#3.笑う弟と記憶のない兄
0話【天使になった少年】③
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七時二十分になると、朝ごはんの時間だ。
食堂は、すでにざわざわしてる。
正面の扉を開けた瞬間、ひんやりした空気と、
香ばしいパンの匂いがふわっと鼻をくすぐった。
「オレもっと大盛りがいい!」
「え、またこれ? 昨日もパンだったじゃん!」
「それオレの席ー!」
……はいはい、うるさいうるさい。
朝から元気フルスロットルな幼児たちのテンションは、もはや自然災害。耳にダメージくる。
目をこすりながら、配膳の列に並んでいると──
列の途中に、ひとり“透けてるやつ”が混ざってた。
園児たちの服を着て、普通に笑ってるけど──
よく見ると、後ろの壁がうっすら透けて見えてる。
最初の頃は見分けつかなかったけど、今はもう慣れた。
たぶん、ずっとここにいるんだろう。
誰とも話さないし、パンも取らないけど、
毎朝こうして、列に並んでる。
……別に悪さするわけじゃないし、どうでもいい。
「にぃに〜〜っ!!」
……うわ出た。
一番めんどくさいのが来た。
ちっちゃいのが、足バタバタさせながら突進してくる。
黄色いTシャツに、恐竜の絵。
ズボンはちょっと大きめで、ズリ落ちそうになりながら走ってくる。
「おはよう、にぃに!!」
──名前は、煉。
3歳。オレの“弟”……らしい。
……って言い方になるのは、オレがそのへんの記憶を持ってないからだ。
でも、煉のほうはまったく疑いもなく、毎朝フツーに「にぃに」って呼んでくる。
ナチュラルすぎて逆に困るくらいのテンションで。まるで、ずっと昔からそうだったみたいな顔で。
オレがよく見る、あの夢の中──
たいてい、こいつも一緒にいる。
一緒にケーキ食べてたり、笑ってたり。
だから、たぶん本当に弟なんだろうな……とは思う。
頭では、そう理解してる。
でも──感情の方が追いついてこない。
……記憶喪失ってやつだ。
大人の話によると、オレと煉は、
「桜城県・児童連続バラバラ殺人事件」っていう、やばすぎる事件の、生き残りらしい。
……サスペンスドラマかよ。って言いたくなるような名前だけど、ほんとにあった話らしい。
被害者二十人以上。
しかも、まだ見つかってない“部分”もあるとか。
……えぐい。
父親と母親は、オレたちを庇って──
そいつに殺されたらしい。
でも、何も覚えてない。
オレの最初の記憶は、
真っ暗な闇の中で聞こえた、女の人の声。
その次が、病院の白い天井。
医者には「ショックで記憶が飛んだんだろう」って言われた。
そして、ここ──未来園に預けられたってわけ。
世間を相当騒がせた事件だったようで、まわりの大人たちは、やたらと同情してくる。
「かわいそうだったね」
「辛かったね」
……でも、わかんない。
なにがどう“かわいそう”だったのか、オレにはわからない。
だって、覚えてないんだもん。
記憶のない“悲劇”を悲しめって言われても、それは無理だ。
例えるなら──
カレー食ったことないのに、カレーパンの味についてプレゼンさせられてるようなもん。
だから、煉に対しても最初は、どう接していいかわかんなかった。
たったひとりの、血のつながった家族。
でも、心の距離だけは、ずっと遠いまま。
それでも──
煉は、毎朝変わらず笑ってる。
「にぃに!」って手を伸ばして、
オレの袖をちょんってつかんで、にこって笑ってくる。
その笑顔に、オレはどうしていいかわからなくなる。
わかんなすぎて、気まずくて。
……結局、今日も。
「おはよう」
その一言だけで、済ませてしまった。
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今日の朝ごはんは、
レーズンパン、二個。
ソーセージ、一本。
ぬるいコーンスープ。
レタスとコーンのサラダ。
──そして、納豆。
……いや、待て。なんで納豆?
朝から妙にベトベトする謎の混線メニューに、思わず食べる前から心が揺れる。
パンに納豆って、敵対関係じゃなかったっけ?
ついでに言えば、白ごはんにナポリタンの日もあったし、焼き魚にイングリッシュマフィンっていう、“和洋ぶつけ本番”みたいな日もあった。
どう考えても、献立作ってるヤツは、宇宙人かあみだくじとかだ。
でも、文句を言ったところで──
「栄養バランスだよ」
「たんぱく質、大事だからね」
っていう、聞き飽きたテンプレが返ってくるのがオチだ。
……おとなって、つえぇな。
「さて、命をくれたものに、心をひとつ。黙祷。今日も感謝をこめて──いただきます」
食堂のいちばん前で、所長が手を合わせる。
松野所長。
ぽっちゃり体型に、しわだらけの白シャツ。
メガネの奥の目は細くて、いつもにこにこしてる。
ぱっと見は“やさしい町のおじちゃん”だけど、
実は未来園のボス。いちばんエラい人だ。
ちょっと変な決まり文句だけど、これを無視して食べると怒られる。
前に、我慢できずにパンをかじった新入りがゲンコツ食らってたの、オレは見た。
そのあと、各班からばらばらに「いただきます」が飛んでくる。
中には、誰が一番早く言えるか、
こっそり競い合ってる班もあるらしい。
……元気だな、おまえら。
すぐに、いろんな音が食堂に広がってくる。
カチャカチャ。カンカン。くちゃくちゃ。ずるずる。
……これが、いつもの朝ごはんの音楽。
「今日のソーセージ、長くない!?」
「レーズンまずっ!!」
「オレの納豆、タレついてないよ!!」
テーブルごとに飛び交う文句も、ツッコミも、
どれも似たり寄ったりで、毎度の事ながらくだらないと思う。
オレはというと、パンをちぎって、ゆっくり口に運ぶ。
レーズンがやたらと端っこに寄ってて、なんか半分損した気分になった。
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食べ終わると、次は学校の準備だ。
二階の男子棟に向かうオレと、
三階の保育室に向かう煉。
──で、ここからが毎朝の恒例行事。
「にぃに……やだぁぁ、行かないでぇぇ……」
このタイミングで、煉は必ずグズる。
……毎朝恒例、煉の別れの儀式だ。
涙と鼻水と「にぃに」がセットでついてくる。
こっちはもう慣れっこだけど、
“またか”って流せない気持ちも、毎日ある。
煉には、記憶障害なんてない。
事件のことも、家族のことも──
オレが忘れてる全部を、ちゃんと覚えてる。
だからたぶん、余計に寂しいんだと思う。
オレが煉を忘れてるってことが、
いちばん煉を傷つけてる。
でも、だからって──
兄貴っぽいことなんて、言えやしない。
「……毎日言わせんなよ。オレ、学校なんだよ。夕方には帰ってくるからさ」
しゃがんで、煉と目線を合わせる。
煉は、口をぎゅっと結んで、
うん……と、小さくうなずいた。
泣きそうなの、バレバレだったけど──
オレは、見なかったふりをして、
そのままランドセルを背負った。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
ちなみに、日本で「記憶喪失(健忘)」の症状で医療機関を受診する人は、年間およそ数万人。
その中でも、事故や事件などで“自分の名前や家族を忘れるレベル”の解離性健忘は、推定で年に100人前後らしいです。恐ろしい。
なお作者は、冷蔵庫の中身を記憶しておく事が出来ずに、いつも生卵を買ってしまい、増えてく一方です。
記憶喪失かもしれません。病院には行ってません。
感想とかブクマとか、お待ちしてます。作者のボケ防止に効きます。