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18/20

9/30

 

 窓からは赤い彼岸花が見えました。光が瞳子のとこにやってきたのは、そんな季節でした。


 事件から一月が経過していました。その間、瞳子は何も、本当になにもしませんでした。もう何もかも、どうでもよくなってしまったのです。いくら考えてもよりより未来を描けません。ここが瞳子の終りなのだと。デッドエンドなのだと理解してしまいました。


 ならば瞳子はなんのために今、息をしているのでしょうか。


 そんなの決まっているじゃない。瞳子の中の何かが言いました。


 だからその日、誰かが家を訪ねてきたのはわかりましたけど、そこに事実以上の意味を見出すことは出来ませんでした。


「光様がいらっしゃっています」


 由希にそう聞くまでは。


 小さく、息をのんだつもりでした。けれどその音は瞳子が期待した以上に大きく響きました。それこそ屋敷の外にも聞こえるのではないかと思うほどに。


「……お帰りいただきますか?」


「いいえ、そんな無理をしなくてもいいです」


「無理ではありません。私はお嬢様に仕えるものです。やれと言われれば必ず」


「嘘ですよ。光はだって、由希にとっても美しいのでしょう?」


「それはそうです。確かに光様にお願いされれば、私は断ることはできません。ですが」由希は穏やかな声で言葉をつないだ。「光様は来た当初ほど我を通されることがありません。心から頼めば自ら引き下がってくれることでしょう。きっとお嬢様との交友が光様を変えたのです」


 由希の言葉は優しかったけれど、瞳子がお願いした手前彼女に会わないわけにはいきません。


「客間で少し待つ様に言っておいてください。身なりを整えないと」


「かしこまりました。恭子を呼びましょう。少し、お待ちください」


 そう言って静かに由希は去っていく。二分と経たずに恭子は来ました。


「瞳子様、本日はどのようになさるのですか?」


 瞳子は、服の趣味とか、そんなものを語るのが怖くて、わからないとずっと逃げていました。でも最後くらいは口にしてもいいのかもしれません。もっとも、今までなにも勉強してこなかったから、結局気のきいたことは言えませんから。


「一番きれいな格好にしてください」


「おまかせください」恭子は優しい声でそう言いました。「瞳子様が本気を出されれば、光様とて一目でメロメロです」


 ****

 

 瞳子が光の待つ客間についたのは、光がついてから一時間も経ってからでした。光は飾ってある刀なんかを見て待っていました。


「ごめんなさい、身支度をしていたら遅くなってしまいました」


「別に気にしてなんてないわ」久しぶりに光の声を聞いた。ほんの一カ月聞かなかっただけ、それなのにその声を聞いた瞬間、瞳子の心はどきりと跳ねた。やっぱり瞳子はどうしようもなく――


「振袖なんて着るのね。今日は何かいいことあったの?」


 服選びは難航しました。というか迷走しました。あれでもないこれでもないと衣装室をかき混ぜて、どういうわけかご飯食べた後に振りそでの着付けなんてする羽目になりました。謎です。


「や、やっぱり瞳子には似合いませんよね。こんな重装備。着替えてきます。ちょっと待っていてください」


「そんなことないわよ。すごく、きれい」


「あ、ありがとうございます」顔が熱くなりました。光の声はとろけるように甘かったけれど、その芯には隠しきれない固さがありました。


「夜分遅くに申し訳ないわ。でも、私すぐに瞳子に言いたいことがあったの」


「いいえ、構いませんよ。それで、光はなにを言いに来たのですか?」


 わかりきったことでした。けれど一応、念のために。


「遅い夏休みの宿題の答えが分かったわ」


「そうですか」分かっていた。分かっていたけどやはりショックでした。だけど瞳子は無理に微笑んで。「じゃあ、答え合わせをしないといけませんね」


 自分の言葉で理解します。これから終りが始まるのだと。もう退路はないのだと。


 出来ることなら苦しませずに死にたいものです。身勝手と言われればそれまでです。でも思わず感じた声にならない祈りを受けて、光はことさらゆっくりと話しだしました。


 ****

 

