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翌日やってきた光に、瞳子は開口一番問いました。
「何なのですか、それは?」
「別に大したものじゃないわ。気にしないで」
お面です。光の顔を一枚の木彫りのお面が覆っていました。祭に行く前からお面をかぶるって。大したものじゃないから気にするな。うん、無理です。というか十分大したものですよ。
「似合うでしょう?」
正直に言うと、微妙だと思います。それは木製のお面で、全体が白く塗られ、ひげや眉は赤や黄の原色で描かれていました。多分イメージは狐なんじゃないかと思います。あのおひげの書き方と鼻の感じ的に。なんというかおめでたい色合いのものですし、お祭りの雰囲気に合ってるかも知れません。けど、やっぱり人が生活の中でつけるものではないのです。軒先で世間話するときにつけるものではないのです。少なくとも瞳子の中でアレをつけてるヒトは人間と認識されないくらいには。
「別にいいじゃない。今日はお祭りなんでしょ。ハレの日なんだからこれくらい大目に見て欲しいものだわ」
「ただびっくりしただけです。嫌ではありません。それにそのほうが、瞳子もいいと思います。とてもいいアイデアです」それなら遠目にも一目で光を光だと分かりますし、ちょう便利でしょう。「いっそ毎日つけたら良いんじゃないですか」
「毎日は嫌よ」
ですよねー。
「そう言えば歪はどうしたのですか?」
それまで光のお面にばかり気が行っていましたが、いつも光と一緒にいる出来た妹の姿が辺りにありませんでした。聞くと、歪は今日のお祭りには一緒に行かないそうです。
「何よ、不満そうな顔ね。そんなに歪の顔を見たかったの?」
「別にそういうわけじゃありません。ただ意外に思っただけです」
「私だって意外だったわよ。なんだか歪の奴、今日はやることがあるって言うから」
やること、一体なんでしょう。
「私が知るわけないでしょ。それより何、歪がいなかったら行きたくないの?」
今日の光は妙に突っかかります。さっきも言ったようにイヤというわけではないのです。本当に、ただ意外だっただけで。思い返せば、歪と二人で会ったことは何度もありますけど、光と二人きりというのはほとんど無かったような気がします。
「言われてみればそうね。なんでかしら」
首をかしげました。
まあそんなことどうでもいいわ。行きましょう。と二人で歩きだして、
「それ、似合ってるわよ」
歩きだして、光は突然付け加えるように言いました。はて何のことでしょう。
「濃紺と灰色、まるで夜の空みたい」
そこまで聞いて、光が浴衣のことを言っているのだと気がつきました。深い青の地に灰色の幾何学模様を入れたそれは、確かに夜の空の様だと今日の朝、瞳子も思ったことです。「さながら瞳子の髪は月ね」と光は茶化すように言います。なんとまあ恥ずかしい言葉がポンポンと浮かぶ人です。
「照れた?」
瞳子はその何も答えずに一人足を進めました。答えるのもなんだか癪だったのです。
「もー瞳子、無視することないじゃない」光の足音は、呆れたような声と一緒に後ろをついてきました。
あぜ道を歩いて行くと、時折ポンポンと上がる空砲が祭りの空気を感じさせました。夏と言える時期もあといくら。蝉の声もただただやかましく元気なアブラゼミから、どこか物悲しいツクツクホウシの声へとシフトして、いよいよ終わりに向かって加速していく季節を感じさせました。ツクツクボウシの声は好きです。それから後は、鈴虫やこおろぎの声とか、黄金に染まる稲穂とか。というか夏が嫌いなのです。周りに命が溢れすぎて、どうも気が引けてしまうから。瞳子なんかがこの中にいてもいいのかと、そんな疑問に胸がつぶされそうになるのです。そう言うと、光は「瞳子が何を悩んでいるのかいまいちわからないわ」と、ある意味当然な答えを返しました。それはそうでしょう。だって悩んでいる本人だっていまいちよくわかっていない疑問ですから。答えなんてきっとないのです。答えること自体が無意味な疑問なんて、いくらでもあるのです。
