怯え
入団して半年を過ぎた頃には、藤達6人の友情はより強くなっていた。だがそれは秋達母親も同じで、いつもそれぞれの母親と、月島を交えた6人は楽しそうに話している。
義和の母、美代。
卓人の母、斗貴子。
泉の母、幸子。
康太の母、琴美。
藤の母、秋。
純一郎の父、丈瑠。
藤達は初めは揶揄う様にそれぞれの母を ’ちゃん’ 付けで呼んでいたが、今ではそれがすっかり定着し、月島の事も同じ様に ’月島さん’ から ’丈瑠さん’ と呼ぶ様になっていた。ただ、純一郎だけは美代を
「夏目」
と、違う苗字で呼ぶ。聞くと、丈瑠と美代は中学の頃からの同級生で、丈瑠がいつも美代の事を旧姓の ’夏目’ と呼ぶので、それ以外の呼び名は純一郎には考えられないらしい。美代も丈瑠の事を、
「月島」
と呼ぶので、義和もそう呼ぶのかと思っていたが、義和は丈瑠が怖いので皆に合わせて丈瑠さんと呼んでいた。
母親達の結束の強さも子供達に負けず、自分達で’ママさんズ’ を結成し、それぞれの家で飲み会を開いたり、お泊まり会をしたりと、まるで学生の様な仲の良さだった。元々近所で顔見知りだった事から、秋と美代、斗貴子は特に仲が良かった。姉御肌の美代に、気配り上手な斗貴子は、何かにつけて秋の世話を焼いてくれる。何よりも、2人は男の人を怖がる秋が他の父親達と近付かなくていい様に気を使ってくれていたので、藤は安心してバレーに打ち込む事が出来た。
そんな楽しい少年バレーに、不穏な空気が流れ出したのは、6年生が最後の大会を迎える12月の事だった。
最後の大会という事もあって、6年生への練習はいつもにも増してきつくなり、普段は練習に顔を出さない父親達も、そんな子供達を支えようと足を運ぶ人が増えていった。
「あれ?今日美代ちゃんは?」
いつもなら誰よりも早くから来て、大きな声で応援してくれる美代の姿がなかったので藤は義和に尋ねた。
「インフルエンザ・・鬼の霍乱ってやつ?」
義和は難しい事を言ってキシシと笑ったが、藤は美代が来れない事を知って少し不安になった。藤のそんな予感は的中する。いつもなら美代が側で睨みを効かせているので父親達は誰も秋に近寄れないのだが、美代が来ないのを知った途端に、何人かの父親が秋に話し掛けに行ったのだ。20才で藤を産んだ秋は、ここにいるどの母親よりも若かった。150cmにも満たない小さな体に、整った愛くるしい顔立ち。藤は、たまに訪れる父親達が秋を ’うさぎちゃん’ と称しているのを知っている。藤はもう練習どころではなかった。秋が怖がっている事が見て取れたし、その結果がどうなるのかも分かっていたからだ。秋は引き攣りながらもにこやかな振りをして男達から距離を取って斗貴子達の側へ行こうとしていた。それに気付いた斗貴子が、足早に秋の元へ駆け付けようとした矢先、調子に乗った一人の男が離れようとする秋の肩に手を回すと、その小さな体を抱き寄せた。次第に青くなっていく秋の顔に藤は、
「お母さん!」
と、叫ぶ。藤が駆け寄るよりも先に動いたのは丈瑠だった。
「秋!」
丈瑠は秋に触った男を凄い眼で睨むと、秋の肩を抱いて体育館の外へ連れて行く。藤もそれを追い掛ける様に体育館を出た。
「ちゃんと息しろ!ゆっくり!」
地面に座り込んで震えながら肩で息をしている秋の顔を、丈瑠は手で包むと自分の方を向かせる。
「秋、俺を見ろ。大丈夫だから」
秋の焦点が合ってない様な虚ろな目が丈瑠を見ると徐々に落ち着いてくるのが分かったが、藤は秋が死んでしまうのではないかという不安で心臓がドクンドクンと大きな音を立てた。
「お母さん・・・」
こんなに大きな発作は初めてだった。これまでも男の人に少し触られたりすると震えながら呼吸を乱す母を見た事はあったが、ここまでの症状を見た事のない藤は、不安と心配で涙が溢れる。
「ごめん・・大丈夫だよ・・藤」
そんな藤に気付いた秋が、まだ青い顔でニコリと笑顔を作った。
「大丈夫じゃないじゃん・・」
藤は秋の手を握りながら、声を殺して泣いた。
「秋、車の中で少し休んでろ・・治まったら今日は帰れ、いいな?」
丈瑠が秋の頬に優しく触れる。
(あれ?)
