プロローグ1.引きこもり幽霊とオレの肛門
食事中の方には大変お見苦しいシーンが含まれておりますので、苦手な方はブラウザバックを推奨致します。
【悲報】トイレに幽霊が立てこもってて、うんこできません。
──ここは、田舎町の山間に位置している古びた木造家屋。神社か民宿か、パッと見では判別不能なその建物のトイレから──異様なボイスループ地獄が聴こえていた。
「……いいね……いいね……いいね……いいね……」
時刻は二十一時。
まるで壊れた機械が呟いているかのような、湿気を帯びたリズム。耳で聴くというより、背筋に這い寄ってくる不快な“気配”のようなそれ。
「……いいね……いいね……いいね……」
そこだけ空気が重い。異常。明らかに──何かがいる。
そんなドアの前で、緋月紅之介は、両膝を折り曲げて、必死に耐えていた。
腹を押さえ、額にじわりと玉のような汗。
その髪は、真紅と白銀の二色に燃えるツートンカラー。
前髪は炎のごとく跳ね上がり、睨む目つきは野生の狼そのもの。
しかし今は──その顔面が、痛みと苦しさで歪みきっていた。
「……ウンコ漏れる……」
くぐもった呟き。
必死に足をクロスし、仁王立ちで耐える高校二年生。今は本能レベルで肛門に全集中している。
「……くっ、ちょ……マジで漏れる!! おい、どこの誰だお前!! 早く出やがれ!!」
指の震えが止まらない。
「いいね……いいね……もっと……」
「いいわけあるかバカ野郎ォォァァア!! こっちは一刻を争ってんだよ!!」
トイレの扉を両手でドンドンと叩きながら、裏返った声で叫ぶ。
完全に限界寸前。
内臓の叫びと、未知の存在の声が、ハモり始めたその時──
──ペタ、ペタ、ペタ。
廊下の奥から、裸足の足音が近づいてくる。
ゆらゆらと漂う、石鹸と湯気と……何か甘ったるいミルクのような匂い。
「紅之介、何を騒いでおる」
ぬっと顔を出したのは、一見すると中学生ほどの少女だった。
腰まで届く青髪は、先端にかけてピンクへと溶けていくグラデーション。
大きな紫の瞳は、濡れた光を宿しつつも──とてつもなく無表情。
肌は雪のように白く、そして細い。
名を、スピカ。
天使──を自称する、その正体はただの極悪ロリである。
風呂上がりだった。
上半身は、首から掛けたふわふわのバスタオル一枚。
タオルの端から、鎖骨と……視線を引っ張るなめらかなラインが、ちらちらとのぞく。
いや、ちょっと待て。
上半身:バスタオル一枚。
下半身:白の下着。
──なぜこの装備で、夜の廊下をパトロールしている???
「おいスピカぁぁああ!! その格好でうろつくんじゃねえって、いつも言ってんだろうがァァァァァ!!」
「ほほう。やはりワシの“せくしぃぼでぃ”は、年頃男子には毒か」
そう言いながら、ぽふんと両頬を指で挟んでぷにっと潰し、なぜかウインク。
「ほざくなボケェ!! 迷惑だからやめろってんだよ!!」
「迷惑……? 素直じゃないヤツめ」
スピカがどこか得意げな顔で、タオルを両手でひらりと翻す。
「では──これで、トドメといこう」
そして腰をくねらせながら、“謎ダンス”が始まった。
「ほれ♡ ほれ♡(くねっくねっ)」
動きが奇妙に滑らかで、なまじ美少女なだけに異様にエロくて意味不明。
「ほれ♡ ほれ♡(くねっくねっ)」
タオルが揺れるたび、チラチラと“事故”スレスレのラインが見える。
「ぎゃああああああああああああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁッッ!!!」
紅之介の叫びとともに、天井の電球がバチバチ弾け、家全体がゴッと鳴って揺れた。
「……頼むから、せめて上だけでも着てくれ……!!」
「ならば、パンツは脱いでよいということか?」
「そうはならんだろうがああああ!!!!!」
その時だった。
──ぎゅるルルルルルルル……!!
内臓が悲鳴を上げた。
小腸が中でラッシュを仕掛けてくるような凶悪なうねり。
その後、控えめに「ポコッ……」と泡が弾ける音すら聞こえた。
「ハウゥッ!!」
紅之介は膝から崩れ落ち、歯を食いしばり、白目を剥きかける。
視界の端に、なんか見えた。走馬灯っぽい何かが。
夏祭りの屋台、両親の姿、弟の笑顔、etc……
なぜこのタイミングで脳がフラッシュバックを始めるのか。
「ぐっ……ヌオオオオオオッッ!!」
スピカが小首を傾げ、ふわりと髪を揺らした。
「何をしておる。腹から圧力鍋のような死の咆哮を鳴らしおって」
「てめぇ他人事だと思って好き放題言いやがって……!!」
紅之介が絶叫しながら、足をばたつかせる。
「トイレ行きてぇのに……中に誰かいんだよ……!!」
「ふむ?」
スピカがすっと歩み寄り、個室のドアに耳を当てる。
湯気の残る髪が、ほのかに光を反射して揺れた。
「……いいね……いいね……いいね……」
男の声が、確かに中から聞こえてくる。
スピカはすっと顔を上げ、真顔で言った。
「これは──霊か」
その口調は、驚きも焦りもない。
“今日の献立はカレー”くらいのノリだった。
「いかんな。このままでは紅之介が糞之介になってしまう」
「──余計なネーミングつけてる場合か!!」
「いや、味噌之介かもしれぬな。いや、もっと液状ならシチュー之介か……?」
冷静な顔であだ名を考えるスピカに対し、渾身のツッコミ。
「いらねぇぇぇぇっ!! そのシリーズ化やめろぉぉぉぉ!!」
ドアの前。
スピカがトン、トンと控えめにノックした。
「どうしたお主。何か悩みがあると見受けるぞ。
話なら聞いてやらんこともない……この、便意しか脳のない腸内テロリストがな」
「一周回ってただの悪口じゃねーか!! そしてオレの役目かよッ!?」
紅之介がしゃがみこんだ体勢から、腹をさすりながら叫ぶ。
──が、中からは反応なし。
スピカ、ひとつため息をついて、ぽつりと呟いた。
「聞く耳も持たぬか。仕方ないのう……」
そしてどこからともなく、殺虫スプレーを取り出し、
「……は?」
「立てこもりには、これが一番じゃ」
シュッ──
ノズルをドアの隙間にスッと差し込み、まったくの躊躇ゼロ、清々しいまでに無慈悲に噴射した。
──プシュウウウウウ……!!
