第三十一話 選ぶべき道と、迫る影
王都の魔法学校への推薦状が届いた。
十月、初旬。
朝晩の空気が冷たくなり、村の畑も少しずつ秋色に染まり始めていた。赤く色づいた野の葉が風に舞い、桑畑にも静かな変化の兆しが見え始めている。
(あっという間に、秋になったんだな……)
私は小屋横の木を見上げた。
夏の間、ずっと私たちを支えてくれた“特別な木”。今も静かに葉を揺らしている。
でも、その穏やかな風景の中で、ひとりだけ——。
「……どうするつもりなんだ、グレン」
グレン兄ちゃんは、ずっと黙っていた。
あの“洗礼式”から数日が過ぎたけれど、彼はまだ何も言わない。魔法学校の推薦状には、“今月末までに手続きを”と書かれていた。
あと、約一ヶ月。
それまでに答えを出さなきゃいけない。
「グレン兄ちゃん、最近、ちょっと元気ないよね」
「そうだね……ずっと何か考え込んでる」
ミナ姉ちゃんが心配そうに小屋の隅で様子を伺っていた。
「魔法学校、行きたい気持ちがないわけじゃないと思う。でも……」
「私たちのこと、この産業のこと、いっぱい考え込んじゃってるもんね」
「そうだね。グレン兄ちゃんって、何でも一人で抱え込むタイプだから」
私たちの視線の先では、グレン兄ちゃんが蚕棚の湿度を確認していた。記録帳に細かい数字を書き込んでいるけど、その手はどこか鈍く、気持ちがこもってないように見えた。
(このまま、悩んでばかりじゃ——)
でも、何も言えなかった。
今の私には、“行ってきて”と背中を押す勇気も、“ここにいて”と引き止める資格もない気がして。
***
その日の夕方。
「……出かけてくる」
グレン兄ちゃんが一言だけ言って、小屋を出ていった。
私はこっそり、後を追った。グレン兄ちゃんが向かったのは、自宅の作業場。
ガイルおじさんが大きな材木を削っていた。
「よう、グレン。どうした」
「……父さん。少し、話があるんだ」
ガイルおじさんは手を止め、ノミを置いた。
「座れよ。何か飲むか?」
「……水でいい」
「贅沢だな。ここにはリンゴ酒しかないぞ」
「……未成年だ」
ふたりが微かに笑った。そのあとは、しばし沈黙。
グレン兄ちゃんは、目を伏せたまま口を開いた。
「魔法学校の推薦状が来た」
「ああ、聞いた」
「でも……まだ決められない」
「そうか」
「俺がいなくなったら、養蚕の記録も温湿管理も、支援隊の統率も、全部混乱すると思う。タクマやライル兄たちがいてくれるのは心強いけど、それでも……全部、任せられるかって言われたら、わからない」
グレン兄ちゃんの声が、微かに震えていた。
「お前は、どうしたいんだ?」
その問いに、彼は黙った。
「行きたいのか? 行きたくないのか?」
「……わからない。魔法っていう未知の力を学べるのは、正直、魅力だ。それが誰にでも与えられるチャンスじゃないってこともわかってる。でも、みんなのことも、この産業のことも、大切なんだ。どっちかを選ぶなんて、できない……」
ガイルおじさんは、しばらく黙っていた。
やがて、大きな手で、グレン兄ちゃんの肩をぽん、と叩いた。
「お前は、俺よりずっとしっかりしてる。ガキのころから、何でもよく見て、気づいて、考えてきた」
「……」
「けどな。だからって、お前が何もかも全部抱える必要はないんだ」
「父さん……?」
「仮に、お前が魔法学校にいくことになったって、この産業のことは残った奴らでなんとかするさ」
「だから、お前はお前のやりたいことをやれ。それが“魔法学校に行くこと”なら、俺たち家族はそれを全力で応援する。逆に、ここに残ることが“お前の本当の望み”だっていうなら、それもまた立派な選択だ。誰にも文句なんて言わせねえ」
「……ありがとう、父さん。もう少し、考えてみる」
「ああ、そうしろ。しっかり悩め。悔いのないようにな」
「本当の望み、か……」
グレン兄ちゃんは、ようやく顔を上げた。
***
その夜。
私は窓の外を見つめながら、小さくため息をついた。
広場の方から、かすかに風の音が聞こえる。
(グレン兄ちゃん、ちゃんと眠れてるかな……)
そのときだった。
――バンッ!
小屋の方から、木が割れるような音が響いた。
「な、何の音!?」
ミナ姉ちゃんが跳ね起き、私もびっくりして飛び上がった。
「二人とも!起きろ!小屋の方から不審な音が聞こえたぞ!」
父さんとタク兄が寝巻きのまま飛び出した。
私たちもすぐに外履きを引っかけて、懐中のランタンを手に、小屋の方へ駆け出した。
(まさか、風で何か倒れた? でも、あの音は……)
遠くで誰かの足音が聞こえる。
不吉な気配が、秋の風に乗って近づいてくるような気がした。
「小屋の扉が……!」
ミナ姉ちゃんの声が裏庭に響いたとき、私はすでに蚕小屋の方へ走り出していた。
(まさか、火事!?違う、火の匂いはしない。なら、何!?)
