疑惑
土曜日はとても楽しかった。だから藤達は、狭い町の中いつ知り合いに見られていたとしてもおかしくない事を忘れていた。
それが起きたのは、木曜日の練習前の事だ。いつもの様に藤と純一郎にお弁当を渡す秋に6年生の母親達が声を掛けた。
「乾さん、ちょっといい?」
一番初めにそう言ったのは、6年生チームのキャプテンをしている栄の母、高田だった。少年バレーは最上級生の保護者が役員をやるのが決まりで、高田はその役員の会長をしている。
「・・はい・・」
6年生の母親達が秋を囲む様にして体育館の外へ連れ出すと、そのただならぬ雰囲気に、純一郎が
「俺、夏目に言ってくる!」
と言って、壇上の前でネットを張っている美代の所へ走って行った。藤は秋が心配になって、他の母親達に気付かれない様に外へ忍出ると、ソっと駐車してある車の隙間から様子を伺った。
「先週の土曜日、乾さんが月島さんと手を繋いでいたのを見たって人がいるんだけど、本当なの?」
「はい」
秋が隠そうともせずにサラリと答えると、走って来た美代がその集団の中に割り込み秋の隣に立った。
「皆さんお揃いで。秋に何のお話?」
美代の登場に、バツの悪くなった母親の何人かが、
「別に・・・ねぇ?」
と、言いながら離れて行く。残ったのは役員をしている3人だ。
会長の高田、副会長の伊野、会計の斎藤。
高田は美代が来る事を想定していたのだろう
「丁度いいから一緒に聞いててもらいましょうよ」
と、挑戦的に言って美代をギロリと睨んだので藤は美代の心のゴングが鳴ったと思った。
「先週の土曜日にね、月島さんと乾さんが手を繋いで歩いてる所を見た人がいたんで、本当かどうか確認した所だったの」
「おぉ、月島やるじゃん!ちょっと、秋!後で詳しく教えてよ」
美代がニヤリと笑いながら秋を肘でつついていると、高田はムッとした顔で
「茶化さないで!」
と、声を荒らげた。
「え?それが何か問題?」
美代が心底分からないといった様子で高田を見ると、高田は呆れた口調で言葉を続けた。
「月島さんはここに居る皆の指導者でしょ?個人的にお付き合いするべきじゃないと思わないの?それでなくても、乾さんには皆いい感情を持ってないんだから」
「はぁ?」
美代の口調が喧嘩腰に変わる。
「純一郎にお弁当を作って来たりして、月島さんに取り入ろうって姿勢がねぇ・・こんな所で女を出されると、こっちが恥ずかしくなるっていうか・・」
高田の言葉に、他の3人も薄ら笑いを浮かべた。
「ちょっと、あんたねぇ!」
美代が怒ってその言葉に食ってかかったが、藤は秋が顔を赤くして俯いたので、母をバカにされたと感じてムッとした。
「それに、月島さんも・・・伊野さんの旦那さんが少し乾さんと話してただけで飛んで来たじゃない?その後、肩を抱いて外に行くのを皆見てるのよ?」
藤は一番肝心な所を飛ばして言う高田を嫌な人だと思い、悔しさでズボンをギュッと握る。
「丈瑠さんは何も悪くありません!あの時、具合が悪くなった私を心配してくれただけです!」
丈瑠を悪く言われた事にムッとした秋が口を開くと、伊野が面白くなさそうな顔を秋に向けた。
「うちの旦那と話して具合が悪くなったって言いたいの?」
「・・そういう訳じゃ・・」
怒りの余り藤が飛び出して行こうかと思った時、丈瑠が体育館から出て来るのが見え、藤は慌てて姿勢を低くした。
「何してんの?」
丈瑠の顔はあからさまに不機嫌だ。
「この人達、土曜日にあんたと秋が手を繋いでた事が気に入らないみたいよ。後、秋が純一郎にお弁当作ってくんのも気に入らないんだって」
美代が包み隠さずストレートに言う言葉に、高田達はギョッとした様に美代を見て、取り繕う様に丈瑠に駆け寄った。
「私達、別にそんなつもりで言ったんじゃないのよ?ねぇ?」
高田が他の2人に同意を求めると、伊野と斎藤も頷く。
