閑話:待ち続けた想い~ミナとグレンの婚約~
雪がちらつく十二月の午後。私は窓辺で帳簿を整理しながら、何度も外を見ていた。
グレン兄ちゃんが王都から帰ってくる日。
三か月ぶりに会える日。
「ミナ、そわそわしすぎよ」
メイナが苦笑いしながら声をかけてきた。
「別に、そわそわなんて...」
嘘だった。心臓がドキドキして、手が震えていた。
三年前のあの夜。雪見をしながら縁側で交わした約束。
『君が本当の大人になった時、改めて話そう』
『俺は逃げないよ』
あれから、私は必死に勉強した。帳簿管理だけでなく、経済学も、歴史も。グレン兄ちゃんに少しでも近づけるように。
この秋に私は成人式を迎えたし、2月の誕生日で16歳になる。もう十分”大人”だと思う。
(グレン兄ちゃん、ちゃんと約束を覚えていてくれるのかな…)
不安と期待で胸がいっぱいになった時、外で馬車の音が聞こえた。
「帰ってきた!」
年少組の弾んだ声が聞こえて、私は慌てて立ち上がった。鏡で髪を確認して、服装を整えて...
「ミナ、早く行きましょう」
母さんが苦笑しながら、私の背中を押してくれた。
玄関に出ると、グレン兄ちゃんがいた。
王都での生活で、前よりも大人っぽくなった気がする。
「ただいま、みんな」
「「おかえりなさい」」
私は精一杯、自然に微笑もうとした。でも、きっと顔は真っ赤になっていたと思う。
グレン兄ちゃんと目が合った。
「ミナ...ただいま」
優しく私を見つめるその瞳のせいで、胸のドキドキがますますうるさくなった。
***
その夜、フェルナー一家も集まって、久しぶりの食事会になった。
グレン兄ちゃんは王都での研究のことを話してくれた。機密に関わることは言えないけれど、リィナの技術開発に協力していることや、ライル兄と一緒に新しい商会の準備をしていることなど。
「実は、みんなに話したいことがあるんだ」
グレン兄ちゃんが改まった様子で口を開いた。
「魔導製糸機の稼働が安定したら、俺も王都に移住したいと思ってる。商会で技術開発の責任者としてリィナやライル兄に協力したいんだ」
「それは心強いな。グレンはずっと村の産業振興に貢献してくれていた。グレンのお陰で養蚕技術も製糸効率も格段に向上した。正直いなくなるのは痛手だが、その才能を活かして、突っ走りがちなリィナをサポートしてもらえるというなら有難い」
父さんが嬉しそうに頷いた。
ガイル叔父さんも、セラさんも、カイト兄ちゃんもみんな賛成しているようで、食事会は応援ムードに包まれていた。
でも、私の胸は複雑だった。グレン兄ちゃんの成功は嬉しい。でも、また離れ離れになってしまう...
