幕間 光
「他にこの老いぼれに聞きたいことはありませんか、光様」
「ええ。ありがとう。あなたのおかげで光が見えた気がする。本当に感謝しているわ」
聞きたかったことは全て聞いた。それらの返答も概ね満足のいくものだった。私はとっていたメモから顔を上げた。目の前には穏やかな笑みを浮かべた老いた科学者の顔が見えた。年月に染まった髪と、深いしわに埋もれるような笑顔だった。
「光様の助けになったのならば、それは大変嬉しいことです。生き恥をさらして長生きした意味がありましたね」
そう言って老婦人は朗らかに笑った。その人は私の昔馴染みの医者だった。彼女は歪の入院する病院に勤めており、その日、私は自分の専門外のいくつかの事実を教えてもらうために、彼女の元を訪れたのだ。
「そう言えば前も聞いたことだけど、私についての研究、すこしは進展があったのかしら? ほらあなたも確か研究チームの一人だったでしょ? 美しさとは何か、みたいなそんなことを研究してる」
「ええ、それについてはまだ前回からほとんど進んでいない、というのが正しいでしょう。ただ」そこで老女は言い淀んだ。
「答えたくないなら答えなくてもいいのよ」
「いえ、そういうわけではないのです――前回どこまで話しましたっけ? いけませんね、年を取るとと物忘れがひどくて」そう言って老人は立ちあがり、部屋に備え付けられたコーヒーサーバーの元に向かった。「少しお時間をいただけますか、光様」
長い話になりそうだと思った。
彼女はサーバーの下にからカップを取り出す。渡されたそれを覗きこむと、黒い液体に自分の顔が鏡のように映った。一口すする。老女は自分の分も用意し、それを持って部屋の中をゆっくりと歩きながら話し始めた。
「人間の脳には、美しさを判断する機能があることはどうやら確実なようです。それは視覚情報から周囲の環境を評価する機能が発達したものだと考えられます。光様を美しいと思い、見た時に発生するこのなんとも言えない多幸感。あなたのために生きなければならないという義務感。それらは脳の一部の機能が異常に働いているからだと思われます。これを見てください」
そう言って老人は机に置いてあったノートPCを開く。イメージファイルをダブルクリック。出された画像は、MRIか何かの画像に見えた。画像は三つ並べて張ってある。しかしそれがなにを意味するのかはわからなかった。
「これはついこの間行われた実験の結果です。実験は簡単なもので、一番右の右の画像はある男性にグラビアアイドルの映像を見せた時の脳の状態を表しています。真ん中は南国の浜辺の画像、そして一番左は光様が歩いている画像です。ほら、例えば全ての画像で赤くなっている場所があるでしょう? この部分は人間の視覚に相当する部分で、視覚領野と言います。特に注目すべきは視覚領野の一部、V5と扁桃体でしょう。一番左ではこの部分がほとんど活性化されていないのです。扁桃体は一般に情動などヒトの高次の精神活動などに関わっている思われており、光様を見た時の多幸感はここが活性化されていることを示唆しているにも関わらずです。逆に活性化しているのは側頭葉の――」
「ええと、申し訳ないのだけど、もう少しまとめて話してくれないかしら?」
「あ、すみません。つい興奮してしまいました」
「それで、結局要点を言えばどういうことなの?」
「光様は現代の脳科学の範疇を越えているということです」
そんなの大分前から知っていた気がする。
「顔が見えなければ意味がないというのは分かっているの、視覚と関係があるのは間違いないのですけど、やはり脳は面白い。そう言えばこの間アメリカの方で面白い実験があったと聞きました。なんでも後天的に脳の一部、具体的には前頭葉の――」
それから私は一時間ほど私についての研究についてのよもやま話を聞き流してから部屋を出た。病院の廊下の空気はお茶の様な匂いがした。外の空気が吸いたかった。
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「事故の後のお嬢様の様子ですか?」
「ええ、差し支えない範囲で話してもらえないかしら?」
アポ無しの突然の訪問だったけれどその老人は暖かく私を迎え入れてくれた。当然である。だって私は檻場光なのだから。胸が少し痛んだ。老人の家は村のほぼ中心にあった。そこはかつて村で唯一の診療所があった場所で、彼は、かつてその診療所を開いていた医師だった。瞳子のことも小さな時から診察していたとのことで、私は当時の瞳子のことを知るために来たのだ。
