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16/20

8/31 part2

 そして一枚の落ち葉が落ちて、瞳子はその手を掴まれました。


 知っていましたよ。背後から近づく人の気配があったことくらい。


 もともとこんなの上手くいくはずないことくらい。


 手から力を抜く。瞳子の手に握られていた凶器は――万能包丁はその手から滑り落ちて、そして歪の眠るベッドにむなしく刺さりました。後ろを振り返って、


「お久しぶりです、光」


 瞳子の凶行をすんでのところで阻止したのは、檻場光その人でした。


「ええ、二週間ぶりね、瞳子」


 意外なほど落ち着いた声で光は答えます。


「驚かないのですね? 意外じゃないのですか?」


「驚いてるわよ、これでも」と、光は感情の起伏を感じさせない至極平坦な声で告げました。


「光は、どうしてここに?」


「瞳子が見舞いに来たって聞いたから、念のためによ」


「監視していたのですか?」


 光は質問に答えずに瞳子の横に並びました。ベッドに刺さった包丁を引き抜き、わずかに乱れたシーツを直し言いました。


「少し長めの話になるかも知れないわ。屋上にでも行かない?」


 瞳子は黙って頷きました。点滴が一滴、ボトルの中に小さな波紋を起こしました。


 ****


 屋上までの階段を、瞳子と歪は黙って上りました。不思議と話すことが思いつきませんでした。伝えたい思いは、あったのかもしれません。もう瞳子にはそれすらわかりません。でも仮にあったとしても、きっとその時の瞳子には伝える言葉と、それから伝える勇気がなかったでしょうし、結果は同じ。どちらにせよ、無理。


 どだい無理な話なのです。完全犯罪なんてものは。


 絵空事です。荒唐無稽な人の夢に過ぎないのです。


 病院の屋上は解放されていました。それとも普段は解放されてないのでしょうか。もしも解放されてないとしても、光ならそれくらいの無理はこじ開けるでしょう。だからこれも、どちらでも同じ。屋上の周りにはぐるりとフェンスが張り巡らされ、ここから飛び降りるのは骨が折れそうだと思いました。見えるものは空ばかり、ただ目に痛いほどの青で視界を染め上げる、空。飛び降りてあの中に身をひるがえす、それはとても甘美な妄想で、


「瞳子は」しばらく黙って瞳子を眺めていた光が口を開きました。


「瞳子は空ばかり見るのね」


 そうでしょうか。そうなのかもしれません。自覚はありませんが、でも、それはある意味とても自然なことかもしれません。


 空は好きです。空は、なにもありませんから。いいえ、こう言ったら嘘になります。空になにもないなんてことはありえません。そこには気体分子があり、階層構造があり、気圧差があり、色があり、空間がある。ないものは多分、


「空には、ヒトがいませんから」


「瞳子は人が嫌いなのかしら?」


「嫌いというわけではありません。瞳子は嫌いになるほどヒトに関わったことありませんし。ただ瞳子は、ヒトが苦手なのです」


 ふうん、と光は興味がなさそうに鼻を鳴らします。


「苦手だから殺したの?」


 思わず噴き出しました。今さらなぜそんなことを聞くのでしょう。あまりにも遅すぎます。試合が始まったのにピッチャーマウンドにまだアイドルが立っているくらいに、いくらなんでも愚鈍です。呵々大笑。


 一つ息をついて、


「光にはなにが分かっているのですか?」


「そうね。私になんにも分かってないわ。分かっているのなんて、5W1Hで言うならば一つだけ、フーダニット。つまり犯人だけよ」


「誰ですか?」


「瞳子」光の言葉は真っすぐに瞳子を貫いて、「あなた」


「瞳子が犯人だなんておかしくないですか? だって瞳子は被害者の一人ですよ?」


「ついさっき歪を殺そうとしていたじゃない」


「あれは、まあ」言い逃れは出来ませんけど。「でもだからと言って瞳子が前の事件も起こしたなんて言うのは強引ではないでしょうか」


「確かにそうだわ」光はあっさりと認めました。「実際さっき私が言った言葉は誇張よ。私に分かっているのは、『瞳子以外には歪に毒を盛り、米倉隆を殺害出来る人はいない』それだけ」


