8/17 part1
その後のことは、あまりおぼえていません。
気がつけば寝巻に着替えて布団の上に転がっていました。
もう寝よう。灯りを消して目をつむりました。
けれど、布団に入っても千々に乱れる思考は休息を望まず、ただまんじりと横になるだけの時間が続きました。脳が思考を欲します。けれど、なにについて考えればいいのでしょう。光のこと? それは無意味です。だってそのことについては、もうとうの昔に決断しています。これ以上の考察は抜け道がないことの確認と、過去の瞳子への恨みを生むだけの非生産的な行為だと、それくらいは自覚しているのです。
それは恐らく逃げるための口実だったのです。そのことについて考えなくてすむのならなんでも良かったのです。瞳子が選んだ逃げ道は、あの事件についてでした。
一人の男子生徒が学校の時計塔から転落死した。
時計塔には彼が書いた直筆の恋文が置いてあった。
事実として確実なのはここまでです。それ以上は色々と不確実な要素が多すぎます。
例えば、その恋文が保管してあった場所には誰も泥棒に入った様子がないこと。
例えば、その男子生徒には殺されるような理由がないこと。
例えば、その男子生徒には誰かと争ったような形跡がないこと。
例えば、あの事件の前後であやしい人物が見つかっていないこと。
それからあの日の瞳子たちの行動、光の言動、歪の行動。すべて不確実。でも、それらすべてが正しいと仮定したら導き出される最も自然な推論は――
でも。そこで瞳子の思考は詰まります。
でも、なぜ?
なぜそんなことをしたのか? 何度も辿った筋道は、やはり同じ二重三重の隘路で行き場を失いました。ならばやはりその仮定こそ間違っているのか。それとも、なぜと問う事自体が間違いなのか。疑問はじりじりと無限後退に落ちていき、いつしか判然としないゲル状のイメージに飲み込まれる。
なぜ?
****
いつの間にか寝てしまっていたみたいです。
気づけば障子は白く輝いて、枕元の時計は二つの針を真上を向いてぴったりと重ねていました。微かに、鐘の音が聞こえた気もします。半身を起してぼんやりとしていると、ぎしりぎしりと微かに軋む音が近づいて、そして瞳子の部屋の前で止まり、「お嬢様起きていますか?」遠慮がちに響いた声は由希のものでした。
「起きています。何か用事ですか?」
「お電話です」
心臓がどきりと大きな赤い塊を吐き出して、
「誰からですか?」
「歪様からです」
そして安堵に弛緩した。
「ハロー小山内先輩、もう起きてる?」
受話器の向こうの声は能天気に、無害そうに聞えました。
「今何時だと思っているのですか。起きているに決まっています。光と一緒にしないでください」もちろん、光の生活リズムなんて知りませんけど。「それで、あの、なにか用事でしょうか?」
「ちょっと今から会いたいんだけど、大丈夫?」
「それはもしかして、光と関係がある話ですか」
「うん? お姉ちゃん? まあ関係なくはないよ、というかこの村に関することでお姉ちゃんと関係がない事象なんて一つもないと思うけど」
「そうではなくて、例えば瞳子がそっちに向かったら光が待っているとか」
「ふーん、そういうの一応気にしてるんだ?」
意味深なセリフです。
「小山内先輩には人間らしい感情なんてなくて、ただのゾンビ的な何かなんじゃないかと思ってたんだけど、そう言うわけじゃないんだね。ほらあれ、哲学的ゾンビとか、そっち系の」
「もしも瞳子が哲学的ゾンビでも、歪や他人に判別する手段はありません。その疑問は無意味です」
「小山内先輩はそういう立場なんだ」
立場って言うか。
「だってそれはそういう問題でしょう? そうじゃないなら、例えば、歪には人の心なんてものが見えたりするのですか?」
「心、かあ。うふふ、面白いなあ小山内先輩は。小山内先輩には見えないの?」
「瞳子には何も見えませんよ」
「あはは、別にそんな卑下するようなことじゃないよ。そもそもヒトの目には何にも見えてないんだから。だから別に小山内先輩が取り立てて目が悪いわけじゃないよ」
いきなりなにを言い出すのか思いました。
「だってそうでしょう? 人は入射したフォトンによる分子の励起から、電流を読みだして、それを脳という機関で処理することによって心の認識する風景を作っている。もしも本当にヒトが正しく《外部》なんてものを認識しているならば、それは網膜のどこの分子がどれくらい励起したかという事細かな情報以上のなんでもないはず。
「その情報と今あたしが見ている風景は同じかな? 同じじゃないにしても、それと外部の状態の間にはちゃんと全単射が成り立つの? 集合としては同じとみなせる? ううん、それは違う。だって同じものを見ても違う認識にはなりえるもの。有名なものだと騙し絵なんかがそうでしょう? アレって、ある一つの絵が複数の認識を生み出してるわけだもん。単一の情報が複数の認識を描くならば、人の認識はただの妄想と大差はないでしょ。
「ほらあ、誰にも《外》なんて見えていない。ね、そうでしょ?」
障子から差し込む光が格子模様を作り上げる。それはまるで立方体のように見えました。けれど一つの立方体の線画でも、それが出っ張っているのか、あるいは引っ込んでいるのか、見え方は二通り。
「ごめんなさい小山内先輩、興奮しちゃって。でも興奮もするよ。あたしあの事件解けちゃったかもしれないよ。今すぐ話したいからすぐに来てくれる?」
「別にかまいませんよ」
ちょうど良いタイミングでした。瞳子の彼女に聞きたいことがありました。
出来るだけ早く、学校に来て。学校のどこですか?