それにしても、なんだか最近医師にばかり会っている気がする。
「それは例えばどのようなことを」
「なんでもいいわ、事故後の経過とか、事故の原因とか――確か瞳子は事故の後三週間くらい目覚めなかったのよね?」
「はい、そうです。お嬢様は事故の際に頭蓋骨を骨折して長い間意識が戻りませんでした。むしろたったの三週間で意識が回復したことの方が奇跡でしょう」
「事故で家族が、その」私はすこし言い淀んだ。けれど老人は察したようだった。
「良い方たちでした。健吾様――お嬢様のお父上です――は真面目で、優しい方で、いくつかの企業の経営に参加していました。奥様はきれいな方でした。笑うことは滅多になくて、どこか冷たい雰囲気を与える人でしたけれど、子供たちには確かな愛情を注いでおられました。それからお嬢様と姉の裕子様」
老人はどこか遠くを見るような目つきで壁を見つめた。
「お嬢様達は本当に仲の良い姉妹で、いつでもお二人で遊んでおられました。瞳子お嬢様は容姿がすこし目立つ人ですし、子供とはいえ小山内の家のことは肌で感じていますので、いじめられることは無かったと思いますけれど、同い年の子供たちとは距離があったと聞いています。それを埋めたのが」
「瞳子の姉、ええと裕子だった?」
老人は首肯した。
「裕子お嬢様は元気の良い、やんちゃな方でした。幼稚園では年長の方も従えて子供たちのリーダーをしていたそうです。瞳子お嬢様もそれに影響されたのか、だんだんと人と遊ぶことに慣れてきて、裕子様が卒園するころには裕子様の次のリーダーになっていたと聞き及んでおります」
瞳子が子供たちのリーダー、今の瞳子からすると信じられない。確か事故があったのは十年前、瞳子が六歳の時。小学校に入ったばかり、あるいは幼稚園の年長組くらいだろうか。
「はい、そうです。事故が起きたのは、瞳子お嬢様がご入学された直後のことでした」
「そう……」
それは、あまりにもむごい。そんな幼い子供が、両親と姉を一度に失うなんて。
「お嬢様が意識を取り戻したのは、ご家族の葬儀も終わった後のことです。それが理由でしょうか。瞳子様は事故後、たまにお姉ちゃんがいる、などと言って誰もいない虚空を指差すことがありました。私たちにはなにもできませんでした」
その光景を思い浮かべると胸が痛んだ。
「意識が戻った直後は何かに怯えるようなご様子で、私も怖がられて大変でした。多少記憶の混乱もあったようです。周りの人が誰か分からないということがたびたびありました。しかし、それもだんだんと治まってきて」
そして今の瞳子は形作られた。人が苦手で、他人とのふれあいを拒絶する瞳子が。
「話は変わるけど、じゃあやっぱり瞳子の容姿は生まれつきなのね、髪も、肌も。実は両親のどっちかが白人だったとかかしら」
「お嬢様の父方の祖母がスラブ系の方でした。戦後に帰化したのです」しみじみとかみしめるように彼は言った。「きれいな方でした」
もしかしたら彼はその人が好きだったのかもしれない。私はなんとなくそう思った。
「じいちゃん、いるー? 親父からお使い頼まれてるんだけど」
家の裏のほうから若い男の声が聞こえてくる。腕時計を見るともう三時を回っていた。
「すっかり長居してしまったわ。色々ぶしつけな質問に答えてくれてありがとう」
「いいえ、光様の助けになったのなら望外の喜びです」
若い男と顔を合わせる前に建物を出た。扉の向こうで、若い男が何かに驚いて素っ頓狂な声を上げるのが聞えた。それを無視して、私は真っすぐに村で唯一の軽食堂に向かった。
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軽食堂にはもう、その人物は着いていた。
「ごめんなさい、待たせちゃったわね」
「いいえ、私も今来たばかりですので気になさらないでください!」
その割には彼女は汗一つかいていない。ラフなTシャツ姿だったが、汗のあとも見えなかった。まだ汗がにじんでいる私と対照的だ。
「今日は非番なのよね? ええと確か、恭子さん」
「はい、そうです! 私の名前をおぼえていてくださるなんて、感動です!」
彼女は無駄に元気だった。待ち合わせていたのは瞳子の屋敷で働くお手伝いさんの恭子さんだった。
喉は乾いていなかったけれど、なにも頼まないというわけにもいかなかったので、私はコーヒーだけ頼んだ。恭子はケーキセットとだった。
「ちょっとあなたに聞きたいことがあるのよ、確かあなた瞳子と仲が良かったわよね?」