「じゃあ瞳子は冬が好きなの?」
「ええ好きですよ。冬は静かで、瞳子の一番好きな季節です。前も言いました、このこと」
「そうだっけ」
瞳子は絶対に冬に死ぬと決めています。周りが真っ白な雪に覆われて、感じられるすべての場所に生き物がいない、そんな中で死にたいのです。どんなに苦しくても辛くても、そういう場所で死ぬためなら多少のことは我慢できると思うのです。これはひそかな瞳子の希望で、今まで誰にも言ったことがありません。だって言ったらどんな善人でもさすがに、どん引きだろうと思いますし。
「なによ? 何か言いたいことがあるの?」
「いいえ、何も。ただ夏は暑いなぁって」
微かな同意。「そうね、暑いわ」とそれだけ言って、沈黙しました。
光はなにを思っているのでしょう。
狐のお面は、なにも教えてくれませんでした。
****
おりしも日が沈む前、最後の頑張りを見せている時間で、空は刻一刻と色を深めて行き、茜色は少しずつ細く薄くなって、やがて辺りは濃紺の空に包まれました。仰げば新月の空にはまるでバケツをひっくり返したよう星々が輝き、脇を見やれば樹齢数百年の杉の巨木が幾本も立ちならぶ鎮守の森、その中を通る一本の道が参道で、そこへと続く砂利道にいくつもの屋台が立ち並び、暖色の明るい光を辺りに投げかけています。明るく光るそれは、陳腐な言葉ですけどまるで辺りから浮き上がるように見えました。そしてその光の中でお菓子を買い、話しこむ人の山。黒山の人だかり、と表現するのはいささか過剰かもしれません。けれどすごい、とただ単純にそう思いました。だって瞳子は、学校の教室よりもヒトが密集する場所にこの十年ほど出ていなかったのですから。
自然と足が重くなります。
けれど、瞳子のぐずぐずする思いを蹴り飛ばして、袖を引っ張り光は言いました。
「お祭りなんて久しぶりだわ。早く行きましょう」
引っ張られ、瞳子も仕方なくその光と熱気の渦に近づきました。
「光……」
「なによ」
「別に、ただ」瞳子は中途半端な力で光の浴衣の袖をつまみ返し、それに気付いたのかそうじゃないのか、光は一際強く握り返す。「光って、卑怯です」
「え、何の話よ」
別に、何の話でもありません。でも、瞳子ばかりが、いつも――いいえ、そんなこと考えにここに来たのではありません。なんでもないのです。
「そんなことよりお祭りを楽しみましょう。瞳子は取りあえず綿あめが食べたいです」
「そんな砂糖が膨れ上がっただけの塊に恋焦がれなくても」
実はないからこそ雄弁ということもあるでしょう。
からんと下駄が軽やかな音を立てて地面と会話します。聞きなれたその音が、楽しげに笑います。からん、からん、ころん。
「それじゃあまるでお化けの歌だわ」
光が茶化して、瞳子は光の浴衣の袖をきゅうと強くつまみました。
****
屋台の灯りの下で、真っ赤に輝くそれはまるでルビーのようでした。もちろん、こんな巨大なサイズのルビーがあったらよほどのことなのですけど、でも屋台の灯りの下で見るそれはまるで本物の宝石のようにさえ見えました。一個三百五十円の宝玉、林檎飴、べっ甲飴と林檎を合体させるという単純な発想がそれを生んだのは間違いなく奇跡でしょう。最近では苺飴なんてものもあって一緒に並んでいたりもしましたけど、瞳子は断然、林檎飴派です。だって見た目がゴージャスだから。それでは理由になりませんか。と言っても林檎飴食べるのはやっぱり随分久方ぶりなのですけど。多分十年ぶりくらい?