「うおおぉっ!? 容赦ねぇぇぇぇぇ!!」
白煙がみるみるトイレ内部に充満していく。
そして。
「ゲホッ……ゴホッ……ゴッホゴホッ!! ……ゴハァッ……!!」
男が、トイレの扉をすっ飛ばす勢いで飛び出してきた。
咳き込みながら膝をつき、両手で喉を押さえる。
目は涙と充血で真っ赤、鼻水がだらしなく垂れ、肩はヒクヒクと痙攣している。
「はっ……はぁっ……! ぐぅ……!! お……お前ら……殺す気か……! いや……もう死んでるけどよ……!!」
声はガラガラに枯れ、息は笛のようにヒューヒュー鳴っていた。
現れたのは、三十代半ばの男。
色素が抜けかけたツーブロックに、パーカーとスウェット。
全体的に“コンビニの深夜常連客”みたいな生活感。それでいて──体が透けていた。
輪郭がぼやけ、肩から先は完全に半透明。
その背後には、もやのような霊気が尾を引いている。
「よっしゃああッ!! トイレ空いたぜッ!!」
その瞬間、紅之介が吠えた。
膝から崩れた体勢から跳ね上がるように立ち上がり、スライディング気味にドアノブを回して突入──
──だが彼は冷静さを欠くあまり、大事な事を忘れていた。
「ウゴッ……ゲホッゲホッ……!!」
顔面が爆風を受けたみたいに歪む。
「煙たっ!! ゲホッゲホッ!! ……うっぷ……何この匂い、殺虫剤の臭いが充満してっ……!!」
だが、便座に座った事で、己と意思とは裏腹に身体は次のフェーズに入っていた。
「あっ……ヤベッ……出てきた! ちょ、待っ──まだパンツ下げて……うぉあああああっ!!!」
──ブリュッッ!! ブリブリッ!! ボッ!! ポフッ……プシュウウウ……チュドオオォォン!!!
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──しばらくお待ちください──
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魂とともに、何かが音を立てて解放された。
トイレに響くは、終焉のファンファーレ。
叫ぶ余裕もない。
ただ、終わった。
すべてが、終わった。
スピカがその最期を見届けるように、ふむと頷く。
「──これぞ、風雅なる尻の詩。名付けて──屁ノ調。……うむ、普通に引くわ」
真顔で命名したくせに、感想だけは容赦なかった。
スピカは振り返り、咳き込みながら這い出た男に問いかける。
「で──お主は何者じゃ。何故人んちのトイレに籠城しておった。関心せんのう……今日の受付はとっくに締めとるというのに」
男は涙目のまま、口元をぬぐいながら、ペコリと深々と頭を下げた。
「す、すみませんッ!! 実はどうしても、貴方たちにお願いしたい事があって……!!」
土下座だった。
膝を突く床がスプレーでまだしっとりしているにもかかわらず、顔を上げない。
「他の幽霊たちから、紹介されてやってきました!! 成仏出来ない霊たちの悩み相談に乗っていただける方達って、あなた達の事ですよね?」
スピカが、ひとつだけ、短く息を吐く。
「……ふむ?」
◇◇◇
居間──畳敷きの六畳間。
天井は低く、蛍光灯のカバーがうっすら黄ばんでいる。
古い柱時計がコチコチと間延びした音を立て、壁のカレンダーは二ヶ月前のまま。
季節は秋だというのに、隅には使われていない扇風機と、謎の段ボール箱。
木枠の障子はところどころ穴が空き、外から吹き込む風がカーテン代わりのすだれを揺らしていた。
ちゃぶ台の上には、意味不明なほど山積みにされた梅干し。
陶器の皿に、赤黒く光るそれが、まるで血の儀式の供物のように整然と盛られている。
そのちゃぶ台の前に──スピカがいた。
いつの間にか、彼女は着替えていた。
黒い膝丈のパーカーに、ルーズ気味なニーハイソックス。
湯上がりの髪はまだ湿り気を含み、肩に触れるたびにふわりと微香を立ち上らせる。
彼女は、無言で梅干しを食べていた。
一粒一粒、まるで高級チョコでも味わうかのように、慎重に。
だがテンポは異常に早い。ぶどう食ってんじゃないかって速度で梅干しを次々と口に放り込んでいく。
──すでに十個は消えた。
「夜も遅い。はよ話せ」
口元に赤紫の梅汁をうっすらとにじませながら、スピカが低く言った。
目は据わっていた。語りかけている相手は──生きていない。
「……いや、改めてその、すんませんでした」
「その話はもうええ。本題に入れ」
話の掴みを決める大事なプロローグで、ふざけんじゃねぇよと思った方──
私は正常です(笑)