「仲が良い、と言っていいのでしょうか。確かに私はお嬢様の身の回りのお世話を主にやらせていただいていますけれど。一番お嬢様が信頼しているのは由希さんだと思いますけど」
そんなことは知っている。けれど、由希さんに瞳子のことをこそこそと聞くのはなにか気が引けた。
「瞳子は元気?」
「お嬢様は」恭子は口ごもった。そして言いにくそうに言った。「お嬢様は、最近ではご自身の部屋から出ようともなさいません。まるで生気がございません。八月の終りも元気がありませんでしたけれど、九月に入ってからは特に……」
「そっか」小さく呟いた。
扇風機の音が部屋に響いた。コーヒーを一口すすった。
「瞳子の普段の様子が知りたいの。私の質問に答えてもらえる?」
「え、あ、はい。わかりました」
「例えば、瞳子は普段な自分で着る服を選ばないらしいけど、それは本当?」
「そうです。お嬢様のお召し物は私と由希さんが毎日交代で選んでいます。お嬢様は基本的に服装とか見た目とかに頓着しないのですけど、強いて言うならミニスカートとか布が少なかったり、意味のわからない文章が書いてあったりするものははっきりと嫌いとおっしゃいます。それ以外は、あまり」
「外見に頓着しないって言うけど、その割には瞳子って可愛いじゃない。爪はいつも磨いてあるし、あの肌とか髪とかもなんの手入れもなしに維持しているとは思えないわ」
「ええ、そりゃ当り前ですよ。そういうのは全部、不肖ながらわたくしが手入れさせていただいています!」
「爪磨いたり?」
「はい!」
「髪を洗ったり?」
「はい!」
「か、体を洗ったりも?」
「はい、そうです!」
そいつは、また。羨ましい。じゃなくて。
「正直な話、お嬢様はすごくちっさくてかわいらしいので、お世話をしているとなんだか胸がキュンキュンするのも事実です! あ、でも光様ほどではないのです! ご安心ください!」
むしろ不安にしかならない話だった。いろんな意味で。
「念のために聞いとくけど、体洗うとかそれ以上のことはしてないでしょうね?」
恭子は震え声で、それまで自分がした行為を洗いざらいに話したが、その中には確かにそういう行為は含まれていなかった。少し安心した。
「言っとくけど、無理矢理瞳子に手を出したりしたら私あなたのこと嫌いになるわよ」
「絶対にしません」語尾が震えていた。少し脅し過ぎたかもしれない。
「でも、なんでそんなに気にしないのかしら? 普通の女子なら見た目は結構気にするわよね」
「瞳子お嬢様が言うには『自分には美的センスがなさすぎる』からだそうです」
美的センスがないから、私の美しさが分からない。だから私に惚れない。冗談みたいな話だった。
私はその後も瞳子のことをいくつか聞いたが、あんまり目新し事実は出てこなかった。
話もそこそこに切り上げて、私は店を出た。時刻は四時くらいだった。九月の太陽はまだ空に残っていた。夕焼けが見えそうな雲ひとつない空だった。
家に帰って一度シャワーを浴びた。汗と同時に、漠然とした不安を洗い流したかった。家に帰っても歪がいないというのはやはり、応えるものだった。
浴室に備え付けられた洗面台の鏡の中には私が映っていた。檻場光、現代脳科学で説明できない美少女という現象。濡れた黒髪からお湯が滴る。ふん、大したものじゃない、私。そんなにまで多くの人を困惑させるなんて。やるじゃない、檻場光。
体を抱きしめた。シャワーの温度を上げる。けれど震えは止まらなかった。もっと熱く、やけどするくらい熱く。
私は、瞳子の嘘を見破れるだろうか。不安が鎌首をもたげる。
もしも見破れなかったら、瞳子は私の下から去ってしまうのだろうか。その時、私になにが出来るだろうか。
思い返せば私は逃げてばかりだった。事件の時も、あの夏祭りでも。
私は怖い
このまま彼女が去ってしまった時、私はまたなにもせずに逃げてしまうんじゃないかと思う。そんな私が彼女と一緒にいる資格なんてあるのだろうか?
でも、一緒にいたい。
瞳子がそばにいて、私にその控え目な笑顔で笑いかけていて欲しいと思うのだ。
言葉にすれば美しい。でもきっとそんなきれいな感情じゃない。結局私は我がままであり、私と一緒にいて幸せならば彼女に逃げられることなんてないだろうと、そんな打算が生んだ願いだ。願いと言うより欲望だ。
けれど、汚い私を見て欲しいと思うのは欲張りなのか。
優しくなければ生きる資格はないのか。
初めて私に涙を見せてくれた彼女を愛おしいと思うのは間違っているのか。
だから。
思考を絶やすな。
論理を尽くせ。
私は必ず彼女の嘘を見破るのだ。
*どうか、一人でも多くの人が彼女を嘘を見破りますように*




