第三十六話 都市の風、絹の匂い
十一月の朝。
マーヴェル村は霜に包まれ、桑の木々も冬支度を始めていた。
ライル兄ちゃんが旅立ってから、2年。
私は8歳半になっていた。
わたし達の養蚕業は、近隣農家も巻き込み、順調に規模を拡大。
この秋の市場での成功で、組合はますます忙しくなっていた。
「リィナー!大変だー!」
裏庭の小屋で帳簿をつけていると、タク兄の大きな声が響いた。
「どうしたの?」
「カイト兄ちゃんから連絡が来た!都市の職人組合からすごい話が来てるって!」
私は帳簿を置いて、急いでタク兄の後を追った。 居間には、父さん、母さん、ミナ姉ちゃん、それにカイト兄ちゃんが集まっていた。 みんな、なんだか興奮した顔をしている。
「リィナ、聞いてくれ」 カイト兄ちゃんが手紙を手に振り返った。
「俺の元修行先——ヴェルダンの職人組合から正式な取引の申し出が来たんだ」
「取引って?」
「家具装飾用の絹糸として、俺たちの糸を使いたいって」
「家具装飾用?」
カイト兄ちゃんが説明してくれた。 都市の高級家具には、美しい絹糸で装飾を施すものがあるらしい。 今まではよその国から輸入した糸を使っていたけど、私たちの糸の方が品質が良いって評判になったんだそうだ。
(前世で言うところの、タペストリーとか椅子やソファの張地みたいなもんかな)
「それだけじゃない」 父さんが別の手紙を取り出した。
「パスカさんからも連絡があった。マルコさんを通じて、別の商会からも引き合いがあるらしい」
私は心臓がドキドキした。 嬉しい反面、なんだか怖くもある。
「……すごいことになってるんだね」
「ああ。でも、リィナ、これで大きな問題も出てきた」 父さんの表情が急に真剣になった。
「問題?」
「取引量だ。今までの何倍もの糸を求められてる。本当に対応できるのか、慎重に考えなければならない」
「どこまで規模を広げるか、どんな取引を受けるか……お前の意見を聞かせてくれ」
私は急に息苦しくなった。
「私の意見でいいの? 」 不安が口からこぼれた。
父さんが優しく私の肩に手を置いた。
「ああ。みんなで相談して決めることにはなるが、お前が始めたことだ。お前の意見をまずは聞きたい」
ミナ姉ちゃんも頷いてくれた。
「リィナなら大丈夫よ。今までだって、正しい判断をしてきたもの」
タク兄も笑った。
「そうそう。俺たちも一緒に考えるから、心配するな」
その言葉に、少しだけ安心した。 でも、まだ胸の奥に重たいものが残っていた。
「それじゃあ、まずは詳しい条件を聞いてみよう」 私は決心して言った。
「カイト兄ちゃん、職人組合の人たちと話をしてもらえる?」
「もちろんだ。明日にでも返事を出そう」
数日後、 カイト兄ちゃんが職人組合の返事を持ってやって来た。
「どうだった?」 私は息を弾ませて聞いた。
「思った以上にすごい話だったぞ」 カイト兄ちゃんが興奮気味に答える。
「向こうも本気だ。年間契約で、今の三倍の量を求めてる」
「三倍……!」 みんなが驚いた。
「でも、それだけじゃない」 カイト兄ちゃんの表情が曇った。
「実は、問題も起きてる」
「問題?」
「偽物が出回り始めたんだ」
その言葉に、居間の空気が一気に重くなった。
「偽物って……まさか」 ミナ姉ちゃんが震える声で言った。
「ああ。『リィナシルク』と称する糸が、ヴェルダンの市場に出回ってる」
「でも、品質は全然違う。粗悪品だ」
私は頭が真っ白になった。 私たちの名前を使って、偽物を売ってる人がいる。
「ひどい……」 涙が出そうになった。
「私たちの努力を踏みにじってる……」
父さんが冷静に言った。
「感情的になってもしかたない。対策を考えよう」
