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君に紡ぐ言葉  作者:
9/16

引退

暑い、暑い日だった。地元の小学生を招いての公開練習。子供にバレーを教えながら、丈瑠は雪と自分達の子供にもバレーをやらせようと笑い合っていた。それは練習終了後、体育館の前で挨拶をして帰る小学生を見送っていた時だった。道路まで出た小学生の列に、前方から走って来た乗用車がフラフラと蛇行しているのが丈瑠の目に止まる。

「あれ、危なくねぇか?」

丈瑠はそう言うなり、小学生の列に走り出す。子供達は前方の車に気付かずに、お互いの話に夢中になっていた。

「おい!危ねぇぞ!道に寄れ!」

丈瑠が叫ぶ声に、車に気付いた子供達が道の隅に寄ったが、車は列を目掛ける様に近付いて来た。

「丈瑠さん!」

車との距離に雪が叫ぶ。

(轢かれる!)

一瞬の出来事だった。列の一番前方の子供を守る様に手を出した丈瑠ごと、車は列に突っ込みその躰を高くはね上げた。小学生3人と丈瑠が巻き込まれた事故は、大きなニュースになり世間を騒がせる。小学生は1人が死亡し、2人は重症を負ったものの、命に別状はなかった。丈瑠は肋骨を骨折、そしてスポーツ選手としては致命傷となる傷をその腕に負った。


事故から3ヶ月、病室の中で1人ボールの感触を確かめる。恐る恐る、丈瑠は頭上にボールを放った。毎日何百回と上げたトス。その感覚だけは覚えているのに、手の中のボールをコントロールする感覚はもう今までとは違っていた。

(あぁ、もう以前の様なトスは上げらんねぇな)

丈瑠は悟る。不思議と涙は出て来なかった事に、丈瑠は自分でも驚いた。更に3ヶ月が経って退院すると、チームが遠征で居ない事を知っていた丈瑠は秋を会社の体育館へ呼び出した。

「秋、ちょっと見ててくれないか?」

秋が不思議そうな顔で、それでも頷くのを見ると、丈瑠はセッターポジションからライト方向へトスを上げる。秋は目を見開いたまま動かなかった。

「やっぱ、駄目か・・」

秋は自分の表情で、丈瑠がこれまでと違う自分を確信したのだと気付いて、青い顔をして首を振った。

「秋、違う。分かってたんだ。どんなにリハビリしてももう以前の感覚が戻って来ない事は。ごめんな、辛い事させた」

丈瑠の力ない笑い顔に、秋は丈瑠の元へ走り寄ると、丈瑠に抱きついた。

「大丈夫だよ・・まだバレーが出来なくなった訳じゃねぇって・・。ただ、雪とはもう一緒には出来ねぇな」

胸元までしかない秋の頭を撫でると、秋が丈瑠の腰に回した腕に力を込める。

「バカ力出すなって・・痛ぇだろ・・」

秋は何も言わず、ずっとそうしていた。下手な慰めの言葉も、優しい言葉もない事が丈瑠を救う。ただ、そこにある秋の温もりだけが丈瑠の痛みを包んでくれる様な気がした。

その1週間後、丈瑠の現役引退のニュースが流れると、丈瑠の元へ色んな人が訪れて来た。中でも真っ先に飛んで来たのは協会の会長をしている後藤だ。丈瑠を溺愛している後藤は涙をポロポロと流しながら丈瑠に抱きつく。

「おい!ジジィ!放せ!」

「だって、だって、丈瑠ちゃん~~」

「気持ち悪ぃんだよ!50超えたオカマが泣いてんじゃねぇ!」

口ではそう言っていたが、丈瑠は皆が自分を気に掛けてくれる気持ちは嬉しかった。その反面、消化しきれない悔しさも込み上げる。訪問客は夜23時まで続いて、丈瑠も流石に疲れてきたが、それでも最後の客を待つ。玄関のチャイムが鳴ると、丈瑠は待っていた最後の客に

「遅せぇよ」

と、笑った。雪は泣きはらした顔で丈瑠を見ると、薄茶色の瞳をまた濡らす。時間も遅かったので、丈瑠は雪を社宅の屋上へ誘った。

「雪、悪いな」

「・・何で・・謝るんですか・・」

「お前を1人にするかもしれない」

丈瑠がずっと感じて来た欠乏感を、今度は雪に味あわせてしまうんじゃないかと、丈瑠はそう思っていた。

「・・俺は多分どんなセッターが出て来ても、丈瑠さんと同じ様に感じる事は出来ない。言葉もなく、視線1つで繋がる感覚を持てるのは丈瑠さんだけだから・・でも、俺は1人にはなりません。・・コートに入れば・・きっと丈瑠さんが俺と同じ気持ちで戦ってくれるから・・」

