第51話 傷だらけのコーダ
深夜零時を回った巨大ドーム。
本来であれば、数万人の熱狂を吸い込んだその箱は、とうの昔に眠りについているはずの時間だった。しかし、事態は最悪の様相を呈していた。
発端は数時間前。ゴルド社長が不正と誘拐教唆の容疑で治安維持部隊に連行されたことだった。
トップを突如失った運営陣は完全にパニックに陥り、指揮系統は崩壊。誰も「ライブの中止」という重大な決断を下せないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
いつまでも終わらない不自然なインターバルに、客席のファンたちも次第に訝しみ、ざわめきは不満の声へと変わっていく。
そして、限界を迎えたスタッフから急遽告げられた『公演中止』のアナウンス。
納得できるはずもないファンたちは暴動寸前となり、怒号が飛び交う中、スタッフたちは必死に頭を下げて観客を誘導しようと試みた。
さらに不運なことに、どこからともなく「社長逮捕」と「ノア誘拐」の噂がSNS等で漏れ伝わり、事態はさらに泥沼化。
大半の客は避難したものの、最悪の事態を危惧した一部の熱狂的なファンたちは「奇跡」を祈るようにアリーナの片隅に居座り続けていた。
そんな、半狂乱のスタッフと重苦しい空気が支配するバックステージ。
その重厚な扉が開き、三つの影が姿を現した。
「……嘘だろ」
「ノア、ちゃん……!?」
駆け寄ろうとしたスタッフたちが、息を呑んで立ち尽くす。
現れたトップアイドルは、いつもの完璧な姿ではなかった。華やかなドレスは港の泥や油で汚れ、頬には痛々しい擦り傷。
縛られていた手首からは、じわりと赤い血が滲んでいる。
命に別状はないとはいえ、大事をとって今すぐ救急搬送すべき状態だった。
だが、アイリスの肩を借りて歩くノアの瞳だけは、かつてないほどに強く、気高く燃え盛っていた。
「……マイクを」
静まり返った通路に、ノアの掠れた、けれど芯のある声が響く。
「ば、馬鹿なこと言わないで! とにかく救急車を――」
「マイクと、ステージの照明を……一番強いスポットライトを一つ、点けて」
慌てふためくスタッフたちを、ノアは鋭い一瞥で制した。
「……私を待ってるファンが、まだいるんでしょ」
それは、企業に作られた「完璧な偶像」の顔ではなかった。
這い上がり、傷つき、自分の弱さを知り、それでもなお自らの足で立つことを選んだ、ひとりのアーティストの矜持。
圧倒的なその覇気に気圧され、チーフディレクターが震える手でインカムを握り、照明室へ指示を飛ばした。
数分後。
暗闇に沈んでいたドームのステージ中央に、一筋の強烈な純白の光が突き刺さる。
ざわついていた客席のファンたちが、何事かと息を呑んだ。
コツ、コツ、と。
静寂に包まれたドーム内に、足音が響く。
スポットライトの中心に歩み出たのは、泥だらけのドレスを纏い、顔に傷を作った少女だった。
ファンが知っている「完璧なノア」とは似ても似つかない。
だが、彼女がゆっくりとマイクを口元へ運んだ瞬間、その場にいた全員が理解した。
彼女こそが、自分たちの愛した唯一無二の『本物』なのだと。
『――……』
伴奏はない。
ドームの静寂を切り裂くように、ノアのアカペラが響き渡った。
疲労からか、いつものような透き通る高音は出ない。
所々で声が掠れ、息も上がる。
だが、その不格好で、等身大の魂の叫びは、どんなに完璧にプログラミングされたパフォーマンスよりもダイレクトに人々の心臓を鷲掴みにした。
「ノア……! ノアァァァッ!!」
「うわああああんっ!」
客席から、堰を切ったように嗚咽と大歓声が爆発する。
ノアはそれに不敵に微笑み返し、手首から血を滲ませながらも、ステージの端から端まで歩き全力で歌い続けた。
歌い上げるのは、彼女のデビュー曲であり、純粋に歌うことの喜びだけを伝えるもの。
だが、かつてのような寸分の狂いもない、完璧な歌声ではない。
息継ぎは荒く、ステップを踏む足取りも重い。
それでも、泥水に塗れ、絶望の淵を覗き込み、自身の存在意義すら見失いかけた彼女が、再び自分の足で立ち上がって紡ぐその旋律には、これまで以上の強烈な「熱」が宿っていた。
完璧なアイドルという殻を破り捨て、一人の生身の人間として傷だらけのまま輝くその姿は、痛々しくも、目が眩むほどに美しい。
それは、この夜の闇と混乱を完全に払拭するほどの、奇跡のグランドフィナーレだった。
そして、その眩しすぎる光の海を、ステージの舞台袖の暗がりから静かに見つめる二つの影があった。
「…………」
アイリスは、スポットライトの中で命を燃やす姉の姿から、片時も目を離さずにいた。
泥だらけの服を着て、傷だらけの顔で歌う彼女の姿は、以前の「完璧なノア」よりもずっと、ずっと輝いて見えた。
「……やっぱり、きれいだなぁ」
アイリスの口から、無意識のうちに感嘆の吐息がこぼれる。
その横顔を、壁に寄りかかりながら見ていたビャッコが、ふと口を開いた。
「アイリスも、アイドルになりたい?」
それは、アイリスがこれまで抱えてきた「ノアへの劣等感」を理解しているからこその、少しだけ意地悪な、けれどどこか優しい響きを持った問いかけだった。
少し前までのアイリスなら、卑屈に笑って言葉を濁したかもしれない。
だが、アイリスは数万人の熱狂を浴びて輝く姉の姿をもう一度だけ深く目に焼き付けると、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ」
彼女の声に、迷いは一切なかった。
眩しい光の当たるステージから視線を外し、隣で壁に寄りかかっている、小柄で不器用な銀髪の少女を見上げる。
「私の居場所は、もう決まってますから」
それは、孤児院の泥水の中から這い上がり、「偽物」としてしか生きられなかった少女が、初めて自分自身の意志で選んだ「居場所」の宣言だった。
アイリスは静かに、けれど誰よりも誇らしげに、ビャッコの隣に並び立つ。
そして、戸惑う暇も与えず、小柄な小隊長の細い腕を、自分の両腕でぎゅっと大切に抱き込んだ。
「……っ!? な、何っ!?」
「小隊長はボロボロなんですから、私が支えてあげないとダメですよね」
突然の密着に、ビャッコの無表情の下で警報が鳴り響く。
内心では激しく焦り、なんとか腕を引き抜こうと小さくジタバタと抵抗を試みた。
だが、アイリスはニコニコと微笑んだまま、絶対にその腕を離そうとはしない。
「支えてあげる」という、あまりにも正論すぎる大義名分を突きつけられ、ビャッコは数秒の攻防の末に……ふいっとそっぽを向いて、抵抗するのをパタリとやめた。
完全に諦めてされるがままになった小隊長の不器用な体温から、微かな「嬉しさ」と「安堵」の気配が滲み出ているのを、アイリスだけは確かに感じ取っていた。
アイリスは独占欲を満たすようにさらに腕に力を込め、大人しくなったビャッコの肩にすり寄るようにして、ステージの眩しい光を見つめ続ける。
光の当たる場所で、すべてを投げ打って歌い続けるトップアイドル。
裏社会の暗がりで、その背中を守り抜くことを選んだ治安維持部隊の小隊長と、彼女を離そうとしないひとりの少女。
交わるはずのなかった二つの旋律は、こうして深夜のドームで、最も美しい音を奏でて重なり合ったのだった。