「さて――まずは私が貰っていた宿題を明確にしておくわ。瞳子は私にこう言った。『わたしの嘘を見破って』と。

「でも一言で嘘と言っても色々な嘘があるわ。例えば私はさっき瞳子が遅れたけど『別に気にしてなんてないわ』と答えたけど、実際は滅茶苦茶不安だったのよ。このまま瞳子が出てこなかったらどうしよう、聞いてすらもらえなかったらどうしようって」


 光は茶化すように話し始めました。瞳子が身を固くしたのが分かったのかもしれません。


「でもそんなの瞳子に伝えたくないから、別に気にしてないって言った。だからこの言葉は嘘だわ。でも、例えばこんな小さな嘘を見破って欲しくて瞳子が泣きながら私に抱きつくかしら?

「答えは否よ。私が知ってる瞳子って子は強くて可愛くて、誰かに弱みを見せるとかそんなの絶対にしないやつよ。そんな瞳子が小さな嘘で私に泣きつくはずがない。だから私はこう仮定する。

「『瞳子がついている嘘は非日常的な嘘である。例えば、実は人殺しだとか、実は別人が入れ換わっているとか、とにかくそういう非日常的な、非現実的な嘘である』と」


「随分と抽象的な話ですね」


「そうね、だから具体的に考えましょ。瞳子に関わる非現実的な、非日常的な事象ってなにかしら?

「真っ先に思いつくのはやっぱり、例の事件ね。この夏に村では二人が死んで、一人が意識不明の重体になった。調べてみるとこの五十年ほど、この村で変死事件なんて一度も起こっていない。それが八月だけで二件も連続で起きた。これは十分な異常事態と言っていいわ。

「その上瞳子はこの事件の犯人だと証言した。一人の人間にとって、これほど関わっている異常事態はそうないわ。さらに言ってしまえば、あの時の瞳子の自白には、明らかな嘘が含まれている。例えば、瞳子は『檻場歪と米倉隆は瞳子を脅迫した』から殺したと言った。けど、おぼえてるかしら?

「お盆の前、米倉隆と会った時に、私は『瞳子を傷つけたら許さない』と彼に宣言している。瞳子以外の人間は私の命令に逆らえないのだから、彼に瞳子を傷つけられるわけがない。よって米倉隆は瞳子を脅迫できない。

「つまりあの自白の動機は嘘だと分かるわ」


 光は続けた。


「じゃあそれが瞳子が見破って欲しい嘘かしら? いいえ違うわ。だって瞳子はその嘘があるので『絶対に人と一緒に生きられない』と言った。『事件の犯人である』と言う嘘を見破られても、人と一緒に生きて行けなくなるものではない。むしろ大手をふるって人と一緒に歩けるもの。だから彼女を『絶対に人と一緒に生きられ』なくしている嘘は他にあると考えてよい。

「でもそうなると別の疑問がわいてくるわね。そもそもなんで瞳子は自分が犯人であるなんて嘘をついたのかしら? 自分が犯人であると嘘をつくことで何のメリットが瞳子にあると言うのかしら?」


 光が思いついた一つの可能性は、真犯人に脅迫されて、そんな言葉を言っていると言う可能性。


「そしてもう一つは、もっと大きな嘘を隠すためにつかざるを得なかった嘘である可能性」


 よく言うでしょ? 一つの嘘を守るためには十の嘘が必要だって。


 そう言って、光はテーブルの上に置かれたお茶をすすりました。瞳子は黙って聞いていました。果たして光が本当に瞳子の嘘を見破ったのか、この時点ではわかりませんでしたから。