「じゃあ、美術部の部室で」
「なぜ美術部の部室なのですか?」
「小山内先輩は知らないの? あたしは美術部員なんだけど」
初耳でした。
美術部室の場所を知らなかったので、それだけ聞いて、瞳子は電話を切りました。
一体なんだと言うのでしょう。胸の中に疑念を抱きながら、瞳子は寝不足か寝すぎか、重い体を布団から引きずり起こし、
「由希、すこし出かけます」
「お嬢様、朝ごはんはいかがなさいますか?」
「あまりお腹がすいてないからいいです」
それに朝ごはんという時間でもないでしょう。
布団の横に置かれていた白いワンピースに袖を通します。そう言えばこの服、夏休みの最初、海水浴の日に着ていた服でしたっけ。なんだかあの時から随分経ったような気がしますけど、まだ一月も経っていないのです。瞳子はなにかを間違えたのでしょうか。さもなければ、あんなに幸福だったのに、どうしてこんな胸が苦しいのか。
麦わら帽子を手にとって、瞳子は家を出ました。
焼きつくような強い日差しが、まるで影を焦がさんと言わんばかりの白が辺りを照らします。陽炎の向こう側に、茶色い未舗装の道と、そして微かに緑の土手が見えました。まだ蝉の声の聞える夏の昼。
その日の空も、宇宙の果てまで青に染まり、正真正銘の夏だった。
****
美術部の部室は美術室の隣の小さな部屋でした。美術室や音楽室、それから物理部や化学部の部室など、文化系の物は全部集めていて、校舎の東側にありました。この配置には文科系は全部まとめてしまえという乱暴な思想を感じます。その中でも美術部の部室は三階の一番はじっこにありました。
部屋の扉は簡素なもので、目線よりも少し上の部分に白いプレートで美術部、と書いていなければ、きっと瞳子は気が付かないだろうというような、そういう代物でした。一つノックして扉を引きます。しかし、返ってきたのは、ガンという鈍い手ごたえ。
思い切り引っ張ってみますが、扉はびくともしません。鍵がかかっている。
「歪、瞳子です。いるなら開けてくれませんか?」
しかし中から返事はありませんでした。
辺りはしんと静まり返っていました。もしかしたらまだ歪が着いていないのかもしれないと思い、一度職員室に行って鍵を取ってこようと踵を返します。
かちり、と背後で鍵がまわる音がした。そして微かなヒトの気配も。
背後にある扉は、美術部の物だけです。扉に手をかけます。
なにか、ひどく不吉な予感がしました。いえ、こんなの後付けです。その時は何にも感じず、ただ少し不審に思いながら扉を引くと、今度はあっけなく扉は開き、そして、
「え?」
思わず、声が漏れました。
視界に入った物。一瞬の混乱。なんでしたっけ、これって。自問自答。いえ、最近見ました。もちろんそっくりそのままではないですけど、同じようなものを、同じような場所で確かに見ました。ええ、間違いありません。というかそれは、どう考えても。
どう考えてもヒトの死体でした。
美術部の部室は幅が五メートルくらい、奥行きが十メートル程度の小さな部屋でした。内部はわりかしきちんと整頓されて、壁際に並んだラックの中には過去作られたと思しき作品収容されています。床にはイーゼルがそこここに置かれています。部屋全体に油絵の具の鼻につく匂いが染みついています。こんな場所でお茶を飲む気には到底なれそうにありませんけれど、中央には小さなテーブルが備え付けられて、そしてその上には飲みかけのカップが置いてありました。
そのテーブルの横に、それは無造作に転がっていました。
明るい色に染められた髪は肩にかかる程度。着ているのは白いシャツと細いデニム。瞳は閉じられ、血の気を失った顔は冗談のように白く、もう命がそこにないことを瞳子に直感させました。
警察、通報、そんな単語が頭によぎり、しかし瞳子が具体的な行動をするより数段早く、甘い香りが口元を覆いました。そしてそれと同時に急激に思考が形を失って、混乱、疑問。答えは簡単。だって瞳子はさっきから死体しか見ていません。しかし、どうして、内側から鍵が開いたのでしょう。自然に鍵が開くなんてありえるでしょうか?
そんなわけないのです。
そこには死体と瞳子以外もう一人、間違いなく誰かがいました。
その人物は死体と一緒にいる時点で普通の人間ではなくて――
もう、限界でした。
この感覚、ついこの間もありましたね。
瞳子はすべてを投げ出した。