 ふうん。あ、そう。挑戦的に呟いたつもりです。


「そうですか。じゃあご説明してくれませんか?」


 いかにして瞳子に一人を殺し、一人を殺しかけることが出来たのか。


 瞳子の問いに光は疲れたみたいに溜息をついて、


「いいわ、そのために今日はここに来たんだもの」


 そして役者はそろい、終りの幕を上がる。


 ****

 

「化学部の扉は鍵がかかっていた。美術部の部室は鍵がかかってチェーンロックがされていた。二つの部屋の窓はすべてしまっていた。二つの部屋の鍵は美術部の部室の中に落ちていた。相鍵は他に存在していなかったことが確認されている。ここまではおっけ?」


 多くの推理小説、ミステリーで採用される古典的テーマ、所謂密室です。光も好きそうな話です。


「ええ好きよ。でも瞳子にとってはこんなの密室でもなんでもないわ。だって密室の鍵は最初から最後まで瞳子の手元にあったのだもの」


 その通り。瞳子が犯人なら話は簡単だ。


 化学部室に入って米倉隆のカップに毒を盛り米倉隆を殺す。そして内部に保管してあった鍵で扉を閉めて外に出る。美術部の方も同じだ。堂々と侵入して、毒を盛り殺す。そして――


「でも、それならなぜ瞳子は部屋の中に残っていたのですか? そんな危険な現場一刻も早く脱出するべきです」それなのに実際は瞳子は中に倒れていた。これは矛盾です。この矛盾が言うことは、瞳子は犯人でないという明白な事実。瞳子の言葉を光はさえぎる。


「瞳子は脱出したかった。当初の予定では瞳子はその後鍵を閉めて外に出るはずだった。扉を閉めたのには二つの理由がある。一つ目は事件の発覚自体を遅らせるため。二つ目は二人の死を自殺と偽造するため。しかし瞳子の計画はそこで狂う。なぜ? それは単に私が来たから」


 瞳子のつたない反論を、光は容易く押しつぶした。


「瞳子が家を出たのは十二時十分過ぎ。瞳子は自転車にも乗れないし、原付も持ってないから自然徒歩で学校まで歩くことになるわ。学校まで歩いて三十分くらいだから着いたのは四十分。私が学校についたのが一時過ぎだから、瞳子が実際に犯行に用いることが出来た時間は正味二十分程度だわ。人殺しなんて慣れないことをする時間としてはぎりぎりって所じゃないかしら。

「そして実際に時間が足りなかった。米倉隆に毒を飲ませるまでは良かった。けれど、歪が毒を飲んだその直後、ドアがノックされる。私が来たのよ。瞳子は焦ったわ。だってそのままじゃ一目瞭然で犯人は分かってしまうもの。念のためにチェーンロックをしてあるけど、でも扉が破られるのは時間の問題。どうする? 見られれば、終わる。瞳子が犯人であることはあまりに自明。けれど自分が犯人じゃなくなるには? 瞳子が実行したのは一番手っ取り早い方法。疑われないためには、自分も被害者になればいいと思った。簡単な話だと思わない?」


「それで瞳子は自分で麻酔を吸って気絶した、と?」


 ええ、そうよ。光の肯定。


「そして嘘の証言をする。部屋に入ったらいきなり知らない誰かに襲われた。だから自分は犯人じゃないって。

「さらには米倉隆が死んで、歪がまだ生きているという事実も私の説と符合する。もちろん個人差があるし、飲んだ量も影響があるから一概には言えない。でも単純に考えて、処置されるまでの時間が早ければ早いほど生存確率は高まる。歪は生きて、米倉は死んだ。この事は歪の方が毒を盛られたのは後であることを示唆している。それこそ、私が来る直前に毒を飲んだ、とか。そしてそれならば、犯人は、瞳子は脱出するだけの時間がなかったのはとても自然な話だわ――どこか矛盾があるかしら?」


「さあ? 瞳子にわかりません」


「そう、それは」それは残念だわ。光の声の冷たさに、瞳子は背筋を震わせました。


「毒物や麻酔は一体どこから持ってきたのですか?」


「化学部で保管されてるいくつかの劇薬の量が資料と一致しなかった。それらと身の回りにあるものから十分に摂取されたものは作れるそうよ。麻酔も同じ」


 瞳子はあんまり化学得意じゃないんですけどね。でもまあ調べればそれくらい出来るでしょう。光の説明は正しいようでした。瞳子にはあの事件を起こすことができる。それは認めましょう。けれど、


