閑話:ハンス・ノーブル視点「側近の憂慮」
ラウレンツの側近視点の閑話です。
謁見の間から響く声が廊下まで聞こえてくる。私、ハンス・ノーブルは手を止めて、その方向に耳を傾けた。
ラウレンツ殿下の婚約の申し出。それが受け入れられたのだろう。
「やれやれ...」
私は細いフレームの眼鏡を押し上げながら、深くため息をついた。
乳兄弟で小さい頃から近くで見ていた王子は、いつでも真摯に課題に向き合っていた。勉学、剣術、体術、マナー。やるべきことは果てしなく、友人はいつも終わりがない課題に取り組んでいた。
そして今日、また新しい、そして最も困難な課題を自ら背負い込んだのだ。
「ハンス」
扉が開き、当のラウレンツが現れた。いつもの落ち着いた表情だが、どこか安堵の色が見える。
「お疲れさまでした、殿下」
私は立ち上がって一礼する。
「うまくいったようですね」
「ああ。リィナが受け入れてくれた」
ラウレンツが椅子に腰を下ろしながら言う。その声には、確かな満足感があった。
「それは...良かったです」
私の言葉は、正直なところ複雑だった。
「ハンス、何をそんなに心配している?」
ラウレンツが苦笑いを浮かべる。
「昔から、君の表情は読みやすい」
「申し訳ございません」
「いや、構わない。むしろ、君の率直な意見を聞かせてほしい」
私は少し迷った。しかし、この人の前では嘘をつくことはできない。
「正直に申し上げれば...不安です」
「どの部分が?」
「10歳の平民の少女を王子妃に、というのは前例がありません。宮廷での風当たりは相当なものになるでしょう」
ラウレンツが頷く。
「それは承知している」
「それに」
私は言葉を選びながら続けた。
「殿下ご自身のお気持ちは、いかがなのでしょうか」
「どういう意味だ?」
「マーヴェル村でお会いになってから、殿下はその少女のことをよくお話しになります。まるで...」
「まるで?」
「まるで、心を奪われた方のように」
ラウレンツの頬がわずかに赤らんだ。
「そんなに分かりやすかったか」
「私には、はい」
私たちは幼い頃から一緒に過ごしてきた。母がラウレンツの乳母だったおかげで、私は普通の臣下とは違う距離感で彼を見てきた。
「君は覚えているか?7歳の時、俺が初めて『将来は国のために結婚する』と言った日のことを」
「はい。よく覚えています」
ラウレンツが遠い目をする。
「あの時、君は『それでも幸せになってほしい』と言ってくれた」
「はい」
「今回の婚約は、政略でもあり、リィナを守るためでもある。しかし同時に...」
ラウレンツが言葉を探している。
「俺自身のためでもあるんだ」
私はほっとした。この方は、ちゃんと自分の幸せについても考えるようになったのだ。
「それでは、殿下のお役に立てるよう努めさせていただきます」
「ありがとう、ハンス。実は、頼みがある」
「なんでございましょう」
「リィナの侍女を選ぶ必要がある。信頼できる人物で、かつ彼女と年の近い者がいいのだが...」
私はすぐに思い浮かんだ。
「妹のアリスはいかがでしょうか」
「アリス?」
「15歳です。貴族の令嬢としてのマナーは身についておりますし、何より...」
「何より?」
「私がしっかりと監督できます」
ラウレンツが微笑む。
「君の妹なら安心だ。ただ、アリスは平民出身の王子妃候補をどう思うだろうか」
私は正直に答えた。
「最初は戸惑うでしょう。恐らく、内心では複雑な気持ちを抱くと思います」
「そうだろうな」
「しかし、アリスは根は素直な子です。リィナ様を知れば、きっと心を開くはずです」
「君がそう言うなら、信頼しよう」
ラウレンツが立ち上がる。
「アリスにその旨を伝えてくれ」
「承知いたしました」
扉に向かいかけたラウレンツが、ふと振り返る。
「ハンス、もう一つ頼みがある」
「はい」
「これから2ヶ月間、私は多忙になる。リィナの教育計画、宮廷での立ち位置の調整、そして将来に向けた準備...」
「はい」
「君にも、いつも以上に力を貸してもらうことになるだろう」
私は深く頭を下げた。
「喜んで、殿下」
ラウレンツが去った後、私は再び椅子に座り、これから始まる激動の日々に思いを馳せた。
平民出身の王子妃。前例のない挑戦だ。
宮廷の保守派からの反発、他国からの注目、そして何より、まだ10歳の少女が背負うことになる重圧。
しかし、マーヴェル村から戻ってきた時のラウレンツの表情を思い出す。あれほど生き生きとした彼を見たのは久しぶりだった。
技術革新への情熱、家族への愛情、そして困難に立ち向かう勇気。リィナという少女には、確かに人を惹きつける何かがあるのだろう。
「アリス...」
私は妹のことを考えた。プライドが高く、時として頑固な性格の彼女が、平民出身の主人に仕えることをどう受け止めるだろうか。
しかし、これも成長の機会かもしれない。真の貴族とは血筋ではなく、人格によって決まるのだということを、アリスにも学んでもらえれば。
私は羽根ペンを取り、今後の予定表を書き始めた。
淑女教育のカリキュラム、マナー指導の講師選定、宮廷での人間関係の調整...やるべきことは山積みだ。
しかし、不思議と重荷には感じられなかった。
幼い頃から見てきたラウレンツが、ついに自分の幸せを掴もうとしている。その手助けができるなら、どんな困難でも乗り越えてみせよう。
「殿下、今度こそ本当の幸せを掴んでください」
窓の外では、王都の夕日が美しく輝いていた。新しい時代の始まりを告げるように。