「どちらにせよ、私はあの事件と瞳子の言う嘘は何らかのかかわりがあるのは違いないと思ったから、私はその真相を追究してみることにした。とはいえ、瞳子以外の村の関係者の誰もが犯人じゃないことは前言ったわね。かといって村の住人の誰にも見つからずに外部の人間が来て、二人に毒を盛っていくというのもあまりに非現実的だと感じた」


 だから光は調査の方向を変えることにした。


「前に瞳子が言ったわね。私に嘘をつけるのは何も瞳子だけじゃないって。それで気がついたわ。私が強制力を持つのはその人が私を見ている場合だけ。だったら絶対に私を見なければ嘘を貫き通すことは原理的には出来る――これは嘘と言うより沈黙と言う方が正しいかもしれないわね。とはいえ、私の手からずっと逃げ続けるのは難しいわ。だって私は警察だって何だっていうこと聞かせられるのよ。だから、完全に逃げることができるとすれば」


 それこそ黄泉の国にでも逃げるしかない。檻場光はそう考えた。


「死人に口なしとは良く言ったものね。さらにこの線だと瞳子が脅迫されているという筋もなくなる、だって脅迫者はもう死んでいるかことになるもの。だから事件に関する嘘は『瞳子の見破って欲しい嘘から派生した嘘である』と推測できる。

「あの事件の後に死んだのは誰かしら? 村の中では米倉兄弟と檻場歪、この三人だけだわ。正確には歪はまだ生きているのだけど、でも歪はあの事件以降一度も意識を取り戻せていない。当然私も尋問できないから嘘は許される」


 つまり容疑者は『瞳子、歪、隆、浩二』の四人に絞られる。


「米倉浩二が犯人であるという線もありえない。なぜならば彼は最初の事件で死んでいる。死体を偽造するなんて不可能。だってあの死体は警察家族友人全てが太鼓判を押したのだから」


 残るは三人。


「檻場歪は犯人かしら? でもこれもおかしいわ。だってほかならぬ瞳子が、倒れていた歪のそばで犯人に襲われている。瞳子のこの証言を信じると歪は犯人たりえない」


 残り二人。


「米倉隆の体からは死後何ものかに移動させられた痕跡があった。死体が自分を動かすことはできない。よって彼は犯人ではない」


 一人。


「じゃあやっぱり瞳子が犯人じゃないですか?」当然の帰結を瞳子は問いました。


 しかし光は肯んぜず、


「いいえ。それはおかしい。だってそれならなんであの時瞳子は嘘の自白をしたのか――いいえ、これもへ理屈ね。だから私はこの点に関しては理屈を、捨てる。だって」


 だって私は瞳子が人殺しじゃないって信じてるから。


 光は、そう言いました。


「だから私はこう考えるわ。『犯人は瞳子以外の三人の中にいる。そしてその犯人を隠しているものこそ瞳子の嘘である』と。

「けどそれ以上にはこの筋からは進めなかった。瞳子の嘘が分からなくてはこの事件は漠然とし過ぎている。だから他にヒントを探してみることにしたの。つまり彼女に関わる非日常的な、普通じゃない出来事って他にあるかしら? そしたらそれは結構あるのよね。

「例えば彼女の容姿。

「小山内瞳子という少女はその年齢からみれば大変に幼い印象を与える容姿をもった少女だわ。私と同い年なのに私と並んだら、控え目に見ても三歳以上は年が離れているように見える。私自身、あなたが小学生だと言われても驚くどころか納得するわね。世の中には童顔ってものもあるけど、でもここまで来ると珍しいわ。私も最近じゃロリコンって人の気持ちが――まあ本当は同い年だからこの言葉は正しくないのだけど――分かりそうな気がするもの」


 なに言っているのでしょうこの人は。頭がわいたのかと思いました。けれど瞳子はその次の言葉を聞いて暴言を飲みこみます。


「幼くて可愛いっていうのは個性だもの。それが珍しいからって別に悪いことじゃない。でもそれよりも不思議なことがある。それはつまり彼女が自分の容姿に全く無頓着だということ。