「確かに瞳子には一人を殺し、一人を殺しかけることができるかもしれません。でも、だからと言って瞳子が犯人であると強弁するのは暴力的過ぎます。常微分方程式じゃないのですよ。条件を満たす解を一つ作って終わりでは、いかにも片手落ちです」


「つまり、示すべきは解の一意性というわけね?」


 その自信に不吉な予感が背中を滑り落ちる。まさか、そんなことできるわけない。でも、


「お望みとあらば、示してあげるわ」


 光は瞳子の反論を真っ向から受けて立つとのたもうた。


「もし、仮に、瞳子以外の犯人Xがいたとする。さて、瞳子が犯人じゃない以上瞳子は嘘をついていないでしょう。つまりXは犯行直後に瞳子が部屋に来たので、麻酔で気絶させた。その後が問題だわ。私が部屋に来た時点ではXは部屋にいなかった。瞳子が来てから二十分の間にXは部屋から文字通り煙のように消えてしまったということになるわ」


「そんなこと不可能だと言うつもりですか? 犯人は密室から脱出できない。しかし犯人は内部に入らなければならない。これは矛盾すると? でもただ単にその外部から密室を作る手段を光が思いつかないだけかもしれませんよ。その可能性がある限り、その理屈は無理だと思います」


「まあその可能性は否定できないわね」


「それに、究極的な話、どんな密室でもゼロでない確率で物質は透過できるのですよ。どんなに高い、巨大なエネルギーギャップでも――それこそ場の理論みたいにサイズが無限でないならば――量子的にはトンネリングすることは可能です。それが十のマイナス三十乗以下の小さな確率でも、不可能とは言えませんよ?」


「そうかしら。瞳子はいくらなんでも確率を過大評価しているわよ。マクロな物質のトンネリングなんて起こらないわ。瞳子は今まで壁にぶつかってすり抜けたことがあるかしら?」


 そんなことあるはずありません。自分がへ理屈を言っていることくらい百も承知です。


「でしょうね。でも安心して」と光は穏やかな声でなだめるように瞳子に言う。「私は一応違う説明も考えてきたわ。それは密室を作った人間のことを考えればわかることよ。

「まず少し考えれば分かるけど、密室殺人って意味のわからない殺人なのよ。だって考えてみなさいよ、密室にするメリットって何? 密室の内部で明らかな他殺体が見つかったとしたら、あり得る可能性は次の三つよ。

「一つ。犯人は内部にひそんでいるか、

「二つ、そもそも犯人は中に入ってないか、

「三つ、あるいは密室のようで密室じゃないかのどれかよ。

「そしてそのどれも、人を殺すという行為に加えて密室を作るという手間を増やしている。手間が増えれば増えるほどぼろが出やすくなり、特別な手段をとればとるほど犯人は特定されやすくなる。密室殺人は、殺人と判断された時点で失敗している。それは事故か自殺と判断されなければ意味がない。

「そして今回の密室を見てみると、Xが瞳子に見つかった時点で他殺だとばれている。つまりこの密室はこのままじゃ意味がないのよ。だからもしもXがいるなら、ここに一手間加えないといけない。瞳子にはそれが何か分かる?」


「さあ? 密室を崩すことですか?」


「違うわ。もしも犯人Xがいるなら、瞳子を殺さなくてはならない」


「なぜです? さっき密室の内部に他殺死体があったらダメだと言ったのは光ですよ。きっとXは瞳子に見つかった時点で己の計画の失敗を悟り、可能な限り迅速に逃亡したのですよ」


「そんなわけないわ。だって内部には歪が倒れていたのよ。歪は毒物によって意識を失っていた。あの状況なら、歪は自殺を図ったかのようにも見える。だから仮に瞳子が明らかな他殺体で見つかったとしても、警察はきっとこう判断する。瞳子を殺した歪が服毒自殺を図ったと。そうすれば完璧じゃない。誰もXのことを疑わない。間違いなくXにとって最良の選択は瞳子を殺すことだった」


「Xはそこまで頭が回らなかったのかもしれません」


「少なくとも私や瞳子には思いつかない密室を作り上げるだけの知性がXには存在する。それならばこれくらい思いついて当然じゃないかしら。それなのにXは最良の道を取らず、瞳子は今も生きている。これは矛盾じゃないかしら?」