「じゃあ、どんなつもり?手繋いでたら何?言えよ」
丈瑠が3人に向かって冷たく言い放つ。
「文句があんなら俺に言え」
「月島さんに文句がある訳じゃないけど・・」
伊野が口ごもると、斎藤がズイっと前に出た。
「純一郎のお弁当だって・・今まで私が何回作っても受け取って貰えなかったのに、どうしてその人ならいいんですか?」
藤は初めて聞く話に少し驚いて丈瑠を見た。
「そんな事いちいち説明しねぇとダメなの?」
丈瑠が冷たく言い放つ言葉は、藤にはとても意外だった。藤はこんな丈瑠を知らない。顔や雰囲気を怖いと思った事はあるが、実際の丈瑠はいつも優しい。
「俺さ、今この人口説いてる最中なんだよね。余計な事しないでくんないかな?」
そこに居た皆が一斉に丈瑠を見た。藤が秋を見ると、秋は皆と同じ様に驚いた顔で丈瑠を見ている。
「俺らの事気にする余裕あんならさ、自分の子供もっと見ててやんなよ。最後の大会の為に頑張ってんだからさぁ」
丈瑠の言葉に、高田達は気まずそうに体育館へ戻って行き、美代も2人に気を回してそっと体育館へ戻った。
「らしくねぇじゃん、言い返せよ」
「・・・ありがと・・・」
秋は俯いたまま短くお礼を言う。
「土曜日の約束、忘れんなよ。後、純一郎の弁当もこれまで通り作ってくれな?」
秋がいつまでも顔を上げないので、丈瑠が俯く秋の顎に手を掛け上を向かせた。
「ブハッ!真っ赤!」
丈瑠が吹き出して笑うと、そんな丈瑠を秋は憎らしげに睨む。
「お弁当作ってくれる人いたんじゃない」
秋が拗ねた様に零す言葉に、丈瑠は少し言いにくそうな顔を見せながらも、
「純一郎はさ、やっぱり母親って憧れてんだよ・・可哀想だからとか、同情とかで近付いて欲しくないんだよね。それに、気のない相手を下手にその気にさせて純一郎に変な期待持たせたくねぇからさ」
自分の気持ちをキチンと言葉にする。丈瑠は純一郎の事をちゃんと理解している。藤も父親に憧れはあるが、一時だけの優しさや同情は、後で侘しさが残る。それが堪らなく嫌だった。
「それにな、純一郎・・秋の事覚えてるぞ」
「本当!?」
丈瑠がニヤリと笑うと、秋の顔が輝いた。
「ちゃんと覚えてる訳じゃねぇけど、この前純一郎が言ったんだ。 ’秋ちゃんは俺が大事って顔するんだ’ ってさ」
「わ・・嬉しい・・すごく嬉しい」
2人の会話を、藤は不思議に思った。
(覚えてるって・・・何?)
「やっぱ、どんなに小さくても忘れないもんなんだなぁ・・自分を育ててくれた人ってのは」
丈瑠が感心した様に言う言葉に、藤の胸が大きく音を立てる。
(育てたって・・誰が?誰を?)
藤は混乱する頭を整理する様に丈瑠を見つめた。
(もし・・もし、純一郎を育てたのがお母さんだとして・・俺達、本当の兄弟って事?・・・丈瑠さんは・・もしかして俺の・・お父さん?)
考えれば考える程混乱する。なら絶対に名前を教えてはいけない ’藤崎 雪’ は誰?
疑問は膨らむ一方だったが、その一方で1つだけハッキリした事がある。
'お母さんと丈瑠さんは昔からの知り合いだった'
秋が丈瑠だけは怖がらないのも、触れられて平気なのも、知り合いだったからなのだと思うと、今までも2人のやり取りにも納得出来た。
藤はゆっくりとその場に立ち上がる。
「お母さん」
藤の声に、秋と丈瑠が驚いて振り返った。
「藤・・・聞いてたの?」
母の顔が青ざめていくのが分かったが、藤は確かめずにはいられなかった。
「俺のお父さんは誰?」
目を閉じると見える誰かの残像。父だと思ったあの姿は、丈瑠なのかもしれないと思うと、藤の小さな体は震える。そんな藤に丈瑠がゆっくりと近付いて来た。
「ちゃんと話してやるよ・・お前にも、純一郎にも・・」
丈瑠が藤の頭を撫でると、藤は丈瑠を見上げ微かな期待が藤の胸を締め付けた。