想いを君へ 1
藤達が6年生になった頃には、大会という大会で優勝を飾るチームdragonに、各地から練習試合の申し込みがくる様になっていた。丈瑠達指導者もそれを積極的に受け、日曜日は大抵がそれに当てられる。他県からも来る挑戦者に、丈瑠は色々なパターンで試合をさせた。時にはポジションを大きく入れ替えて行われる実戦に、子供達は丈瑠が次にどんな事をやらせるのだろうと胸を躍らせる。
ママさんズも美代を会長に据え、副会長に斗貴子、会計に秋と、少年バレー生活最後の年を楽しみながらも忙しく過ごしていた。夏休みに入ると、練習は更に厳しくなり、蒸し暑い体育館が更に熱気に包まれる。
「なぁ、藤」
練習が終わってネットを外していた藤に、両手にモップを持った純一郎が声を掛けた。
「俺達、頑張ってるよな?」
藤は純一郎が突然何を言い出したのかと思ったが、迷いなく頷く。
「試合だって負けた事ないじゃん」
藤がそう返すと、純一郎は首を横に振る。
「バレーの事じゃないよ。父さんと秋ちゃんの事!」
藤も ’あぁ’ と大きく頷いて、2人はモップを掛けながら話を続けた。
「こんなに一緒に居るのに、あの2人の進展のなさってどうなの?」
藤もこれには頭を抱えていた。仲はいい。土曜日は大抵一緒に過ごしていたし、2人の間に流れる空気も悪くない。丈瑠が共に連れ出す事によって、秋は今では1人でも外へ出られる様になっていたし、以前程男の人を怖がる事もなくなっている。それは丈瑠が秋の側に居るからなのだろうと藤も純一郎もそう思っていた。だが、後一歩が進まない。
「お互いに好きなんだと思うんだよ・・でも、付き合い出さないのは何が原因なんだろう?」
純一郎が真剣に考え出した。
「どうして大人って難しく考えるのかな?好きって思うのってそんなに難しい事なの?」
2人は自分達には分からない大人の考えに、揃って溜息をついた。
藤とそんな会話をした帰りの車の中、業を煮やした純一郎がそれを丈瑠にぶつける。
「ね、いつまでモタモタしてるつもりなの?」
「モタモタって何だよ?」
純一郎に突然責められて、丈瑠が驚いた様に純一郎を見た。
「何で秋ちゃんに付き合ってって言わないの?」
丈瑠は少し困った顔で笑う。
「・・色々あんだよ」
「色々って何?」
「・・色々って・・色々だよ」
そう言って教えてくれそうにない丈瑠に、純一郎はこれ見よがしに大きく溜息を付いた。子供達が自分達を取り持とうと動いてくれているのは分かっている。だが、丈瑠は決定打を打てないでいた。自分の気持ちなどとっくに限界を超えている。秋が近くに居れば触れたいと思うし、距離を挟んでなら男と話し、笑顔すら見せる様になった秋に苛立ちすら感じてしまう。だが、秋が1番に信頼を寄せ、自身の生活に踏み込ませているのが自分だけなのもよく分かっている。丈瑠に二の足を踏ませている1番の理由は、秋が自分を ’男’ として意識した時にどんな反応を見せるのかという事だった。もしかしたら怯えさせてしまうのかもしれないと思うと、最後の決意を鈍らせる。だが、焦ってはいない。秋が側に居るという事実が、自分の中で1番大事だという事は空白の7年間で思い知っている。恋人ではないが、友達でもない。この曖昧で、それでいて誰よりも秋の側にいるこの関係を崩す勇気までは、丈瑠の中で湧いて来なかった。
子供達の頑張りも虚しく、そんな曖昧な関係はしばらく続いたが、そんな2人の関係が変わり始めたのは、 ’退団’ という文字がチラつき出した10月頃だった。
「俺、明日から出張で1週間居ないから」
いつもの様に練習を終えた後、来月の練習スケジュールを確認していた秋達ママさんズに丈瑠が言った。
「どこ行くの?」
「東京」
秋は、10月末から始まる世界選手権を思い出し、納得した様に頷いた。
「世界バレーの準備?」
「そう。急遽駆り出された」
忌々しそうな丈瑠の表情に、秋はクスリと笑う。
「会長、丈瑠さんに帰って来てもらいたいのよ」
「ジジィ、早く隠居するって駄々こねて上原さん困らせてるらしいぜ?」
丈瑠がニヤリと笑うので、秋は頭を押さえて溜息をつく上原を想像して笑った。