「可愛いと言うのは力なのよ。だから世の女の子は可愛くあることに努力するし、それを誇り、己のそれを利用する。でも瞳子はそれをしないわね。それどころか他人と接するのを積極的に避けている。これは何故かしら? ものぐさな瞳子が人を利用しようとしない理由は何故? 己の武器を利用しようとしないのは何故? これはなかなかの謎だと思わない?」


「瞳子はヒトが苦手なのですよ」


「あらそう。確かにそうね。瞳子は人混みを極端に嫌う。村の夏祭りですら行くのを悩んだくらいだもの。でも考えてみなさい。小さな村の祭り程度でそんなに人が来るわけがないのよ。せいぜい数百人くらい。いくら人混みが嫌いと言っても、それくらいで尻込みするのは異常だわ。これも瞳子に関わる異常の一つと見てよい。

「他にはないかしら? 小山内瞳子はただ単に事件で妙な証言をしただけの幼くかわいらしい、そのくせ自分の可愛さに自覚がない極端に人混みが苦手なだけの少女かしら?

「いいえ違うわ。彼女の周りの最大の異常。それは殺人でも可愛さでもない。ましてや彼女の人嫌いでもない。

「それは絶対に文句なしに私である」


 絶対の自負とともに彼女はそう、宣言した。


「だって私みたいな異常が他にある? 他人を支配する可愛さ。魅力という名の精神の暴力。目に見える正義の具現。事件が五十年に一度の珍事なら、私という存在は七十億人に一人の奇跡であり、十万年に一人の異常である。その私を差し置いて異常現象なんて存在するかしら?」


 彼女は問います。瞳子は答えませんでした。庭にいるであろう虫の声が良く聞こえました。秋の虫はこおろぎくらいしかわかりません。だからその混声合唱は秋の声としかわからない。少し寂しく、すこし狂っている。


 十分間を持たせて、光は続けました。


「あるわ。それは――小山内瞳子、その人の存在自身」


 なぜならば。


「彼女は私を見て一目惚れしない、世界でただ一人の例外だった」


 ぱちりとパズルのピースがはまる音を幻聴した。


「いくらなんでも自信過剰だと思いませんか?」


「私以外の誰かが言ったのならそれは間違いなくただの馬鹿だわ。でも私が言うならこれは絶対の真実。檻場光を見たものは誰でも心奪われる。それは私が会って話をした数万人のうち、瞳子以外の誰もが私に惚れた。正確にはそれは嘘ね。ある種のハンディキャップを持った人達は私と顔を突き合わせても惚れることは無かったわ。でも、彼女の生活にはそれらしいものは見られなかった。だから私は彼女をオンリーワンの異常だと、神秘か奇跡の一種だと理解した」


 檻場光の声はひどくゆっくりとしていました。まるで瞳子をじらすみたい。


「私は今瞳子の異常な点をいくつかあげたわ。そして、それらすべての異常が、たった一つのある嘘に依っているのだとしたらどうかしら? もちろん、そんな保証どこにもないわ。でももしも、仮にそんな嘘があれば、それはきっと正解に違いないと思うの。けれどそんなものあるかしら? その嘘は」


 事件において嘘の証言を強制するものであり。


 容姿に対して無頓着にさせるものであり。


 人混みを極端に苦手にするものであり。


 美少女に惚れなくさせるものであり。


 人と一緒にいるのを諦めさせるものである。


「私はその答えをだけ一つ思いついた。荒唐無稽で、常識破りな。でもそんなことありえるのか。私はそのことを専門の医師に聞いてみた。彼の答えは、絶対にありえないとは言えない。医師の常識には反するが、しかし、その部位の理解はまだ完全に進んではおらず、どんなことが起こってもおかしくはないと、そう証言した」