藤はこの時初めて、秋が丈瑠だけは怖がらず触れられても平気だという事に気付いた。
「藤、悪いけど荷物持って来てくれるか?」
丈瑠の言葉に藤はすぐに頷き、体育館の中へ戻った。体育館では斗貴子や幸子、琴美が藤の姿を見ると駆け寄って来て、
「藤!秋は?大丈夫?」
と、心配そうに聞く。
「うん、もう大丈夫だと思う。でも、丈瑠さんが今日は帰れって」
「うん、その方がいいよ・・ごめんね、私達が付いてたのに・・」
斗貴子が申し訳なさそうな顔をしていたので藤は首を振った。
「俺もお母さんと一緒に帰るね」
ママさんズが心配そうに見送る中、体育館の隅で6年生の母親達が何かを話し合っているのが藤の目に入ったが、藤は対して気にせずその場を後にした。藤が荷物を持って来ると、丈瑠がその鞄の中から車の鍵を出す。そして、それを藤に渡し、鍵とドアを開ける様に言った。藤が言われた通りに鍵とドアを開けると丈瑠は軽々と秋を抱き上げ、運転席に座らせるとシートを倒す。藤は母を抱き上げる丈瑠がとても格好良いと思った。
「後で家に寄るから」
丈瑠は秋に優しく言って笑うと、藤に視線を移した。
「藤、もう大丈夫だ。でも、お母さんの事頼むな」
丈瑠がそう言って藤の頭を撫でる。たったそれだけの事だったが、体からフッと力が抜け、藤はものすごく安心出来た。
(お父さんが居たらこんな感じだったのかな)
車の中で10分程横になっていた秋が体を起こすと、心配そうに見つめている藤にいつもの笑顔を見せる。
「ごめんね、もう大丈夫だから・・心配掛けちゃったね」
藤は秋の笑顔に心底安心して、溢れて来た涙を袖で拭って笑った。
秋は家に帰ってくるとリビングのソファに寝転がりながら何かを考えている様だったが、その顔が険しく見え、藤は話し掛けられずにいた。
21時を少し回った時、玄関のチャイムが鳴った。丈瑠が来たのだとすぐに分かって藤と秋が玄関で丈瑠を出迎えると、丈瑠の後ろから純一郎がヒョコっと顔を出す。
「すぐ帰るから車で待ってろって言っただろ?」
「俺だって秋ちゃんが心配なの!」
純一郎がそう言って口を尖らせたが、丈瑠は秋に視線を移すと
「顔見に来ただけだから・・もう大丈夫そうだな」
と、優しく笑う。秋も丈瑠の言葉に頷いて微笑んだ。
(やっぱりだ。お母さんは丈瑠さんの事だけは怖がってない)
藤の疑問は確信に変わった。秋が何故丈瑠だけは平気なのか、藤には分からなかったが、そんな人は今まで存在しなかったので、母にとってとてもいい事だと思う。
「ま、明日は学校も練習も休みだし、ゆっくり休め」
藤は帰ってしまいそうな丈瑠の言葉に、慌ててその横を摺り抜けて純一郎の元へ行くと、純一郎の腕を引っ張って2人から離れた。
「ね、あの2人どう思う?」
「どうって?」
「お母さん、丈瑠さんの事だけは怖がらないんだ。何でかな?知ってる?」
藤は純一郎なら何か聞いているのではないかと思ったが、
「ううん・・知らない・・けど、父さんも秋ちゃんにはすごく優しいと思う」
結局藤の疑問を解消する様な話は聞けなかったが、藤も純一郎もあの2人には何かあるのかもしれないという仄かな思いだけは共通していた。
「なぁ、あの2人付き合ったらいいと思わない?」
純一郎が言った言葉に、藤の目が見開く。
「いい・・・それいいよ!」
「だろ!?」
「もし上手くいけば俺達兄弟だ!」
藤と純一郎はすごい発見をしたかの様に興奮して顔を合わせる。そしてヒソヒソと話し合った後、揃って秋と丈瑠の方を向いた。
「お母さん」
藤が玄関でまだ丈瑠と話していた秋に声を掛けると、秋と丈瑠が2人に目を向けた。
「明日練習休みだから、純一郎と一緒にご飯食べたいな」
藤はニッコリと笑って言った。
「俺も秋ちゃんのご飯食べたい」
純一郎も同じ様にニッコリ笑う。
「えぇ?・・・どうしたの突然・・」
2人からのお願いに、秋は面食らった様な顔で丈瑠を見た。
「・・・俺も食いたい」
藤達の言葉に丈瑠も乗っかると、秋はいよいよ困った顔をしながら3人の顔を見回す。3人の視線が秋に集まったまま動かないので、秋は小さい溜息を付いて
「分かった・・・分かりました」
と、観念した様に言った。
「本当!?」
真っ先に喜んだのは純一郎だった。秋のお弁当を食べる事はあっても、温かい料理を食べた事のない純一郎は秋の承諾に目を輝かせる。そんな純一郎に秋は優しく微笑むと、
「純一郎は何が食べたい?」
表情と同じ優しい声色で聞いた。
「俺、唐揚げ食べたい!」
「じゃ、それにしようか」
秋がフフッと笑う。藤と純一郎はハイタッチして作戦が上手くいった事を喜んだ。