「それで」
グレン兄ちゃんが私を見つめた。
「ミナ、会計担当者として、良かったら一緒に王都へ行かないか?」
「え?」
突然のことで、言葉が出なかった。
「ミナの帳簿管理の腕は、俺の知る中で一番だ。経済学の勉強も頑張ってるし、きっとリィナの新しい商会でも、大きな力になると思うんだ」
みんなの視線が私に向けられている気がする。でも、私にはグレン兄ちゃんしか目に入らなかった。
「それって...」
「ミナさえ良かったら、結婚しよう」
その言葉に、世界が止まったような気がした。
「結婚して、王都でリィナと一緒に商会を支えていこう」
グレン兄ちゃんの声が、とても優しく響いた。
「三年前に約束したね。君が大人になったら、改めて話をするって」
涙がぽろぽろとこぼれてきた。嬉しくて、嬉しくて、胸がいっぱいになった。
「嬉しい」
やっとの思いで声を絞り出した。
「私、行きたい。グレン兄ちゃんと一緒に王都に行って、リィナの力になりたい」
グレン兄ちゃんが立ち上がって、私の前にひざまずいた。そして、小さな箱を差し出してくれた。
「これ...」
箱の中には、美しい指輪が入っていた。シンプルだけれど上品な銀の指輪。中央には、彼のヘーゼル色の瞳によく似た美しい小さな石が輝いていた。
「王都で見つけたんだ。ミナに似合うと思って。その石の部分は魔石で、防御魔法を付与してある」
震える手で指輪を受け取ると、グレン兄ちゃんが優しく私の左手の薬指にはめてくれた。
「ミナ、結婚してください」
「はい」
私は涙でぐちゃぐちゃになりながら答えた。
「喜んで」
その時、みんなの拍手する音が聞こえてきた。母さんが涙を拭いながら、そっと私の肩を抱き寄せてくれた。
「ミナ、おめでとう!」
「ありがとう」
母さんも父さんも、タク兄も、みんな涙を浮かべて喜んでくれた。ガイル叔父さんとセラさんも、嬉しそうに見守ってくれる。
「それで、あなたたち、結婚式はどうするの?王都に移動する前にあげるのかしら?」
「ちゃんとみんなにお祝いしてほしいから、来年の秋市場まで待ちたいと思うんだけど、ミナはどうしたい?」
「私も、それがいいと思う。それまでに引き継ぎとか、商会の準備を整えて、二人で王都に向かいましょう」
「じゃあ、式は九ヶ月後ね。それなら、ドレスの準備がゆっくりできるわね」
母さんが嬉しそうに微笑んだ。
「せっかくだからリィナシルクをたっぷり使って、素敵なドレスを作りましょう」
***
マーヴェル村の冬は真っ白な雪に覆われ、夜でも雪あかりでほんのり明るい。
雪がしんしんと降る、静まり返った庭を見ながら三年前と同じように、私は縁側に腰を下ろした。
今度は一人じゃなく、グレン兄ちゃんと一緒に。
「寒くないか?」
グレン兄ちゃんが優しく声をかけてくれた。
「大丈夫」
指輪をはめた左手を見つめながら答えた。まだ夢を見ているみたい。
「ミナ」
「はい」
「この三年間、本当によく頑張ったね」
グレン兄ちゃんが私の肩にそっと手を置いた。
「俺が王都にいる間も、組合やみんなのことを支えて、自分の勉強も怠らなくて」
「グレン兄ちゃんに追いつきたかったから」
正直に答えた。
「少しでも、グレン兄ちゃんに釣り合う女性になりたくて」
「ミナは十分すぎるほど素晴らしい女性だよ。俺の方がミナに釣り合わないんじゃないかって不安になるくらい」
その言葉に、また涙がこぼれそうになった。
「長い間待たせたな。ずっと俺のこと好きでいてくれてありがとう」
グレン兄ちゃんが私の手を握った。
「一緒にリィナを支えて、一緒に新しい人生を歩んでいこうな」
「はい」
月明かりの中、グレン兄ちゃんの横顔が輝いて見えた。子供の頃からずっと憧れ続けた人。私の初恋の人。
今日からは、私の婚約者。
「ミナ」
「はい」
「愛してる。大切にするよ」
その言葉に、世界中の幸せが詰まっているような気がした。
「私も愛してます、グレン兄ちゃん」
「グレンって呼んでくれ」
「グレン」
雪が舞い踊る中で、私たちは静かに抱き合った。
凍えそうな寒い夜だったはずなのに、お互いの体温で心も身体もポカポカだった。