 心臓が早鐘を打つ。間近に迫る終りの気配に体が氷のように冷たくなる。もう早く言って欲しい、そう願う瞳子に向かって、ここにいたって光は問いました。


「でもそれらは全部状況証拠。だから一つ実験をしたいの、いいかしら?」


 これからやるのは彼女の理論を確かめるための検証実験。理論のテスト。新しい理論が正しいということは、すなわち新奇な予言を的中させることである。誰でしたっけ? 実証主義とかそういう信念。


「慎重なのですね」


「まあ、ね。慎重にもなるわ。だって私とあなたの未来が懸かっているのだもの」


 光は至極真面目に言いました。


「それで、瞳子はなにをやればいいのですか?」


「今から私はあなたに質問を一つするわ、その質問に素直に答えて欲しいの」


 瞳子は無言でうなずいた。少し間をおいて、そして彼女は瞳子に問うた。


「瞳子、今私が着ているショーツについて出来るだけ正確に記述しなさい」


 瞳子は思わず色々噴き出しかけて、


「光、なにを言っているのですか?」


「どうもこうもないわ。そのままよ。今、この世界一可愛い美少女の私がスカートたくしあげてあなたにショーツ見せてあげてるでしょ? それの形とか色とか答えるだけ。簡単な話だわ」


「なんで瞳子がそんなことを」


「あなたはさっき質問に答えると言ったわ」


「あまり自分を安売りするようなことは……」


「いいからさっさと答えなさい。それが一番私の羞恥心を救う方法よ」


 もう、瞳子が言うことはありませんでした。


「……じゃあ、布で出来ていて、しろ」


「残念はずれ、答えは穿いてない」


 唖然としました。


 光は馬鹿です。


 でも最高です。


 そして光は、止めの言葉を極めて冷静に言いました。


「以上の結果を踏まえると、きわめて異様な、次の様な仮定が思いつくわ。つまり、小山内瞳子は、生きている人間を見ることが出来ない」

 

 ****



 例えば、どうして小山内瞳子は自分の容姿に対して無頓着なのか?


 それは、彼女には自分の姿が見えないから。


 例えば、どうして小山内瞳子は人と触れるのを極端に嫌がるのか?


 それは、彼女にとって見えない存在である他人が怖いから。


 例えば、どうして小山内瞳子は人と一緒にいられないと言ったのか?


 それは、彼女の世界には他者という存在が極めて希薄だったから。


 例えば、どうして小山内瞳子は檻場光に一目惚れしなかったのか?


 それは、そもそも瞳子の瞳には檻場光なんてものは一目すらも、かけらほども見えなかったから。


 ****

 

「本当に、ひどい話ね」


「ええ、そうですね」


 瞳子はぼんやりと光の言葉に相槌を打つ。瞳子に見えるもの。黒い革張りのソファー、薄いベージュの壁、窓の前の障子、窓の外を浩々と照らす白い満月、空、それだけ。それだけでした。瞳子の世界はそんなもので出来ていました。級友も、教員も、政治家もアイドルも、敵も味方も、何もない。誰もいない。十年間ずっと。


 目の前のソファーには誰も座っていませんでした。ソファーの背もたれはただの茶色い布に見えました。本当はそこに光がいるのです。けれど瞳子にはそこがただのソファーに見えるだけ。こういう現象を書き込みとか言うそうです。例えば良く知られた例ですと、人間の盲点を使うとわりとすぐにこの現象を体感することができます。


 もちろん瞳子の症例は他に類似のものがありませんから、本当にそれが一般に書き込みと呼ばれるプロセスと同じものかはわかりません。多分そうなのではないかと、瞳子が推測しているだけです。


 誰もいないソファーから声が聞こえます。


「原因は十年前の交通事故ね?」


「発症したのは、そうです」


 十年前、瞳子は大きな事故に巻き込まれて家族を失いました。瞳子は奇跡的に生還したものの、それでも頭部に大きな打撃を受けて、三週間ほど生死の境目を彷徨ったらしいです。そしてその三週間の暗闇から目覚めてみると、瞳子には生きている人間が認識できなくなっていましたとさ。