「鬼の指導者が1週間も居ないなんて、子供達も羽伸ばせるわね」
美代が片付けをしている子供達を見てそう言って笑うと、
「はぁ!?んな訳ねぇだろ!ちゃんと練習メニュー、向坂さんに頼んであるから」
丈瑠が自信満々に言う言葉に、ママさんズは恐らく丈瑠がとんでもない練習メニューを組んでいるのだろうと子供達を気の毒に思った。
丈瑠が東京へ行って、1日目は案の定過酷な練習メニューを残していった丈瑠に、ママさんズも子供達も文句を言っているのを秋は笑って見ていた。1日目はまだ丈瑠の名残が見えたが、2日目、3日目と経つにつれ、丈瑠がそこに居ない事が実感として湧いてくる。余程忙しいのか電話すらくれない丈瑠に、秋は口を尖らせた。4日目あたりになると、秋はいよいよ寂しくなって、鳴らない携帯を何度も確認する。再会してから毎日の様にあったあの笑顔が見れないと、心もとない気さえした。
(電話くらいくれてもいいのに・・)
「月島が居なくて寂しい?」
そんな秋の心を見透かす様に美代が尋ねたので、秋は自分の顔が熱くなっていくのを感じた。
「・・うん・・急に手を放されて不安がってる子供みたい・・私」
秋は素直にそう言ったが、藤が退団を迎える3月からはこれが日常に変わるのだ。校区が違う藤と純一郎は、これから対戦相手として戦う事になるし、部活が忙しくなれば会う機会も少なくなるだろう。少年バレーの練習に来る事もなくなり、今ここに居るのが思い出となっていくのが秋には寂しかった。
「退団したら・・丈瑠さんとも中々会えなくなっていくのかな・・」
秋がポツリと独り言の様に零した言葉に、美代が優しく微笑んだ。丈瑠が側に居ないと寂しい。だが、それが愛しいという想いから来ているのかと聞かれたら、秋は答えに迷う。秋の胸を熱くさせるのは今でも思い出の中の雪で、こんなにも人を愛しいと思えるのも雪だ。雪を思い出すと胸が締め付けられる様に苦しくなる。そして会いたくて堪らない。叶わない願いだと分かっていても、いや叶わない願いだからこそ身を焦がす様な切なさが秋を襲うのだろう。
「あいつの事・・好き?」
そんな事を考えてきた秋に、美代がふいに尋ねたので、秋は少し驚いて美代を見た。
「・・・分からないの。この気持ちが好きなのかどうか・・ずっとお兄ちゃんみたいな人で、1番側に居てくれて、ずっと支えて貰ったから・・」
秋が話す言葉を、美代が優しい顔で黙って聞いてくれていたので、秋は自分の気持ちを素直に言葉にする。
「私ね、ずっと雪は月みたいな人だと思ってた」
「月?」
「うん・・優しい柔らかい光で私を照らしてくれる。でも、段々と形が変わって最後には見えなくなっちゃう・・それが堪らなく寂しくなった頃に、また現れて光は強くなっていく。雪への気持ちに似てるなって・・そう思うの」
「・・秋」
「丈瑠さんはね、私にとって太陽なの」
「あいつが?」
「ふふ、うん。いつも形を変える事なく側で木漏れ日みたいな暖かさで包んでくれる。いつもそこにあって、日溜まりの中にいるみたいで幸せな気分になるの。当たり前みたいに側にあるから、たまに太陽が見えなくなると不安になって寂しくなっちゃう」
秋のそんな言葉に、美代がジッと秋を見た。
「それ、月島に言った事ある?」
秋が首を振ると、美代は秋の肩を掴んだ。
「それ、月島に言った方がいいと思うよ?」
「え?何で?」
「私には秋が月島を好きだって言ってる様に聞こえる」
美代が真面目な顔をして秋の顔を覗き込んだので、秋の心に小さな罪悪感が芽生える。
「・・そんな風に聞こえた?」
「うん」
美代がハッキリと頷くと、秋は自分の中にある丈瑠への気持ちと向き合おうとして、止めた。
(考えちゃ・・駄目・・)
大きくなっていく罪悪感と、脳裏に浮かぶ雪の笑顔。秋が丈瑠への気持ちを考えようとすると、決まって雪の笑顔が浮かぶ。そして秋はこの気持ちに向き合えなくなるのだ。丈瑠が零した ’好きだ’ という言葉を意識した時から、秋はそういった事を何度も繰り返していた。秋の俯く姿に、美代が切ない表情を浮かべる。
「ねぇ、秋?」
秋は美代を見上げた。
「もう他の誰かを愛してもいい頃だと思うよ?」
美代の優しい声に、秋は寂しそうに笑う。
「怖いの」