息を切らしながら駆けつけると、薄暗がりの中、明かりの灯った小屋の前に黒い影がひとつ、父さんと揉み合っていた。
「だ、だれっ!?」
私が叫ぶと、その影はぴくりと動き、こちらを一瞥する。
そして何も言わず、父さんを殴りつけ、村の外れに向かって駆け出した。
「待て!」父さんも必死で追おうとするが、体勢を崩していて上手く立ち上がれない。
「誰か!だれか来て!!」
私は叫びながら追いかけた。夜風が頬を打ち、足がもつれそうになるのを必死にこらえながら。
(あれは、記録帳!?それに繭も?……まさか、盗もうとしてる!?)
「やめて!!返して!!」
私の声に、その人物は驚いたように振り向く。黒い頭巾にマスク。顔は見えなかった。
「お願い!返して!!それは大切なものなの!!!」
私は飛びつこうとした。けれど、体が小さすぎる。男は軽く私を避け、そのまま走り去ろうとした。
「やめてってばあああっ!!」
そのときだった。
「誰だっ!!」
野太い声が闇を裂いた。
走ってきたのは、青年団の兄さんたち数名と、タク兄、それにグレン兄ちゃんとカイト兄だった。
「助けて!その人が、蚕と記録帳を盗もうとしてる!!」
私が叫ぶと、カイトが一直線に飛びかかり、男に組みついた。
「くっ……!」
「逃がすかああっ!!」
タク兄が脇から回り込む。
だが、男の動きは速かった。
足元の繭カゴを蹴り飛ばし、散らばるカゴの間をすり抜けるように、するりと身をひねって逃走。
「まてっ……!」
グレン兄ちゃんが飛び出すも、男は裏口の小さな柵を飛び越え、畑の奥へと闇に紛れて消えていった。
「くそっ……!」
「誰だ、あいつ……?」
「まさか、パスカさんの忠告が本当になるなんて……」
肩で息をする兄たちの中、私は崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。
(怖かった……。でも、記録帳、盗られなかった……)
そのとき、そっと背中に手を置いてくれたのは、グレン兄ちゃんだった。
「リィナ、大丈夫か?怪我とかしてないか?」
「うん……うん……!」
私はその場でぼろぼろと涙をこぼした。
「…怖かった。怖かったよお、グレン兄ちゃん」
「よしよし。もう大丈夫だ。大丈夫だからな」
グレン兄ちゃんが優しく抱きしめてくれた。
***
「それにしても、狙いが明確だったな」
小屋に戻ったカイトが、倒れた棚を起こしながら言った。
「蚕と……記録帳。つまり、養蚕技術そのものが目的か」
「つまり……わたしたちのこの産業を、そのまま盗もうと……?」
ミナ姉ちゃんが震える声で言う。
「村中が一つにまとまって、ようやく形になってきたところなのに……!」
「それだけ、俺たちの作る"糸"に価値があるってことだ」
タク兄が静かに言った。
「リィナシルク、マーヴェルの糸、秋市場での成功、王都での評判……誰かがそれを見て、奪ってやろうって思ったんだ。クソっ!俺たちの努力を何だと思ってやがる!!」
「……」
グレン兄ちゃんが、記録帳を抱えたまま、ぽつりと呟いた。
「こんな時に、俺が王都なんかに行っていいのか……?せっかくここまで育てた産業が狙われるような状態で、みんなをおいて俺がここを離れたら——」
「グレン」
その言葉をさえぎったのは、カイト兄だった。
「お前は、全部を一人で抱え込みすぎだ」
「……!」
「何でもかんでも、自分がやらなきゃダメだって思うな。確かに、お前の支えでここまで来れた。だが、いまこの村には俺もいるし、父さんも、他の大人達だっている。記録帳だって、誰かが代わりに預かれる。グレン、お前だけが背負う責任じゃない」
「兄貴……」
「……なあ、リィナ」
カイト兄が、ふと私の方を見た。
「もし、この先、もっと養蚕の精度を上げて、蚕を守れる道具があるとしたら、興味あるか?」
「えっ……あるに決まってるよ!!」
「だよな」
グレン兄は、ニッと笑った。
「なあ、グレン。魔道具って、知ってるか?」
「……魔道具?」
「修行先の工房で見た。温湿度の制御や、保存環境の維持、いろんな魔道具がある。魔法学校には、そういう技術を学べる授業もある」
「まさか……」
グレン兄ちゃんの顔色が変わった。
「お前が学ぶ”魔法”が、ただの魔法じゃなくて、”技術”に結びつけば、それはこの産業の武器になる」
「”魔法”と”技術”を結びつける?……それで、蚕の管理がもっと精密にできるようになる……のか!?」
グレン兄ちゃんの目が、一気に輝きを取り戻した。
「そうだ。蚕の命を守るための魔道具を作る。それができるのは、今のところ、この村でお前だけだ。
だから、グレン、魔法学校へ行ってこい。後のことは俺に任せろ。このお兄様が、お前の分までしっかり働いて、お前が戻る頃にはこの産業を何倍にも大きくしといてやるよ!」
私は胸がいっぱいになった。
(グレン兄ちゃん、カイト兄ちゃん……)
迷っていた扉の先に、ようやく”光”が見えた気がした。
そして、その光は——
まっすぐ、未来へと続いているように思えた。