「でも、こんな無茶苦茶な現象、よく信じる気になりましたね?」


「まあ確かに無茶苦茶だとは思うけど、人間の視界って言うのはただ単に映像を捉えているわけじゃないってのはよく知られた話だし、それに実際に生き物としての人間にとって、同族の他者を認識する能力は極めて高く設計されているわ。例えば、猫なんかは顔だけ見ても判別するのは難しいけど、人間なら大体できるように出来ている。それどころか丸二つ書いてその間に線引けばそれだけで、人間の顔って認識するように人間の脳は出来てるのよ? 他にも相貌失認とか、ペンギンの親子の話とか、生き物にとって同族の他者に関する能力は極めて特殊な進化をした機能だわ。だから、そういうのに関連するモジュールが壊れればもしかしたら」


 もしかしたら、人間が認識できなくなるかもしれない。


 檻場光はそう考えた。


「でも米倉浩二の死体を見た時の反応や、二つ目の事件の反応を思い出すと、死体は見えてるみたいなのよね。これが確かに気になったけど、取りあえずこの仮定を置くとすごく色々なことが説明できることに気がついた。例えば、あの事件とか」


 あの事件。二人の人間が死に、一人が死にかけているあの事件。その犯人は、


「犯人って言い方が正しいのかはわからないわ。でも、間違いなくあの事件を一番利用したのは、檻場歪、私の妹だわ」


 光はそう言って、すこし黙りこんだ。


「瞳子だって気づいているんでしょう? 真相に」


「ええ、多分」


「じゃあ言って欲しいわ。私は、ちょっと喉が疲れた」


 光の声は、本当に何かにつかれているように聞こえました。


「……わかりました」


 ****

 

 檻場歪は、瞳子の嘘に気がついていた。事件の本質はただこれだけなのです。


 だから彼女はそのことを利用して、瞳子を殺人犯に仕立てようとした。


「米倉浩二の死。これはさっき光が言いました。自殺以外に考えられません。瞳子達の調査のすべての結果もその説を支持していますし、光が得た証言からもわかります。まず歪はやっていません。もし仮に歪が犯人なら、彼女は何らかの遠隔手段で浩二を殺さねばなりません。何故なら彼女にはアリバイがあるからです。しかし彼女は事件を捜査している時に光に向かって『遠くから殺す手段を思いつかない』と言いました。歪は光に嘘がつけませんから、本当に彼女はそのような手段は思いつかなかったということです。そしてもしも彼女が殺したならば、彼女は絶対にその手段を知っていなければなりません。これは矛盾します。よって歪は彼を殺していません。そして他の村人も同じです。隆は生前に浩二の死を『自殺だと思う』と光に言っていました。もしも自分が殺したならそんなこと言えませんよね」


 よって、浩二の死は自殺です。しかしそうなると遺書は?


「歪が遺書を偽造するのは簡単です。だって恋文は彼女が管理しているものであり、真っ先に現場に踏み込んだのは彼女だからです」


 さらに、この事は瞳子たちの調査とも符合する。倉庫に誰が侵入した形跡がないのも当然だ。だって、あの倉庫には光と歪と瞳子の三人しか入っていないのだから。


「歪は何らかの手段で米倉浩二があの晩、校舎から飛び降りることを事前に知っていた。そして以前送られた彼の恋文を持ってきて、本物の遺書とすり替えた、あるいは上に遺書はなかったのかもしれません。どちらにせよ、恋文だけが上に残る状態にしたのです」


 瞳子は前からこの可能性を考えていました。けれど、どうしてもわからないことがあったので、結局歪を問いただすことはしませんでした。


 その疑問とは、なぜ歪は遺書を偽造する必要があったのか?


