第二十八話 兄の帰郷と、始まりの布
九月中旬。
風の中に、ほんの少しだけ秋の香りが混じりはじめていた。
裏庭の小屋では、グレン兄ちゃんと父さんが最後の荷運びを終えたところだった。
作業台の上には、パスカさんに渡す追加で出来上がった糸が並べられていた。
「よっと。この箱で最後だ。あとは本人が来るのを待つだけだな」
「予定では午前中には着くって話だったよね?」
グレン兄ちゃんがうなずく。
「おーい、来たぞー!」
門のほうからタク兄の大きな声が響いた。
私は思わず飛び出した。
門の前に停まっていたのは、あの見覚えのある馬車。そして、その隣に立っていたのは――
「パスカさん!」
「おう、元気そうだな、リィナ」
パスカさんが笑顔で手を振る。
けれど、そのすぐ後ろ。馬車の荷台から降りてきた、背の高い男の人に、私は目をぱちくりとさせた。
グレン兄ちゃんが硬直する。
「……兄貴!?」
「よっ!久しぶりだな、グレン」
それは、グレン兄ちゃんによく似た、でももう少しだけ精悍な顔つきの青年だった。
グレン兄ちゃんは一瞬ぽかんとしていたけれど、すぐに顔をほころばせて兄に駆け寄った。
「なんだよ、急に!一言くらい言ってくれれば……!」
「サプライズってやつだ。驚いたか?」
「……そりゃもう!」
「すまんすまん。元々戻るのは今月末になる予定だったんだが、急遽パスカさんに拾われて、一緒に帰ってきたんだ」
「そうなんだ。元気そうで良かったよ」
「あ、そうだ!リィナは会うのは初めてだったよな?
こいつは俺の兄で、名前はカイト。ちょうどリィナが生まれた頃、街に修行に出たんだ」
「カイトだ。今日からまた、家業を手伝う予定だ。よろしくな」
「リィナです。グレン兄ちゃんにお世話になってます。4歳です」
「…しっかりしてんな。本当に4歳か?」
「あはは。久しぶりに言われたなあ、リィナ。でも、本当に4歳だよな」
「そうなのか。は〜最近の4歳はすごいな」
二人のやり取りに、私も思わず笑ってしまった。
(グレン兄ちゃん、なんだかすごく嬉しそう……)
***
居間に通されたパスカさんは、手土産代わりに大きな布包みを開いた。
「さあて……これが、織り上がった”布”たちだ」
ぱさり、と広げられたその布は、見た瞬間に息をのむほどの美しさだった。
「これが……リィナシルク……?」
「ああ、そうだ。これが”リィナシルク”を使った反物だ」
パスカさんが誇らしげにうなずいた。
白く光る絹布は、光の角度によって淡い琥珀色を帯びたり、きらきらとした煌きを放ったりする。
「うわぁ……」
ミナ姉ちゃんが感嘆の声を漏らす。
「触ってみてもいい?」
「どうぞ。売り物じゃなくて見本用だからな」
パスカさんが頷く。
私はそっと指を滑らせた。
(……やわらかい。なのに、しっかりしてる)
「ほかにも、混合糸で織ったものと、通常糸のものもあるぞ」
そう言って取り出された2枚目と3枚目の反物は、たしかにリィナシルクほどではないけれど、上質でしっとりとした手触りがあった。
「どれも素敵……」
「色味はこっちの方がナチュラルで、普段着にも合いそうだよね」
女性陣が口々に感嘆の息を吐く。
「……これで、洗礼式の服を作ったら、きっと素敵だろうなあ」
ミナ姉ちゃんも、うっとりとした表情で反物をそっと撫でた。
「さて、ここからが本題だ」
パスカさんが少し姿勢を正した。
「この三種類の糸は、それぞれ販売先を分けて展開しようと思う」
「都市向けには、リィナシルクと混合糸。
この辺りで開催する秋市場では、この通常糸をメインに売ってみようと思う」
「都市向けに、特別なものを。地元には、手に取りやすくて確かな品質を」
「その通り。どちらも、第一印象が大事だ」
カイトが横から静かに口を挟む。
「都市の織師の間でも、リィナシルクの評価はかなり高い。
けれど……名前も技術もない地方の新興ブランドは、初手を誤ると信用を落とすこともある。
今回は”品質”と”物語”の両方を伝えられるよう、展示や販売方法にも気を配るつもりだ」
「物語……」
私は思わずつぶやく。
「そう。あの糸が、どうやって生まれたのか。
どんな苦労や工夫があったのか。それを伝えることで、”糸”が”作品”になる」
パスカさんの言葉に、居間の空気が静かに熱を帯びていった。
(私たちの糸が、今、”物語”になろうとしてる)
その瞬間、心の奥にぽっと灯がともった気がした。
午後の陽光が和らぎはじめたころ、裏庭の作業台には、三種類の布見本と糸束が丁寧に並べられていた。
特製タグを取り付けた布は、「リィナシルク」「混合糸」「通常糸」と、それぞれ明確に分類されている。
「並べて見ると壮観だな」
パスカがそう呟き、試供用に小さく切った「リィナシルク布地」を光にかざした。
「これだけの品質なら、貴族向けの高級布として十分通用する。いや、それどころか、”特別な名前がある糸”という概念自体が革新的だ」
「この前話してた”ブランド化”……ってやつ?」と私が言うと、パスカがにやりと笑った。
「その通り。そしてその”顔”となる商品が、ここに揃ってるわけだ」
「それで……」と父さんが切り出した。「秋市場ではどう売っていくんだ?」
「そうだな、あまりにも高級なものは地元市場じゃ売れねえ。そいつらは都市の貴族向けだ。地元では、通常糸の布と糸。それと、小束の混合糸を出そう。価格は少し抑えて、そのぶん”使いやすくて品質がいい”というアピールを徹底する」
「名前はどうするの?全部”リィナシルク”ってわけにはいかないよね」
ミナ姉ちゃんの質問に、パスカさんはうなずいた。
「地元向けには、”マーヴェルの糸”という呼称を検討中だ。このマーヴェル村の産地直送感と親しみやすさを重視している」
「なるほど……」タク兄が感心したようにうなずく。
「俺たちが作ったって伝わる名前だな」
「展示台や値札、商品の説明書きも必要だね。売り場の前に貼っておくパネルみたいなの」とミナ姉ちゃん。
「じゃあ俺、説明パネル描くよ!」とタク兄が張り切ると、グレン兄ちゃんが苦笑する。
「字が読めるようになってからな」
「な、なんだとー!?」
一同が笑いに包まれるなか、カイトが控えめに提案した。
「実際に作業を手伝った子どもたちにも、一部交代制で店頭に立ってもらってはどうだ?
