう、九月の終り、私と瞳子の謎解きの終り。瞳子、私に抱きついて言ったじゃない。『今死んでもいい』って」
「き、聞えていたのですか!」瞳子の顔が面白いくらいに赤く染まる。
「私後で知ったんだけど、むかーしの文豪、二葉亭四迷とかいう人が――」
「わーわーわー、い、言わなくていいです! その、えええと、う、うう。だ、だって光、ええと」支離滅裂だった。ああ、もう。本当にこの子は狙ってやってるんじゃないかしら。
「う、うぅ。なんで光はそんなピンポイントで博識なんですか?」
そんなの当たり前のことじゃない。
「だって、瞳子に関わることだもん。勉強の一つもするわよ」
そう言うと、瞳子はますます顔を赤く染めて黙ってしまった。
病院を出る。糸みたいに細い雲が空にはたなびいていた。それはもう冬の空に見えた。
少しずつ、何もかも変わっていく。秋が終わって冬が来て、また春になって、それから、夏が来るのだ。あの、美しい季節が。
「来年の夏も、あの海に行きましょう」私の口から自然と、そんな言葉がこぼれ落ちた。
「え、ええ。別にそれはいいですけど」
不意打ち気味の質問だったのに、赤い顔のまま瞳子ははっきりとそう言った。
そっか。なら大丈夫だ。
きっと、一年後も彼女と私は一緒にいるだろう。そしてきっと、一年も経てばどんな寝ぼすけでも起きるに違いない。
わからないことは聞けばいい。歪が起きれば色々分かることもあるだろう。そうだ。そもそも。瞳子と私の推理だって、絶対に当たっているとは言い切れない。何か見落としがあるのかもしれないし、あるいは全然勘違いをしているのかもしれない。絶対に正しいことなんて、絶対に存在しない。それがきっとこの世の摂理だ。
私には歪の気持ちも、瞳子の気持ちも完全に理解できるわけがないのだ。人の心なんて、窮極本当にあるのかどうかもよくわからないもの。それを理解しようという方は今の私には無理だ。でも、それでもそれについて考えることに意味があるのだと思いたい。
瞳子と一緒にいたいと思うこの心に、意味があるのだと思いたい。
だから推理するのだ。本当に成り立つのかわからない曖昧な前提から、一歩踏み外せば奈落の底に落ちていく推論を重ねて、きっとあると信じている本当を探す。
願わくば、その結果がすこしでも幸せな明日につながらんことを。
「あ、あの光」銀杏の黄色に染まった秋の日差しの下で、突然瞳子は立ち止まった。
「瞳子は決めたのです。光とのことでは、絶対に逃げないと。だから、その、やっぱり自分の気持ちはきちんと言葉にするべきだと思います」
小さな背を背一杯伸ばして、瞳子はきっと言うだろう。
月がきれいですね。でも。
わたし死んでもいいわ。でもなくて。
「――」
その言葉は、私はきっと一生忘れない。