雪はそう言ってまた泣いた。雪の言葉が丈瑠の胸を熱くする。自分が抱く無念さを、そして1つのボールに人生を掛けて来た道のりを、雪がその胸に抱いてコートに立つ。雪は言葉通り丈瑠を誰よりも側に感じながらプレーするだろう。自分はもう雪と共に走る事は出来ないが、雪がそのバトンを引き継いでくれるなら、今までの人生に悔いはないと思えた。

「お前と一緒にやれて良かった・・」

丈瑠が雪の頭を撫でると、雪は堪えきれず嗚咽を漏らし、丈瑠の目に初めて涙が溢れた。


丈瑠はその後、協会へ転職した。これは会長である後藤の熱烈なアプローチが功を奏した結果だ。本社の企画部への配属だったが、長年の選手経験を求められ、企画以外にも分析・会場の手配・海外交渉と、丈瑠の仕事は多岐に渡った。丈瑠の物怖じしない性格はコートの外でもいかんなく発揮され、転職間もないというのに、年上の上司までもが丈瑠の意見を求める程だった。


仕事は丈瑠の想像よりも上手くいっていたが、真知子とはこの頃から段々と溝が出来ていた。自由で居たい真知子にとって、純一郎は真知子の中で不必要な存在へと変わってしまったからだ。まだ幼い純一郎を置いて家を空ける事も出来ない事は真知子にとっては拷問に近かった。

「この子がいるから、私は何にも出来ない!」

久し振りに家族で過ごす時間が取れた丈瑠に、真知子は自分の気持ちをぶつけた。

「純一郎を足枷みたいに言うなよ!」

丈瑠にとって純一郎はかけがえのない宝物だ。その純一郎を愛せない真知子の心情は、丈瑠には理解出来なかったし、理解したいとも思わなかった。

「・・・秋ちゃんなら良かったのにね」

真知子が嫌味たっぷりに皮肉る。

「は?」

「私が気付いてないと思ったの?丈瑠があの子を見る目・・もう兄が妹を見る目じゃないわよ」

真知子の言葉は丈瑠の心を揺さぶった。

「雪の嫁さんだぞ?」

「だから指咥えて見てるだけなんでしょ?大事な雪君の奥さんだから・・私がどんな気持ちで3人を見てきたか、丈瑠には分からないでしょ?いつも3人の間にバレー・バレー・バレー!私はバレーなんてちっとも好きじゃない!3人の世界には絶対に入って行けない!秋ちゃんはいいわ、貴方達と同じ気持ちでバレーを愛してるもの・・私は違う、私は写真が撮りたいの!でもこの子が居たら、私は外にも出られない!もう限界なのよ!」

真知子は一気に言うと、泣き崩れた。丈瑠はそんな真知子を説得してでも引き止めておく気持ちを持てず、

「分かった。別れようぜ?お前は自分の人生を生きればいい。純一郎は俺が育てる」

と、決断を下した。

真知子と丈瑠の離婚は騒ぎにこそならなかったが、2人をよく知っていた元のチームメイトや協会の人間からは驚かれた。雪と秋には丈瑠が前もって話していたので驚きはしなかったが、秋は真知子が居なくなってからの純一郎の世話を買って出てくれていた。純一郎を男が1人で育てるのは大変だったし、自宅と丈瑠の家を行ったり来たりする秋にも支障が出始めた頃、後藤はこれまた丈瑠愛を発揮する。

「託児所、会社の中に作るわ」

と言って、それを本当に実行した。それだけでも有難いのに、後藤の愛は更に上を行く。ベビーシッターに、家政婦を自分で雇い、丈瑠の生活全般をサポートしたのだ。これには流石の丈瑠も後藤に頭が上がらなかった。

「いいのよ~。でも丈瑠ちゃんがそこまで言うなら・・ご褒美にキスして欲しいな」

いつもの丈瑠なら悪態をついて終わるのだが、心底困っていた丈瑠はこの時、生まれて初めて男に、しかも50を過ぎたオカマにキスをした。この事実は黒歴史として丈瑠の中に刻まれた。


丈瑠は後藤のお陰で仕事に専念する事が出来たし、会社の中でも託児所が出来た事で女性社員の働き方が大きく変わった。託児所を利用する職員から

「月島君のお陰だわ、ありがとう」

と言われると、丈瑠は

「言うな!」

と赤面して返す。丈瑠は黒歴史を思い出し居た堪れなくなるのだが、職員はそんな丈瑠の態度を照れ隠しだと思っていた。託児所に藤と純一郎を連れて来ていた秋は、事実を知っているだけに笑いを堪えるのが大変だった。

「キス1つで皆が助かるんだもん、良かったよね~」

秋がニヤリと笑って言ったので、丈瑠はそんな秋の頭を大きな手で掴む。

「何か言ったか、ちびっ子」

「痛い、痛い!何にも言ってません!」

丈瑠がフンと掴んでいた手を放すと、秋はまたニヤっと笑った。


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