慟哭 1
周りに助けられながら、穏やかな生活を取り戻して半年が経った頃、丈瑠は秋が休憩室の一角で誰かと談笑している姿を見掛けた。職員ではない作業服を着た男だった。
(誰だ、あれ?)
休憩時間が終わり、分析センター室へ戻る秋を引き止め、
「誰?」
と聞く。
「高校の時、バレー部だった後輩」
と秋が答えたので、丈瑠もその時は
「ふ~ん」
としか思わなかった。それが雪、秋、そして自分の人生を大きく狂わせるとも知らず・・・。
松原 悠一。
丈瑠がこの世で一番初めに殺したい程憎いと思った男だ。松原は協会の清掃員として出入りしていた。スポーツをしていた割には、どこか暗い雰囲気を漂わせ、とても小さな声で話すのが印象に残っている。松原は秋の休憩時間に合わせる様に、その時間になると決まって休憩室を掃除している。丈瑠はこの男が気に入らなかった。恐らくは、松原が秋を見る目なのだと、丈瑠自身も気付いてはいた。あれは秋に好意を寄せている瞳だ。でも、丈瑠は秋にそれを伝えなかった。と、いうよりも言えなかった。自分も松原の事を言えなかったからだ。丈瑠はあの日、現役を引退する前、黙って丈瑠の腰に腕を回して抱き留めてくれた秋を妹ではなく女として見ている。だから真知子に言われた言葉は丈瑠の心を揺さぶったのだ。だが、丈瑠はその気持ちを上手く上手く隠した。秋に対してそれを言うつもりもないし、何かしたいとも思っていない。丈瑠が心から大事にしている雪と、秋が幸せならそれで満足だった。だが、松原は違った。日を追う毎に、秋に執着している様に見えて丈瑠は不安と苛立ちを感じる。そんな丈瑠の不安を更に募らせる出来事が起きたのは、ワールドカップを3週間後に控え雪達全日本メンバーがイタリアへ遠征している時だった。
丈瑠は一服しようと、休憩室に足を運んだ。その日は仕事が立て込んでいた為、普段の休憩時間よりもかなり遅くになってからの休憩だった。丈瑠は仕切りで囲まれた喫煙所の中から誰も居ない休憩室をぼんやりと眺めていた。
「おかしいだろ!いい加減気づけよ!」
誰かの怒鳴り声が聞こえ、丈瑠は驚いて周囲を見渡したが、休憩室にはやはり誰も居ない。
「松原君、大きな声出さないで」
かすかに聞こえた女の声。丈瑠はその声に、咥えたタバコを灰皿で消すと、喫煙所を出て声のする方へと向かう。
「君と息子の存在を隠して、あいつは女に持て囃されたいだけなんだ」
「違う、これには色々事情があるの・・雪の事悪く言わないで」
近くまで来て、丈瑠はやはり秋の声だと確信する。2人は休憩室の隣にある非常階段に居た。
「僕には分からない・・君って奥さんが居るのに・・僕なら君をそんな愛人みたいな扱いをしない!」
松原の声はどこか切羽詰まった様な、焦った様な雰囲気があった。
「私、そんな扱いをされているなんて思ってないわ。幸せだよ?」
「君はそう思わされているだけなんだよ・・可哀想に・・僕がもっと早く君を迎えに来てあげていれば良かった・・」
「松原君?・・・何言ってるの・・?」
松原は秋の両腕を掴むと、
「大丈夫・・僕が助けてあげる」
と言ってニヤリと笑った。秋の表情が恐怖に歪んでいくのを感じて丈瑠はその場へ飛び出した。
「秋に触んなよ、坊主」
丈瑠がそう言って松原を突き飛ばすと、それ程力を込めた訳ではなかったが、松原は軽々と吹っ飛び尻餅をつく。
「ほら、見ろ!こうやって君の事を監視してるんだ!君が自由になれない様に!」
松原は丈瑠を指差して喚いた。丈瑠は松原が何を言っているのか理解出来なかったが、その異様な雰囲気だけは分かる。
「秋、来い」
丈瑠は秋の腕を掴んで、足早にその場を立ち去ると、秋を分析センター室まで送って行った。
「ありがと」
秋が不安げな顔でお礼を言う。
「もうあいつに近寄るなよ・・何かやべぇよ、あいつ」
「うん」
秋も松原の言葉に異様さを感じていたので、丈瑠の言葉に素直に頷いた。その事があってから、秋は松原を避ける様に休憩時間を定めなかった。そして大抵は、分析センターの上原と行動していたので、丈瑠も松原を不安視はしていたが、関わる事もなく過ごしていた。だが、それは最悪の形となって現れる。
あの日は、日本中が試合の成り行きを見守っていた。オリンピックを掛けたワールドカップ最終戦。日本はこの日対戦するアメリカに勝てば、首位を走るアメリカから勝ち点を奪い、優勝と同時に15年振りにオリンピックの切符を手にする事が出来た。雪の人気は未だ衰えず、会場には多くの人が詰め掛ける。秋も3才になった藤を連れ、雪の応援に来ていた。丈瑠は試合の進行や、会場整理に走り回りながらも、その時をワクワクした気持ちで待っている。試合のスターティングメンバーに雪の名前が呼ばれると、観客が一斉に声を上げる。雪のスポーツ選手とは思えない甘いマスクとその笑顔は会場中の女性ファンを虜にする。だが、いざ試合が始まれば皆がその神がかったプレーに魅了された。高さで圧倒的に上回るアメリカ相手に、192cmと世界を相手にするには決して大柄とは言えない躰が宙に舞う。長い滞空時間、野生のヒョウの様なしなやかな躰から繰り出される鋭いスパイク。雪の圧倒的な強さがチームの士気を高めると他の選手も負けじとファインプレーで観客を沸かせた。日本バレー界最高の逸材の呼び声は伊達ではないと、世界に名を知らしめてから3年。まだ留まる事のない進化に観客は酔いしれる。試合はフルセットにもつれ込む大接戦だったが、最後はチーム一丸の攻撃が功を奏し、日本はオリンピックの切符を手に入れると同時に優勝の二文字を飾った。詰め掛けた報道陣の前に、試合でMVPを獲得した雪が姿を見せると、一斉にフラッシュがたかれ、取り囲まれる雪を秋とその腕に抱かれた藤が、少し離れた所から見守っている。丈瑠は秋の隣に立った。
「やりやがったな」
「うん」
秋が嬉しそうに微笑む。
「雪がね、この試合が終わったらマスコミに私達の事、発表しようって」
「マジで!?」
丈瑠は秋の言葉に驚きながらも、嬉しさを隠せず満面の笑みを見せた。
「やっと会社から了承が出たの」
秋が丈瑠を見上げながらフフっと笑う。
「大河に藤の事が知られてもいいのか?」
丈瑠の心配はそれだけだった。
「うん・・縁を切るって」
「それだけであの男が黙ってるとは思えねぇけど・・大丈夫なのか?」
「まだ雪が何にも話してくれないから私も分からないんだけど、藤崎の父に対抗出来る唯一の方法があるんだって・・」
2人は顔を合わせて首を傾げる。
「それにね、遠征先のイタリアで何かいい事があったらしくて・・雪は ’お楽しみ’ って言って教えてくれなかったけど」
「何だか分かんねぇけど・・秋、良かったな」
丈瑠の言葉に、秋は一番の笑顔を見せた。