「結果だけを見ると、歪がしたことは自殺を他殺に見せかけることで事件を大きくしただけ。それで得られるものは警察の疑念くらいです。そんなの得ても嬉しいとは思えませんでした。だから瞳子はわからなかった」


 しかし、ある行為AによってBという結果が得られるなら、やっぱりAを為したヒトはBを得るために行動したと考えるのが妥当です。つまり、歪が欲しかったものは警察の疑念に他なりません。


 ではなぜ歪は警察の注意を惹きつけたかったのか?


「それは次の事件とのかかわりで分かります。なぜなら、歪が起こした事件の肝は、自殺をどれだけ上手く殺人に見せかけるか、それに尽きているからです。

「歪が実際にしたことは単純です。まず瞳子を美術部室に呼びます。そして瞳子が着く前に化学部室の米倉隆を部室に呼び寄せ殺害。死体を美術部室の内部に置いておきます。瞳子が来たら、その死体を見せてから気絶させ、そして隆の死体を化学部室に運びます。隆の服に付いていた死後運ばれた痕跡はここで付いたものです。そして化学部室に施錠してから美術部室に戻ります。後は内側からチェーンロックしてから、毒を仰ぐだけ。これで密室は完成します」


 これを瞳子から見たらどう見えるでしょう。彼女には生きている歪の姿は今まで一度も見たことがなかった。だから、最初に見た米倉隆の死体を、檻場歪の死体だと誤認したのです。


「光は言いましたね。あの密室に意味はないと。違うのです。あの密室は誰かを容疑から守るための密室じゃなくて、瞳子という獲物を逃がさず仕留めるための罠だったのです」


 あるいはそのためだけに歪は浩二の死を利用したとも言える。直前に自殺の様だが、自殺でない死体が出ていれば、その次の自殺の様な死体も他殺として誤認する可能性は高くなる。


 瞳子はかなり早い段階でうすうす真相に気付いていました。けれど、その真実がどうしても気に食わなくて、もしかしたら意識不明の重体の歪なら瞳子の目に映るかもしれないなんて、そんな都合のいい仮説にすがって、事実を直視しなかった。


 それを確かめに重い腰を上げたのが八月の終りの話。そして瞳子の目には、やっぱり歪は見えなかった。


「瞳子は自分の嘘と、殺人容疑のどちらが大事かを天秤にかけました。そして、その結果嘘を守ることを選び、その嘘を知っている檻場歪を殺そうとした」


 後はもう、語るまでもないでしょう?


 計画は失敗し、瞳子の嘘は白日のもとにさらされた。


「――一つだけ、言っておくわ。歪がどうやって米倉浩二の自殺を知ったか。簡単な話よ。夏休み前に私の下駄箱に米倉浩二からのラブレターが入ってたの憶えてる? 実はアレが遺書だったみたいなの。遺書は私に対して送られていた。それを歪は隠した。だから歪は浩二の死を知っていた」


「見つけたのですか?」


「ええ、昨日、歪の部屋からね」


 どうしてそんな危険なものを部屋に残しておいたのでしょう。そんなの焼いてしまえばいいのに。


「多分、ばれたらばれたでいいと思っていたのよ。あの子は、そういうとこがあったわ」


 光の言葉はどこか虚ろに、虚空に響いて、瞳子はわけもなく胸が苦しくなりました。瞳子は、光が心配なのでしょうか? でも、瞳子には光を心配する権利なんてありません。


「なによ、なんて顔してんのよ。せっかく私があなたの嘘を見破ってやったって言うのに、そんな暗い顔されちゃたまったもんじゃないわ」


 光は無理したみたいに明るい声で沈黙の天使を追い払う。


 ああ、そうですね。瞳子もこれでやっと終わるのですし、少しくらいは笑っていいかもしれません。だって、


「これで心おきなく」瞳子は客間に飾られていた日本刀のそばまで歩いて、「心おきなく、死ぬことが出来ます」ためらいなくそれを引き抜いた。ぴたりと、部屋の空気が凍りつくのを感じました。


