丈瑠と秋
秋への想いを必死に押し留めていた丈瑠の気持ちは、遂に綻びを見せ始める。それは木曜日の事だった。練習前に6年生の大会の事を向坂と体育館脇にある小部屋で話し合った後、丈瑠が体育館に入ると純一郎が丈瑠の元へ飛んで来た。
「父さん!秋ちゃんが6年生のお母さん達に連れて行かれた!」
不安そうな顔をする純一郎が、必死に訴えて来ると丈瑠は心の中で舌打ちをし、体育館の外へ向かう。駐車場の隅にその集団を見つけると、お決まりの展開に溜息を吐いた。会長の高田、副会長の伊野、会計の斎藤がその場に居る事を確認すると、丈瑠は純一郎ではないがうんざりとした気分になる。伊野の夫はこの前秋を怯えさせた張本人だったし、斎藤はこれまで幾度となく丈瑠にアプローチを掛けていた人物だ。大方この2人が秋を面白く思っていない事を会長である高田に言ったのだろう。丈瑠は3人の前に居る秋と、秋を守る様に3人に威嚇している美代を見た。秋が顔を赤くして俯いているのを見ると、丈瑠は
(勘弁してくれよ)
と思う。先日はあんなに楽しそうに笑っていた秋が恥ずかしそうに口ごもる姿を見ると、丈瑠の胸には苛立ちしか残らない。
「何してんの?」
丈瑠が不機嫌な顔を露骨に出して声を掛けると、皆が丈瑠を見た。
「この人達、土曜日にあんたと秋が手を繋いでた事が気に入らないみたいよ。後、秋が純一郎にお弁当作ってくんのも気に入らないんだって」
美代が横目でジロリと3人を見ながら言うと、3人は少し慌てた様子で美代を見て、苦笑いを浮かべながら丈瑠の元へ走り寄って来た。
「私達、別にそんなつもりで言ったんじゃないのよ?ねぇ?」
高田が他の2人に同意を求めると、伊野と斎藤も頷く。
「じゃあ、どんなつもり?手繋いでたら何?言えよ」
丈瑠は冷たく言い放つ。丈瑠が保護者にこんな態度を取るのは滅多にない事だった。指導者である自分と保護者の間に溝が出来てしまうと、その被害を受けるのは子供だ。丈瑠と会いづらくなって子供にバレーを辞めさせてしまう親がいる事から、丈瑠は努めて保護者に冷淡な態度を取らない様に心がけていた。だが、今回は抑え難い苛立ちを我慢出来ない。
「文句があんなら俺に言え」
「月島さんに文句がある訳じゃないけど・・」
伊野が口ごもる。
(まずはてめぇの旦那に文句言えや)
口にこそしなかったが、丈瑠は心の中で毒舌を吐く。
「純一郎のお弁当だって・・今まで私が何回作っても受け取って貰えなかったのに、どうしてその人ならいいんですか?」
斎藤が目で訴えながらそう言うと、丈瑠は
「そんな事一々説明しねぇと駄目な訳?」
と、斎藤に念を押す様に言う。丈瑠は心底放って置いて欲しいと思った。自分と秋の事なのに、どうして第三者がしゃしゃり出て来るのか、丈瑠には意味が分からない。
「俺さ、今この人口説いてる最中なんだよね。余計な事しないでくんないかな?」
丈瑠の言葉に、そこに居た全員が丈瑠を見た。
(あ、やべ・・)
丈瑠が秋に視線を投げると、秋は皆と同じ様に驚いた顔で丈瑠を見ていたが、丈瑠が一瞬斎藤に向けた視線を秋に戻すと、 ’あぁ’ と悟った様な顔をして斎藤に視線を投げた。
(・・わざとらしかったか?)