 つまり瞳子の生存こそが、Xの非在を証明していると、檻場光はそう言い切りました。


「よってこのような人物Xは存在しない――暴論だと思うかしら?」


 首肯。暴論です。ちょう暴論です。そんな答えを受け入れるくらいなら、デカルトの神の存在証明でも受け入れたほうがましです。例えば、密室はXの意思に反して偶然的に出来た可能性だってあるじゃないですか。


「それともなんですか、光はそんなにも瞳子を犯人に仕立て上げたいのですか?」


 それはある意味決定的な言葉だった。


「そんなわけ、ないじゃない」


 冷静な仮面に亀裂が入るように、


「そんなわけないじゃない! 私だって信じたくないのよ。でも、だってあんた以外犯人がいない!」


 ついには叫ぶように光は言いました。瞳子はその言葉の意味が分からずに問い返しました。


「どういうことですか?」


「あなた以外のすべての犯行が可能な人間は、歪に毒を盛っていないと私に宣誓した」


 その声は真剣そのもでした。けれど、瞳子には冗談にしか聞こえませんでした。しかも誰も笑わせられない類の。だって、瞳子以外って、ヒトはこの地球上に七十億人もいるのですよ?


「つまり歪と米倉隆は地球の反対側の、どこの誰ともわからない人間と一緒にお茶を飲もうとして毒を盛られたって言いたいの?」


「いいです。少なくとも犯人は二人に面識があった人物でしょう。でも、例えばこの村に住む人なら誰だって二人と面識はありました」


「ダメよ」


「なぜです」


「だって、村の住人は全員、毒を盛っていないと私に向かって宣言したわ」


 瞳子は笑いました。馬鹿馬鹿しくなって。まるで頭の悪いコミックです。だってそんなこと意味がありません。だって、「村の人が嘘をついているかもしれませんよ?」


「無理よ」瞳子の常識を、光は一言で否定します。「なぜなら瞳子以外の人間は私に向かって嘘をつけない。私に嫌われるというリスクと、殺人罪ならば、人間は間違いなく殺人罪を取る」


「光は頭がおかしいのです。そんなわけないじゃないですか」


「おかしいのは瞳子の方よ。私に嫌われてもいいなんて考えるのは瞳子だけだわ」


 光はさも当然の事実であるかのように言いました。


「私に嘘をつけるのは、あなただけなのよ。私はまだ生まれて十六年しか経ってないし、それまで直接会った人間なんてせいぜい数万人くらいだけど、でもその全員が私に一目惚れした」


 思い出します。光はあらゆる村人から恋文を受け取り。


 ――だけど瞳子一人がそれを出さず。


「私が命令すれば誰だって私の言うとおりに行動する」


 不意打ちで訪問した先がイヤな顔一つせず質問に答え、メイドは瞳子の言葉よりも光の言葉に従い、その顔を見た女性が言葉のままに行動し。


 ――けれど瞳子は光にいちいち文句を言って。


「そして何よりも――瞳子は誰もが欲する私の好意をただ一人、拒絶した」


 世界はまるで彼女を中心に回るようでした。でも、その中で瞳子は一人だけ外れていた。


「瞳子以外の村の人はみんな自分が犯人でないと私に対して宣誓した。特に二つ目の事件は理想的だったわ。だってあの時、たまたま大量の捜査官が学校の周りにいたのだもの。彼らが目撃した人物はすべて、村の住人であったと確認された、つまり歪に毒を盛っていないと私に宣言した人物だけだった。

「もちろん、この村とは縁もゆかりもない人物が誰にも気づかれないうちに、やったという可能性は完全には否定できない。だから私はこの半月の間、色々試してみたの。知り合いに頼んで全国で捜査させたり、ひたすら村やら周りの街やらで誰か知らない人を見たことがないかと尋ねてみたりしたわ。けど」


 けれど、どれだけやっても瞳子以外に犯人たりえる人物は結局出てこなかった。


 なんというごり押しでしょう。


「瞳子、私は何かまだ見落としていることがあるかしら?」


「一つだけ聞いてもいいですか? なんでヒトは光に一目ぼれするのですか?」


 だってそんなのおかしいじゃないですか。瞳子にとって光はただ妙に積極的で自信過剰で、瞳子に無暗矢鱈に関わってくるただの女子でした。なのに、まるで光の話しぶりでは、光は神様の様です。瞳子の中の普通の光と、瞳子の外の光とではあまりにかけ離れています。


