8/31 part1
どうか誰にも、わたしの嘘がばれませんように――
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窓の外を一枚の木の葉がゆっくりと落ちていく。小山内瞳子は黙ってそれを見送った。落下する木の葉、殺菌された清潔な空気、部屋の前を通り過ぎる足音。そんな些細な事が気になってしまうくらい、部屋の内部は死に絶えていた。
そこは村にただ一つの総合病院の病室だった。目の前には白いベッド、中には一人の少女が死んだように眠っている。不謹慎な表現だろうか。入院患者をそんな風に言うのは。だが彼女はこの二週間ほどの間一度も目を覚ましていないらしい。その意味では、彼女はもう死んでいるも同然かもしれない。そう思った。だから瞳子は今日まで一度も彼女を見舞いに来なかったのだ。
眠る少女の名前をオリバヒズミと言った。閉じ込める檻に、場所の場、そして応力歪の歪、檻場歪。そのおよそ人間と思い難い名前の少女と、瞳子は知り合いだった。
檻場歪は病室で眠っているが、彼女は何らかの病に冒されてここで眠っているわけではない。彼女の意識を夏のさなかに奪ったのは、極めて人工的な化学物質であり、つまり彼女の意識の喪失は事故か、さもなければ事件に他ならなかった。事件、そう事件だ。瞳子はそれを確信している。歪の意識はある人物の意思によって奪われた。それを事件と言わずなんと言おう。
事件はまだ解決されてない。密室は解かれず、犯人は特定されず、動機もわからず、ただ何かがあったという、それだけが分かっている。きっと今でも多くの捜査員が汗を流して解決のために働いている。一般論としてはその行動は正しい。
謎は解決せねばならない。
犯人は罰せられなくてはならない。
動機は分かりやすくあらねばならない。
けれど、瞳子にとっては今のままでよかった。
密室は封印されたままでよかった。
犯人は不明のままでよかった。
動機もわからないままでよかった。
むしろそのほうが都合が、良かった。
一年もしたら誰もが忘れて、何かの拍子の思い出しても、ああそう言えばそんなことあったねと、酒の肴に消費される思い出話になってくれればそれが一番ありがたかった。誰もが話したがらない昔話になってくれればよかった。理想的とさえ言えた。
一人笑う。だって、そんなの妄想だ。絶対にそんなことはありえない。
瞳子の右手に握られていたもの。それが蛍光灯の安っぽい光を弾いて白くきらめく。それは世間で最もありふれた凶器、万能と銘打った有能な利器。これを的確に振りおろせばヒトを××くらい、それこそ赤子の手をひねるように簡単だろう。ましてや目の前の少女は病人である。体力の無いと常々言われる瞳子にだってそれくらいは、いくらなんでも。
ステンレスの刃がざらざらとした光を弾き返す。
心臓がどきりと大きな血の塊を吐き出した。
目を閉じる。腕が自然に踊りだす。ともすれば力の入らなくなる指に必死に力を込める。
なぜ、暗闇に問う。
どうして瞳子がこんなことをしているのだろう。己自身に問うたところで、結局返ってくるのは雄弁な沈黙のみ。
だって、それがあなたの望みでしょ?
ゆっくりと目を開けた。目の前にはただ空洞の様な白が広がっていた。真っ白な空洞が口を開いて瞳子を待っていた。
一枚の葉が、力尽きたように枝から離れる。重力に引かれてゆっくりと落ちいく。
瞳子の右手もつられるように、落ちて――
夏が、終わろうとしていた。