***
それから式までの間、私は村での引き継ぎ業務の合間を縫って、商会の会計業務を学ぶために必死に勉強した。グレンも村と王都を往復しながら、魔導製糸機の調整や商会の準備に奔走していた。
そんな忙しい毎日が過ぎ、あっという間に、約束の時がやってきた。
私は早起きして食堂に顔を出すと、タク兄がニヤニヤしながらやってきた。
「おはよう、ミナ。いよいよだな」
「おはよう。タク兄。なあに?ニヤニヤして」
「違うわ。喜んでんだよ!」
「そうなの?」
「当たり前だろ!妹の初恋が実ったんだぞ!俺だって陰ながら応援してたんだ!」
「そうだったんだ…ありがと。タク兄」
「おはよう、ミナ。朝食を食べたら支度を始めましょう。とびっきり素敵な花嫁さんに仕上げてあげるわ」
「うん!ありがとう母さん」
秋市場の最終日。洗礼式と成人式が終わると、その年結婚する若いカップルが次々に壇上に上がった。
村の人たちが見守る中、私たちを含む三組の男女が司祭様の前に並んだ。温かい拍手と祝福の言葉に包まれて、胸がいっぱいになった。
私は、母さんと二人で心を込めて仕立てたリィナシルクのウェディングドレスに身を包み、リィナから密かに贈られた魔法糸のヴェールをそっと頭にのせて、グレンの隣に並んだ。
ドレスはシンプルながらも気品あるラインを描き、裾には母さんと一緒に刺繍した銀色の小花が揺れるたびにきらめいていた。陽の光を浴びたリィナシルクのスカートは、やわらかな光沢を放ち、その美しさに、集まった村人たちは目を細めていた。みんなの視線には、ずっと一緒に村を支えてきた若者の晴れ姿を祝うあたたかさと、自分たちの手で育て、紡いだ美しい絹がこうして花嫁を彩っていることへの、深い誇りが宿っていた。
わたしもこのドレスを着て、ここに立てることが本当に嬉しかった。ずっと夢見てきたこの日が、ついに現実になった嬉しさと緊張で、膝がガクガクと震える。このまま倒れてしまいそうだった。
「ミナ、緊張してる?」
「…うん。少し」
緊張しないわけがない。子供の頃からずっと憧れ続けた人と、ついに結ばれるのだから。
「じゃあ、俺につかまって。俺がちゃんと支えてるから」
「グレン...」
「ミナが苦しい時は俺が支える。これからも、こうやって支え合っていこう」
「はい」
胸がいっぱいになった。この優しい人が、今日から私の夫になるのだ。
こんなに幸せでいいのだろうか。…ちょっとだけ不安になった。
***
幸せな心地のまま式を終え、翌朝私たちは王都に向けて出発した。
「行ってらっしゃい」
父さんと母さんが涙を浮かべて見送ってくれる。
「体に気をつけるのよ。リィナのこと、よろしくね」
「はい。母さんたちも、体には気をつけてね」
私は母さんを抱きしめた。育ててくれた感謝の気持ちでいっぱいだった。
「ミナを頼む」
「必ず幸せにします」
父さんとグレンが互いに深く頭を下げ、別れの挨拶を交わす。
「幸せになれよ」タク兄も目を真っ赤にしてグレンと握手を交わした。
馬車に乗り込んで、村を後にすると、窓から見える故郷の景色が、少しずつ小さくなっていった。
「寂しくないか?」
「大丈夫」
心配そうに私の顔を覗く彼の手をぎゅっと握り、わたしは力強く微笑んだ。
「グレンと一緒なら、どこにいても、そこが私の故郷だもの」
王都では、リィナとライル兄が私たちを待っていてくれた。
「ミナ姉ちゃん、グレン兄ちゃん、おめでとう。大好きな二人が来てくれて嬉しい」
「ふたりとも、おめでとう!よく来たな。これからよろしく頼むな」
「リィナ!お待たせ!これからは一緒に頑張ろうね!」
駆け寄ってきたリィナを思いっきり抱きしめた。久しぶりに抱きしめたリィナの背が、私とほとんど変わらなくなっていたことに驚いた。
『ディヴァ・シルク商会』は、王都ヴェルダンの中心街に立派な店舗を構えていた。国家プロジェクトとして特別な素材を扱う国営の商会。ここが、私たちの新しい夢の舞台だ。
「さあ、みんながもっと暮らしやすくなるような商品をどんどん作り出しましょう!」
リィナの勢いに、私たちは顔を見合わせて笑った。
幸せだなって思った。