「だって私は美少女だもの」


「美少女とはなんですか?」


「美少女っていうのはね、一目見ただけであらゆる人の心が心奪われる魅力を持つ女子のことよ。狭義には私と言ってもいいわ」


 まるで麻薬だ。そう思いました。


「そうよ、美しさって麻薬なのよ。人間はさ、ピカソの絵に何十億出したり、ある礼拝堂の壁画を見るためだけに、年に何百万人も集まったり。アレが狂ってないわけないじゃない。私という美のために人は命だってかける。だってそれに値するだけの美しさが私にはあるから」


「瞳子にはそれが分かりません」


「そう、だからあんたが犯人なのよ」


 狂っている、そう感じる瞳子が狂っていると光は言う。


「まだ光が調べてない人が絶対にいないと言いきれますか?」


「わからない。でもそんなの問われてもどうしうもないわ」


 どんな命題でも、否定することは容易ではない。それが出来るのは多分、エネルギーの保存則や、因果律などがあらわに効く場合くらい。それすらいつか間違っていると分かる時が来るかもしれない。推理と論理は違うのです。


「例え全部の他人を調べたとしても、光の論理は穴がありますよ。光に嘘をつけるのは瞳子だけじゃありません」


「具体的には誰のことよ?」


「檻場光、あなたです」


「私は自分が犯人じゃないって知ってるわ」


 そりゃそうです。


「他になにかあるかしら?」


 もう、なにも言えることはなかった。後すこし抵抗は出来るかもしれない。けれどもそれは結局はただの時間稼ぎにしかならないと、そう判断しました。負けたのです。瞳子は。


「……以上の議論から、米倉隆殺しおよび、檻場歪毒殺未遂事件の犯人は小山内瞳子であると、私は推理する」


 あたりに沈黙が訪れました。扉の向こうで、誰かが隠れているような気配がしました。太陽は、まだ熱かったけれど、でも汗は嘘みたいに出ませんでした。


 光は優しい。さっき瞳子が包丁持って経っていた時点で、犯人なんて明らかだったのに。


 くすりと、知れず小さな笑いが口の端から洩れて、


「だから最初から言っているじゃないですか。瞳子が犯人だと」


 瞳子は自嘲するようにそう言いました。時が止まったように感じました。もう終わりにする時なのだと理解しました。


「そう、それは」

 

 とても残念だわ、と光は呻くように言いました。


「ねえ、なんで、なんで瞳子は米倉隆を殺したの? なんで歪に毒を盛ったの? どうやって米倉浩二を殺したの? どうしてそいつを殺したの? ねえ教えてよ。お願いだから教えて、瞳子。ねえ、なんで」


 光の声は最初は小さく、そしてだんだんと大きくなって、最後には村中に聞こえるんじゃないかというような大声で、叫ぶように言いました。


「なんで、なんで私を好きにならないの?」


 一つ深呼吸して、瞳子はゆっくりと話し始めました。


 ****


「米倉浩二を殺した方法は簡単です。ただちょっと眼鏡に細工をしただけ。度があってないものと交換したのです。それで夜の学校に来れば光のあられもない姿が見れるよと唆した。まさか死ぬとは思いませんでした。ちょっと怖い目にあえばいいと思っていただけなのです。だけど彼は時計塔から落ちて、死にました。

「瞳子にとっては事故みたいなものでした。でも、結果は最悪の物となりました。なんとかごまかそうと、真っ先に死体に駆け寄り持っていた眼鏡を割って、あたりに散らばっていた破片と取り替え、証拠を隠滅しました。

「歪を殺したのは、瞳子が人殺しだとばれたから。彼女は瞳子が眼鏡を取り替えるのを見ていたそうです。そして彼の死の原因を理解しました。なぜ彼の恋文を持っていたのかは瞳子にはわかりませんが、とにかくとっさの判断で遺書を偽造したそうです」


 なぜ、こんなことになったのでしょう。自分でもわかりません。瞳子はなぜ、こんなことを光に向かって話しているのでしょう。


「黙っている見返りとして、歪は瞳子に体の関係を求めました。瞳子は拒否しました。しかし、要求に応じない瞳子にいら立ち、歪は少しずつ警察に情報を流し始めました」


 事件が起こったのは八月一日だった、そしてその次の事件が起こるまでの二週間。


「それで、瞳子はどうしたの?」


 光に先を促され、瞳子は唇を湿らせて先を続けます。


「もうこれ以上は待てない。警察に突き出すと歪は言いました。瞳子はもう覚悟を決めました。殺す覚悟を。米倉隆を殺したのは彼と歪はグルになっていたからです。あの日、瞳子は脅迫に従うふりをして二人と会いました。学校を指定したのは歪達の方です。家では色々と出来ないと思ったのでしょう。その後の瞳子の行動は、さっき光が言った通りと思ってもらって構いません。