二つ頼むと屋台のおじさんが威勢よく渡してくれます。
「あいよ林檎飴中と大一丁ずつ。お待ち! お代はっとなんだ小山内のお嬢様じゃあないですか。お嬢様からお代なんてもらえませんよ!」
「何言っているのですか。貰ってもらわないとこっちが困ります」
「あーだけどこっちにも仁義ってもんが」
「何なら倍置いて行きますよ?」
とそこまで言ってからようやく受け取ってもらえました。確かに神社の運営やこの祭にも小山内の家はお金を出しているのですけど、そこまでされるのは心外です。
「それにしてもお嬢様が来られるなんて珍しいですねえ。俺は毎年ここで屋台やってるけど初めてここで見ましたよ」
「たんに見逃していたのではないですか?」
もちろん来ていない瞳子を見つけられるわけありません。つまり嘘です。
瞳子の嘘に、「うぅんそうかな。そいつは大変失礼をしやした」と屋台のおじさんは心底恐縮しているようです。
「それにしても、今日はお友達と一緒なのですか? あの狐面のお嬢さんは誰で? えらい別嬪さんだね」
「お面の上からでもわかりますか?」
「おじさんはコレでも若いころはべガスで鳴らしたもんよ。その俺の勘が言うんだから間違いねえな。アレより可愛いのはきっと光様くれえのもんよ」
「ただの友達ですよ。やらしい目で見ないでください。林檎飴ありがとうございます」
それだけ言ってからお金を置いて瞳子と光は逃げるように屋台の前を去りました。
別に逃げるつもりじゃなかったのですけど、なんとなく。屋台の人も周りの人も、狐面をしているのが光だと気が付かないようだったので、お忍びで来ているお姫様とその付き人の様な気分になってしまっていたのです。案外お面くらいで気が付かないものです。人は見た目が八割って、本当なのかもです。
綿飴や林檎飴、焼きそばなんかを買いこんで、光は瞳子を神社の方へと誘いました。
「お面つけたままだと食べられないのよ」
そんなの言うまでもなくわかっていたと思うのですけど。
「だったらちょっとお面ずらして食べればいいじゃないですか」
「イヤよ。こんな人の多い場所で顔さらすなんて」
縁日から外れて神社の前の石段に座ります。そこまでくれば随分と人は少なくなっていました。確かにこっちの方が落ち着いて食べられるかもしれません。
「じゃあ頂きます」「いただきます」
十年ぶりに食べる綿飴は、びっくりするほど甘かったです、でも同時に信じられないことにおいしかった。綿飴なんて畢竟ただの砂糖の塊で、味だってたいしたものであるはずありません。
それなのになぜ。
「バカねえ。それがお祭りなんじゃない」光は呆れたように言いました。
この空気の下でなら、それはどんなに贅を尽くしたお菓子よりもおいしくなる。空気は砂糖が溶け込んだかのように甘く香り、人の熱気で陽炎が立つのを錯覚するここならば。
十年前の瞳子はそんなことを知っていたのだろうか。
今の瞳子にはわかりません。ただ、それが分からなくても、綿飴はおいしかった。
「でも、瞳子が祭に来てくれるなんて少し意外だったわ」
焼きそばを食べていた光はその手を止めてしみじみと、呟くように言いました。それも当然でしょう。だって瞳子自身がそのことを意外に思っているのですから。
「そう。それは重傷ね」
「ええ、本当に」
本当に、重傷なのですよ。
光と会ってから瞳子はおかしくなりっぱなしです。変化しっぱなしです。その変化の方向が果たして瞳子にとっていいものであったのかどうかはわかりませんが。だけど今の瞳子は結構幸せだと感じています。だから瞳子はこれでも光に感謝しているのですよ?