「何が?」
「他の人を好きになったら、本当に雪が消えてしまう気がして・・雪を思い出にしちゃう事が・・怖い」
「・・秋」
泣き出しそうな秋の肩を美代が抱くと、
「私はさ、逆だと思うんだ」
そう言って真っ直ぐ前を向いた。
「雪君はきっと、秋が幸せになる事だけを望んでると思う。自分に縛られて、身動きがとれなくなってる秋を、今頃スゴく心配してると思うなぁ」
「縛られてる?」
「うん・・雪君はさ、残された秋が幸せになるのを許せないって思う様な男だった?」
秋は激しく首を振る。
「ほらね?」
「・・いいのかな・・?」
「いいんだよ・・だって雪君を想う気持ちは、秋の1番深い所に刻まれてる。絶対に消える事はないし、それを忘れる必要もないの」
美代の言葉は、秋の心の中にストンと落ちて来た。
「忘れなくてもいい・・」
秋が繰り返す言葉に、美代は優しく笑った。
「あいつが雪君を忘れてくれって言うと思う?」
秋は溢れ出す涙を拭いながら首を振る。
「ね?あいつ、バカみたいに秋を大事にしてるの。でも、それと同じ様に雪君の事も大事なのよ。私はね、秋があいつを好きになったのは運命だと思うの」
「運命?」
「秋が好きになるのが月島じゃなかったら、秋はもっと雪君以外の人を愛する事に苦しむ事になってた。私ね、月島がこっちに転勤するって聞いた日からずっと、秋とあいつを結ぶ糸が見えてた気がする」
「美代ちゃん」
「ほんとはもう分かってるんでしょ?」
拭っても拭っても止まらない涙を流しながら秋は小さく頷く。
「丈瑠さんに・・惹かれてる。でも、考えちゃ駄目だって・・そう思ってた。お兄ちゃんだって、自分に言い聞かせて・・ずっと誤魔化してたの・・」
秋がやっと見せた本音に、美代は涙を潤ませながら微笑んだ。2人が顔を合わせて笑うと、秋のポケットの携帯が震える。
「月島かな?」
美代がニヤリと笑う。秋が慌てて携帯を取り出すと、電話を掛けて来たのは上原だった。
「・・・・上原さんだ」
少し残念そうにした秋の顔に、美代が吹き出したので、秋はそれを横目で睨みながら電話に出た。
「もしもし?」
「あ、秋!?」
いつもの冷静な上原とは違う、焦った様子に秋は首を傾げる。
「どうかしたの?」
「東京に来て!明日、始発で!」
秋は上原の言葉に驚いた。上原に見送られ東京を離れてから9年、上原からの呼び出しなど一回もされた事はない。秋の胸に不安が広がる。
「どうして?何かあったの?」
秋の声に緊張が走ると、それに気付いた上原が更に慌てる。
「あぁ、ごめん。そうじゃないの・・仕事の話」
秋はホッとして胸を撫で下ろすと、上原の慌てぶりに笑いが込み上げて来た。
「もう、何事かと思うじゃない」
「ごめ~ん・・世界バレーの準備とかでテンパってて・・それなのに、イタリアが突然勝手な事言い出すもんだから・・」
「何て言って来たの?」
「今、各国のチームが来日し始めてるじゃない?公式練習の様子を分析してたんだけど、イタリアだけが練習を30分しか見せないって言い出したのよ・・そんな短時間に分析出来る人なんて秋しか居なくて・・頼む、秋!こっち来て!」
「明日でしょ?う~ん・・平日だし、藤も学校だから・・それに分析ビデオ待ってたら泊まりになっちゃうだろうし・・う~ん」
秋が悩んでいると、それを聞きかじっていた美代がジェスチャーで合図したので、秋は携帯に手を当て美代を見た。
「仕事?」
「うん、明日東京に来れないかって」
「行って来な。藤は私の所に泊めるから」
美代の言葉に、秋は両手を合わせて感謝する。
「もしもし、上原さん?明日行く」
上原も安堵の声を上げ、2人は待ち合わせの時間と場所を決め、電話を終えた。
「美代ちゃん、ありがとう!本当に助かった」
秋が美代にお礼を言うと、美代がニヤリと笑う。
「月島も居るんでしょ?会って来たら?」
秋は嬉しそうにはにかみながら顔を綻ばせた。たった4日離れていただけなのに、会えると思ったら今すぐにでも飛び出したい気持ちが込み上げ、秋はそんな子供みたいな自分にクスリと笑う。
「うん、驚かせちゃおうかな」
秋がとびきりの笑顔を見せると、美代も嬉しそうに微笑んで頷いた。