「今日は、歪に止めを刺しに来たのです。でも、光に止められてしまいました」


 無念です、と瞳子は言葉を切った。


 一際強い風が西から吹きました。その風に乗って聞えたツクツクボウシの声が、無暗に胸に響きました。夏が終わる。悪夢のような夏が終わる。その前に事件にけりがついて良かった、瞳子はまるで他人事みたいに思いました。そう思いたいと思いました。でも、なぜでしょう。病気みたいに胸が痛い。


「それで、光は瞳子をどうしたいのですか?」


 喉から出た声は、うろの底から聞こえるみたいに、にじんで聞えました。


「警察に突き出しますか。それともこの場で殺しますか?」


「なんで私がそんなことするの? そんなことして私の気持ちを晴れないし、歪の喪失は癒されないわ。瞳子にはそれをいやす義務があると思わない?」


 確かに、警察なんて意味不明な機構と歪の喪失は関係ない。瞳子が責任を負うとしたら光に対してが一番大きいだろう。だから、と。光は言う。


「私の、妹になりなさい」


 光は、本当に無茶苦茶でした。


 何か言おうとして、言葉がのどに詰まる。世界がにじんで見えます。何かがこぼれそうになって、瞳子は天を仰ぎました。


 ああ、なんで。


 いつの間にか空が一面の水に覆われています。空の青が水のそれに変わっています。胸が苦しい理由が分かりました。人間はえら呼吸できない、だから水の中では苦しいのです。バカみたい。そんなの当たり前じゃないですか。

 

 それなのに水の向こうの光はどうしてなんでもないみたいに普通に息をしているのでしょう。卑怯だと思います。


 口から変な声が漏れる。押し殺すような声、呻くような声。


「無理ですよ……」


「なんでよ」光の声は不機嫌そうに響いた。


「だって、だって瞳子は嘘つきですから」


 みっともない鼻声でした。


「瞳子の嘘がなんだって言うのよ? そんなことであなたは私と一緒にいられないの?」


「そんなことって、あはは、ダメですよ――瞳子は人と一緒にいちゃいけないんです」

 

 だって瞳子は、瞳子の嘘は絶対にそれを許しませんから。だからうっちゃっておいてください。何かの形で光には償います。だからお願いだから、これ以上瞳子をみじめな気持にさせないで欲しい。これ以上優しくしないで欲しい。これ以上幻想を見せないで欲しい。


 瞳子の言葉はいよいよ不明瞭で、もう瞳子はごまかせそうにありませんでした。


「すみません。なんだか目から水が溢れてしまって」


「瞳子、それは涙って言うのよ」


 馬鹿じゃないですか。そんなこと知っています。ただの冗談です。言い返したかった。それなのに瞳子の呼吸器は勝手に荒い息を繰り返し、横隔膜は不規則に痙攣し、鼻と目から液体を零す。


 ああ、泣いてしまった。自分から苦しいと認めてしまった。馬鹿な瞳子。弱い瞳子。


 なんでこんなことでそこまで苦しいのか。そこまで悲しいのか。


「瞳子、辛い時は人に頼っていいのよ」


 優しい声と一緒に、瞳子は暖かな何かに包まれました。

 

 なんで、そんなに光は優しいの? 瞳子はそんな優しさを受ける価値もない、本当に意味のない、抜け殻の幽霊みたいなものなのに。


 無理でした。


 話してしまいたい。何もかもぶちまけて、それでもなお光がいてくれると信じたい。でも、十年間瞳子を守っていた殻は思った以上に頑丈で、臆病で。苦しくて。


 助けて。


「なに?」光の声は耳元で響きました。


 お願い、助けて。


「お願いだからわたしの嘘を見破って」


 ****

 

 その言葉は届いたのでしょうか。


 でも、確かに光は抱きしめてくれました。


 だから瞳子はそこから抜け出して、屋上から逃げ出しました。


 目の染みるような青が、いつまでも目からこぼれて止みませんでした。


 瞳子は、わたしを取り戻せるでしょうか?

 

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