口にはしません。調子に乗りそうでイヤです。ただほんの少しだけ体を光の方に寄せるくらいは、まあいいでしょう。これくらいならきっと伝わっていないでしょう。
縁日から聞こえてくる人のざわめきは、色々な波が混ざりすぎてまるで定常波のように感じられます。綿飴の最後の欠片を瞳子が口に放り込んで。それを待っていたかのように光が言いました。
「せっかくだし神社にお参りしましょう」
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山の中腹――と言っても高々石段数十段くらいのものなのですけど――に拝殿はありました。お祭りをやっているので辺りには浩々と火が焚かれ、参拝客もそこそこにいるようでしたが、ちょうどタイミングが良かったのか、二人で来た時にはあたりに誰も感じませんでした。
朱塗りの小さなお堂の前に立ってお賽銭を投げ込みます。定番ですし四十五円ほど。それから鐘を鳴らして二礼二拍一拝。
瞳子はこういう場所で祈ることを決めています。それ以外は神様の手を借りずになんとかしますから、それだけはお願いしますと、そういう願いを込めることにしています。
「何を祈ったの?」
祈り終えた光がさっそく聞いてきます。
「お面をかぶったままお参りするような不信心者には言いません」
「何よ。お面外せばいいの」とそう言って光はあっさりとその顔を覆っていたお面を外しました。光がお面をかぶっていたのは、つまるところ自分が檻場光であることを隠すため。だって光はあらゆる人のモテたから。多くの人がいる場所で起こるパニックほど恐ろしいものではないから。
「光……様?」小さな声は、祭の喧騒越しに、でもはっきりと聞えました。
光はその声のした方をゆっくり向いて。一人の推定女性が、運悪く神社の参拝にやってきていました。彼女が踏みしめた玉砂利が微かに抗議の声を上げます。それは彼女が何か大きなアクションを起こす前兆の様だと感じました。瞳子は何も反応できませんでした――そこから先はまるで流れるようでした。
「動かないで、喋らないで」光は明瞭な発音でそう言いました。そしてその言葉が聞えたのか、その女性はまるで時間でも止まったみたいに微動だにしなくなります。
「ごめんなさい。今騒ぎになって欲しくないから、私がここにいたっていうのは黙っていてくれないかしら? 神社にお参りするならすればいいし、その後お祭りを楽しんでもいいけど、取りあえず私のことで騒がないで欲しい。私の言葉に従うなら、首を二回縦に振りなさい……いいわ。ありがとう。もう動いていいわよ。喋ってもいいわ」
そしてその女性はふらふらとその場にへたり込んでしまいました。慌てて瞳子はその女性に駆け寄ります。
「あの、大丈夫ですか?」
「え、ええ。ありがとう。まさかこんな所で光様に会えると思わなかったから、ちょっと幸福過ぎて力が抜けちゃっただけなの。ごめんなさい。大丈夫よ」
それだけ早口に言って女性は立ちあがり、生き生きとした足取りで去って行きました。唖然として見送ります。というか神社へお参りするのはいいのでしょうか? じゃなくて、光は――いつの間にか、夏の夜が服の隙間から侵入しているのを感じて、瞳子は浴衣の袖を引きました。
「どうしたの、瞳子?」
「いいえ、なんでもないのです」
ちょっと寒くなっただけ。そう伝えると光はじゃあ私が温めてあげようか、などと半ば本気で言っているよう。ごめんなさい、瞳子はそういうの苦手なのです。
瞳子と光は神社から降りて、また縁日の人混みの中に入っていきました。少しだけ詰まった距離は、また最初と同じくらい離れたように、そんな風に感じられました。
****
縁日にはまだ数えきれないほどの人がいましたが、それも徐々に人が減ってきているような。
「ああ、そりゃ花火が上がるからだよ。ここからじゃああんまり見えないから、見やすい場所に移動してるんだよ」と教えてくれたのはヨーヨー釣りのお兄さんでした。
「ちなみにこのあたりだとどの辺からが良く見えますか?」
その人は少し考えて、「たしか川の土手のほうからだとよく見えるって話だよ」
ちょうど帰り道の途中のようなので、帰り際に見ようということに相成りました。神社の近くの土手は人が多くて落ち着かなそうなので、すこし家よりの場所に二人で陣取り座ります。
「蚊が多そうね。虫よけスプレーってどのくらい効くのかしら」
「光は蚊にも人気なのですか?」
「そんなの知らない、自分以外の人がどれくらいの頻度で蚊に刺されるか知らないもの」
中身のない会話でした。
夜の川は黒々と光り、流れる音はまるで静寂。きっと夜の川は深いのだと、そんな妄想が頭に浮かんだ。深い河は、静かに流れる。