ふと不安になったが秋の様子からして、自分があえて斎藤に向けた視線に、秋はこの言葉を斎藤を牽制する為の嘘だと思っているに違いない。思わず口について出た言葉だったが、秋がそう取ってくれた方が丈瑠にとっては都合が良かった。やっと一歩を踏み出した秋に、自分の気持ちが伝わってしまえばこれまでの様に自分を頼る事を止めてしまうだろう。1番怖いのは、秋が自分を男として見た時に他の男達に見せる様な ’怯え’ を感じてさせてしまう事だった。
「俺らの事気にする余裕あんならさ、自分の子供もっと見ててやんなよ。最後の大会の為に頑張ってんだからさぁ」
丈瑠の最もな言葉に、高田達は気まずそうな顔をしてそそくさと体育館に入って行く。丈瑠は秋を安心させる様に、笑って頭を撫でた。美代もそんな2人に微笑みながらそっと体育館に戻る。
「らしくねぇじゃん、言い返せよ」
「・・・ありがと・・・」
秋は俯いたまま言う。本来の秋なら決して負けたりしないだろう。実際に、丈瑠は雪のファンに囲まれて大喧嘩をしている秋を見た事がある。見た目は小動物の様なか弱さだが、秋の内面は美代と同じ位の戦闘民族だ。
「土曜日の約束、忘れんなよ。後、純一郎の弁当もこれまで通り作ってくれな?」
そう言っても秋は俯くばかりで、丈瑠の顔を見ない。丈瑠は秋が何を考えているのか少し不安になった。この事が原因となって秋に距離を置かれた日には、こっちが泣きたい。丈瑠は秋の顎に手を掛け、自分の方へ顔を上げさせると、真っ赤になっている秋の顔があって笑いが込み上げて来た。
「ブハッ!真っ赤!」
丈瑠が堪え切れずに吹き出すと、秋に憎たらしそうに睨む。秋はそんな自分を誤魔化す様に
「お弁当・・作ってくれる人いたんじゃない」
と、口を尖せながら言った。
斎藤の事を秋に知られた気まずさから、丈瑠は言葉を選ぶ。秋に誤解される様な事だけは避けたかった。
「純一郎はさ、やっぱり母親って憧れてるんだよ・・可哀想だからとか、同情とかで近付いて欲しくないんだよね・・それに、気のない相手を下手にその気にさせて、純一郎に変な期待を持たせたくねぇからさ」
丈瑠の言葉に秋が納得した様に頷くと、丈瑠は自分の気持ちがちゃんと伝わっている事にホッとした。
「それにな、純一郎、秋の事覚えてるぞ」
「ほんと!?」
秋の顔がパッと明るくなって丈瑠を見上げたので丈瑠も嬉しくなって笑って頷く。
「ちゃんと覚えてる訳じゃねぇけど、この前純一郎が言ったんだ。 ’秋ちゃんは俺が大事って顔するんだ’ ってさ」
先日純一郎が恥ずかしそうに零した言葉を教えると、秋は口元を押さえて少し涙ぐんだ。
「わ・・嬉しい・・すごく嬉しい」
「やっぱ、どんなに小さくても忘れないもんなんだなぁ・・自分を育ててくれた人ってのは」
丈瑠が不思議そうに話すと、秋はニッコリと笑って頷く。体育館へ戻ろうかと言い出そうとしていた丈瑠の耳に、か細い藤の声が届いた。
「お母さん」
一瞬秋と目を合わせ後ろを振り向くと、真っ直ぐに自分達を見ている藤の姿があった。
「藤・・聞いてたの?」
秋の顔が段々と青ざめていくのが分かったが、藤が秋に声を掛けながらも、その視線を自分に向けているのを感じると、丈瑠も真っ直ぐに藤を見つめた。
「俺のお父さんは誰?」
藤の振り絞る様な声と、その小さな体が小刻みに震えていて、丈瑠が藤が誤解しているのだと切なくなった。ゆっくりと近付くと、今にも泣き出しそうな藤が丈瑠を見上げている。
「ちゃんと話してやるよ・・お前にも、純一郎にも・・」
丈瑠が藤の頭を撫でると、藤の小刻みに震えていた体から力が抜けて行くのが分かって、丈瑠はフッと笑った。