「――瞳子、その冗談、笑えないわ」これまでにない真面目な声で光は言います。


「別に、冗談なんかじゃないですよ。もう、瞳子が言いたいこともやりたいこともありません。十分に、満足しました。後は」


 後はこの命でお詫びするだけです。


「何言ってるのよ。なんで、お詫びなんてする必要があるのかしら? 私には全然わからないわ!」光の怒声が部屋を埋めて、瞳子は体を震わせます。わかりません。なんで光がこんなに怒っているのかさっぱり理解できません。光の言うべき言葉はこうでしょう。


 さっさと死ね。


 だって、


「だって、瞳子はずっと光を騙していたのですよ?」


 瞳子は気がついていました。光が瞳子に好意を抱いていることを。そしてその原因が、瞳子が光に一目ぼれしなかったからだということも。光はそれで瞳子が特別な存在で、光の魅力に支配されない強い少女だと勘違いしました。勘違い、そうです。光は瞳子が自分の違う面を見てくれたと勘違いした。でも違うのです。瞳子はただ単に、見ていなかっただけ。なにも見えていなかっただけ。


「それなのに瞳子は、光の気持ちに付け込んで、今日までずっと騙して、友達面していたのです。こんな人間、好かれるわけがないじゃないですか?」


 だから瞳子は、光に嫌われてしまう。


 光を失えば、また瞳子は一人ぼっちになるでしょう。すべての人に嘘をついて。ただただヒトから逃げて。そういう生き方をするつもりでした。そのつもりで心を固めて、殻を作って、必死に自分を守ってきました。それなのに。


 一人は嫌です。


 もう、一人ぼっちは嫌です。


 瞳子の心は叫ぶのです。


 嫌だ。イヤ。イヤ!


 寂しいんです。ひとの暖かさを知ってしまった瞳子には、もう無理なんです。孤独は怖い。誰かと一緒に生きていたい。


 光とずっと一緒にいたいのです。


 でも、瞳子なんかが光の近くにいたら、彼女を不快な気分にさせるだけでしょう。だって瞳子は汚い嘘つきなのですから。ならば瞳子に意味はあるのでしょうか?


 あるとしたら、それは、この命で以て光に許しを請うくらいじゃないですか。


「ごめんなさい、光。瞳子が弱かったばかりに、光に迷惑をかけました。ずっと光を騙してごめんなさい。歪にごめんなさいと言っておいてください。瞳子が現れなければ今でも彼女は光のそばで笑っていたのに」


 すいと刀を首――正確には多分首があろうと思われる辺りにですが――に持っていく。ゆらりと刀は青く光り、笑ったように見えた。光が何かを叫ぶ。でももう瞳子にはその言葉意味を持たなかった。


「ありがとうございます」


 わたしに最後に人の温かさを教えてくれて。


 自然にそんな言葉が口から洩れた。そうか、瞳子は光に感謝しているのか。そんなことすらも言うまでわからなかった。瞳子には心なんて全然見えない。きっと他の人には見えているのに。だからこんなに瞳子は、寂しい。


 わたしは、さびしい。


 いつだってそうだった。瞳子の生存が、瞳子の幸せを邪魔した。


 瞳子はずっと昔から間違えていた。もっと早くにここから消えるべきだった。なぜこんなにも遅くなって、間違ってしまったのだろう。


 腕に力を込める。


 赤く濡れた刃を幻視する。


 窓の向こうに満月が見えた。それが磨き抜かれた鏡のように、浩々と夜を白く染め上げていた。そう言えば今日は中秋の名月なのだ。それはどこまでも白く輝き、まさにこの世のものと思えないほど美しい――ひかり。


 赤いしずくが、光の中にこぼれ落ちた。

 

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