「対策って?」
「品質保証の仕組みを作るんだ」
カイト兄ちゃんが頷いた。
「職人組合の人たちも同じことを言ってた」
「正規品と偽物を区別できるような印をつけて、お客さんにわかってもらう」
「印?」
「そう。俺たちだけが知ってる特別な印を糸に付けるんだ」
ミナ姉ちゃんが手を挙げた。
「それなら、私の帳簿管理が役に立つかも」
「どの糸を、いつ、誰に渡したか、全部記録してるの」
私は目を輝かせた。
「そうだ!ミナ姉ちゃんの記録があれば、正規品の証明ができる!」
父さんも感心した。
「なるほど。記録の精度が証明書作成の根拠になるな」
と、その時、表の通りから足音が聞こえてきた。
見知らぬ男が、門の前に立っている。
「どちら様ですか?」 父さんが外に出て声をかけた。
「マーヴェル村で絹糸を作ってるという話を聞いて参りました」
男は愛想よく笑った。
「私、ベルニスと申します。絹糸の取引をさせていただきたく」
私は何となく嫌な予感がした。 この人、どこか怪しい感じがする。
「申し訳ありませんが、新規の取引は現在お断りしております」
父さんが丁寧に答えた。
「そんなことを言わずに。とても良い条件を提示させていただきますよ」
男の人はしつこく食い下がる。
「それに、お宅の『リィナシルク』、都市でとても評判になってますねえ」
その言葉に、私はぞっとした。
タク兄が私の隣に立った。
「リィナ、あいつ怪しくないか?」
「うん……偽物の件を知ってるみたい」 私は小声で答えた。
結局、父さんがきっぱりと断って、男の人は帰っていった。
でも、その後ろ姿を見送りながら、私は不安になった。
「また来るかもしれないね」
「ああ。気をつけなければならないな」
その夜、家族会議が開かれた。 偽物対策と、新しい取引への対応を話し合うためだ。
「まず、品質保証システムを作ろう」 と私は提案した。
「ミナ姉ちゃんの記録を基に、正規品だけに特別な印をつける」
「それから、正規代理店制度も検討した方がいいかも」 カイト兄ちゃんが付け加えた。
「信頼できる商人だけと取引して、品質を守る」
「でも、そうなると取引先が限られるな」 父さんが考え込んだ。
「それでもいいと思う」 私は言った。
「量より質。私たちの糸の価値を守ることの方が大事」
「なるほどな」
ミナ姉ちゃんが記録帳を見せてくれた。
「記録の精度なら自信があるわ。これで証明書も作れる」
みんなが頷いてくれた。
新しい挑戦への期待と不安が、胸の中で渦巻いていた。
翌週、パスカさんが村を訪れた。 都市での状況について詳しく説明するためだ。
「偽物の件、すでに対策を始めてる」 パスカさんが真剣な顔で報告した。
「でも、思った以上に深刻だ」
「どのくらい深刻なんですか?」 私は不安になって聞いた。
「市場の三割近くが偽物だと思われる」
「そんなに……」
「しかも、悪質なのは価格だ」 パスカさんが続けた。
「本物の半値で売ってるから、お客さんも騙されやすい」
タク兄が怒った。
「ふざけんな!!」
「落ち着け、タクマ」 父さんが宥めた。
「でも、良いニュースもある」 パスカさんが少し笑った。
「品質の差は歴然としてる。一度本物を使ったお客さんは、もう偽物には戻らない」
「それに、職人組合や織物ギルドも協力してくれることになった」
「本当ですか?」
「ああ。君たちの糸の価値を認めてくれてる」
「だから、正規代理店制度の件も了承してもらった。品質を保証するためには必要だってことで組合もギルドも意見が一致した」
私は胸がいっぱいになった。 辛い状況だけど、私たちを支えてくれる人たちがいる。