「ねえ瞳子」話していた光はふと、口をつぐみ、それから呟くように問いました。
「瞳子は、誰かのこと好きになったことある?」
間を求めて隣に目をやれば、狐面の無表情な相貌が瞳子を無感動に貫いて、
「瞳子は、誰かのことを嫌いになったことありません」
「それは何も言ってないのと同じじゃない」
実際何も言っていないのです。何も言いたくないのです。恋とか、愛とか、そういう佳いものについて語る言葉を瞳子は全く持っていません。それこそ宇宙空間の中を漂う塵芥よりも少ないでしょう。誰かを好きになるとか、恋するとか、ましてや誰かに好かれたり、愛されたり。そんなの、もってのほか。絶対にあり得ないことです。許されざる行為です、受け入れられない好意です。ですから、お願いですから、そんな意地悪な質問しないで欲しいと。そう思います。
「……なによ、誰かに好かれるのがそんなにイヤなの?」
「イヤと言うより、無理です」
「無理?」
「誰かに愛されるとか、そんなの瞳子には無理ですよ。瞳子には」
瞳子にはそんなしかくはありません。
「なんでそんなこと言うのよ」
光の声が少しずつ冷えていくのを感じる。
「そんなの資格なんているわけないじゃない」
でも瞳子にはそれを止めることはできませんでした。
油を注いで冷えるのですからどうしようもありません。
「ありますよ。誰かに愛されるというのは、誰かを愛することができる人だけの特権なのです。だから、誰も愛せない人は誰にも愛される資格はない。違いますか?」
「瞳子は誰も愛せないというの?」
「だってどうやったら人を愛せるのか、瞳子にはわかりません」
それは瞳子にしては素直な言葉でした。
「そんなの、そんなことあるわけないじゃない。そもそもそういう気持ちって、その、なに? か、勝手に生まれものだし、資格とか、そういうの考えるものじゃないでしょ!」
光は叫ぶように言いました。怒鳴るように言いました。なんで瞳子が怒鳴られないといけないのでしょうか。理不尽です。疑問は答えを探して、そこである考えが雷光のように閃いて、
「……もしかして光は、瞳子のことが好きなのですか?」
息をのむ小さな音が、イヤに印象的でした。
その時、暗い夜空が色づいた。遅れて爆発音が体をゆすり、それに押されるように瞳子はその場に倒れ込みました。
夜空に咲いた大輪の花が辺りを照らします。次々と上がる花火、にぎやかな光と音の芸術。七色に輝く人工の太陽。全てをその一瞬にかけても、なお日の光に爪の先すら届きすらしない人の灯り。バリエーション豊かな色とりどりの光が見えるはずでした。
けれど瞳子に見えたのはそれではなくて、古より青く白くまたたく星の光で。
わけがわかりませんでした。背中には草と土のざわめきを感じます。体の上には何か柔らかく暖かなものがのしかかり、押し倒されたのだと、瞳子はそれで理解しました。そしてひどく、常識はずれに柔らかく湿った何かが瞳子の唇に触れて。
呼気に瞳子以外が混じりました。
なにが起きたか分かりませんでした。でもほとんど反射的に、夢中でそれを押しのけて、瞳子はそれから逃れました。
「ばっかじゃないの」
光の雨の向こうから、光の声がそう言いました。
「瞳子の馬鹿!」
おでこに軽い衝撃。ころころと音を立てて地面に転がったそれを見て、瞳子は光が本当に怒ったのだと知るのです。瞳子は彼女が走り去る足音を聞き、身動き一つせずに黙ってそれを見送りました。
「だから瞳子に、人に好かれる権利なんてないのですよ?」
瞳子の唇が、まるでそれ自身が意思を持つかのように、感情を殺した言葉を吐くのを、ただ瞳子は聞いていました。
まだまだ花火は尽きるところを知らず、でももうそんなものを見る気にもなれず、ただ体育座りした足の間に顔を押し込めて、じっと座っていました。轟音が聞こえなくなり、辺りから人の気配がなくなるまでずっと、そうして待っていました。
けど、待つって、何を?
バカみたいな話です。瞳子を迎えに来てくれる人なんて誰もいないのに。
「くちゅん」とくしゃみが一つ飛び出しました。いつの間にかすっかり体は冷え切っていました。何かを吐き捨てるように呟いて、瞳子はゆっくりと帰路につきました。
十字路に差し掛かって、瞳子はためらうことなく荒れた道を選びます。そこには家があるのです。もう誰もいない、顔も曖昧になってしまった家族が住んでいた小山内の屋敷が。
一瞬胸が苦しくなります。なにか、なんでもいいから。叫びたいと思いました。ただ夜の月に向かって吠えられたらそれだけでもいいから。空を見上げて、そして今日が新月であることを思い出した、それだけでした。灯りが見えてくる。誰もいない屋敷の灯りが見えてくる。