「それで、リィナ」 パスカさんが私を見た。
「お前さんに相談がある」
「なんですか?」
「お前さん自身が都市に出向いて、直接お客さんや商人たちに会ってみないか?」
「え?私が?」 私は驚いた。
「そうだ。お前さんが『リィナシルク』の生みの親だということを、みんなに知ってもらいたい」
「この”糸”の背景や名前の由来、そしてリィナ本人を知れば、より深く"本物"を理解してもらえると思うんだ」
私は迷った。 都市に行くなんて、考えたこともなかった。
「でも、私まだ子どもだよ。返って信用してもらえないんじゃないかな……」
「大丈夫だ」 パスカさんが優しく言った。
「お前さんがいつも通りに話せば、きっとみんなわかってくれる」
その夜、家族でよく話し合った。
「リィナ、お前はどうしたい?」 父さんが聞いた。
私は正直に答えた。
「怖いけど……やってみたい」
「私たちの糸の価値を、ちゃんと伝えたい」
「でも、一人で行くのは心配だな」 タク兄が言った。
「俺も一緒に行こうか?」 カイト兄ちゃんが提案してくれた。
「いや。俺が一緒に行く。流石に8歳の娘を一人放り出すわけにはいかん」
父さんも提案してくれた。
「それより……」
私は少し考えてから言った。
「ミナ姉ちゃんも一緒に来てもらえないかな」
「え?私?」 ミナ姉ちゃんが目を丸くした。
「うん。記録のことや品質管理のこと、ミナ姉ちゃんの方が詳しいもの」
「それに、一人より二人の方が心強い」
ミナ姉ちゃんが頬を赤くした。
「でも、私なんかで役に立つかな……」
「立つよ!」 私は力強く言った。
「ミナ姉ちゃんがいなかったら、私一人じゃ何もできなかった。ありがとう」
その言葉に、ミナ姉ちゃんの目が潤んだ。
「リィナ……」
「じゃあ、父娘三人で行くってことで決まりだな」 父さんが笑った。
次の日から、都市行きの準備が始まった。
パスカさんが段取りを組んでくれて、来月の初めに出発することになった。
品質保証システムの準備も進んだ。
ミナ姉ちゃんが作った記録を基に、証明書のひな型を作る。
正規品にだけつける特別な印も、カイト兄ちゃんが考えてくれた。
「これで偽物対策はバッチリだな」 タク兄が満足そうに言った。
でも、私はまだ少し不安だった。 本当に、都市の人たちに私たちの想いが伝わるだろうか。
その日の夕方、私は一人で桑畑を歩いていた。
冬の風が頬を刺すけど、桑の木々はしっかりと根を張っている。
(この木たちみたいに、私も強くならなきゃ) (みんなの努力を、絶対に無駄にしない)
そのとき、後ろから足音が聞こえた。 振り返ると、ミナ姉ちゃんが立っていた。
「リィナ、一人で考え込んでたでしょ」
「ミナ姉ちゃん……」
「大丈夫よ。みんなで力を合わせれば、きっとうまくいく」 ミナ姉ちゃんが私の手を握った。
「それに、私もリィナと一緒なら怖くない」
「お互い様ってことだね」
私は笑った。
「そうだね。二人で頑張ろう」
家に帰ると、家族みんなが温かく迎えてくれた。 タク兄は「土産話、楽しみにしてるからな」と笑い、 母さんは「何か欲しいものがあったら遠慮しないで」と優しく言ってくれた。
その夜、布団に入りながら、今日一日を振り返った。
(大きな決断をするのは怖い) (でも、みんなが支えてくれるから頑張れる)
窓の外で、冬の風が桑の葉を揺らしている。 私たちの糸のように、強く、美しく。
(都市で、たくさんの人に会うんだ) (私たちの想いを、ちゃんと伝えよう)
新しい挑戦への期待と不安を胸に、私は静かに眠りについた。
みんながいる限り、どんな困難も乗り越えられる気がした。
私たちの絆は、きっとどんな糸よりも強いのだから。