現場の声が聞ける良い機会になるし、客も面白がると思うぞ」
「いいね!販売体験なんて、ちょっと大人になった気分になれるかも!」とミナ姉ちゃんがにこにこする。
そのとき、私の肩にぽんと手が乗せられた。パスカさんの手だった。
「リィナ、お前がはじめて”蚕を育てて糸を取る”って言い出したとき、正直、ここまでになるとは思わなかった。でも今は確信している。この糸は、この村の未来を変える。ひょっとしたら、この国の未来も変わるかもしれん」
「……うん」
「わかってるのか?どえらいことなんだぞ!俺が投資を決めた時、”村の産業”になればいい、と、確かに考えた。だがな、そんな可愛いレベルじゃない。下手したら”国を代表する産業”に育つかもしれん。今が、その第一歩だ」
私はぎゅっと胸に手を当てた。
「絶対、成功させたい」
「成功するさ。なぜなら、”本物”だからだ」
その一言に、全員が静かにうなずいた。
「よし、それじゃあ明日は市場のブース設営に出発だな」
「俺、繭仕分け台持っていく!」
「私はタグ付け手伝う!」
「俺は値札と説明書きを書く!」
それぞれが声を上げる。
(いよいよだ)
秋市場への準備は、着々と、そして確かに進んでいた。
夕暮れが村を包みはじめたころ、裏庭の小屋にほど近い縁台では、グレンとカイトの兄弟が並んで腰掛けていた。
空にはまだ夕焼けの名残があり、桑の葉が風に揺れて、心地よいざわめきを奏でている。
「……すごい一日だったな」
グレンがぽつりと呟いた。
「だな」
カイトは短く答え、両膝に肘をのせて前屈みになった。
しばらく無言の時間が流れる。
「でもさ」
不意にグレンが口を開いた。
「……俺、やっぱりまだまだだと思う」
カイトが眉を上げる。
「なんだ、急に」
「兄貴みたいに、町で修行して、人に認められて、技術もあって……俺なんか、ここでただ、自分のやれることをやってるだけで……大したことなんて、まだ何一つ成し遂げてない気がしてさ」
カイトは、静かに笑った。
「お前……ホント昔から真面目すぎるんだよな」
「え?」
「いいか、グレン。俺がすごいとか、成し遂げたとか……そんなもんは後づけだ。俺だって、最初は”何かになりたい”って気持ちだけで動いてた」
「でも、それって……」
「でもな」
カイトはグレンの肩を軽く叩いた。
「お前は”始めた”んだよ。誰もやったことのないことを、ここで。蚕を飼って、桑を育てて、糸を取り、そして”特別な糸”を作った。これはすごいことだ。俺は、それを手伝うために帰ってきたんだ」
グレンが言葉を失ったように、兄の顔を見る。
「……そういえば、帰ってきた理由、聞いてなかったよな」
カイトが小さく息をついた。
「都市で、パスカさんから聞いたんだ。”リィナシルク”のこと。小さな村で始まった、名前を持つ糸の話。その裏には、蚕の管理や技術の工夫があるって聞いた時――ビビッときたんだよ」
「……ビビッと?」
「うるさい」
カイトが照れくさそうに笑い、グレンもつられて笑った。
「俺は、道具を作るのが好きだ。でもそれ以上に、誰かの助けになる道具を作るのが好きなんだ。だったら、”家族の仕事”を支えるのが一番いいって思ったんだよ」
「……家族の仕事」
「そうだ。お前が始めたこの蚕の仕事、糸の産業は、もうお前たちだけのものじゃない。俺たち家族のものであり、村のものでもあり、やがてはもっと大きなものになっていく。それに関わりたかった。それが俺の本音だよ」
グレンがしばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう、兄貴」
「いいってことよ」
縁台の下で、小さくコオロギが鳴いた。
***
翌朝。
市場の設営に向けて、裏庭は朝からにぎやかだった。
「よーし、蚕の繭見本、タグ付き糸束、布のサンプル、全部荷車に積み込み完了!」
タク兄が声を張る。
「ブース用の布、展示台、説明パネルもある!」
ミナ姉ちゃんが記録帳を片手に走り回っている。
「グレン、糸の状態は?」
「問題なし。輸送中に崩れないよう、詰め方も工夫してある」
「よっしゃー、いよいよ秋市場だな!」
カイトが荷車を軽く叩いた。
「準備は万端。あとは気合いだけだ」
「うん!」
リィナが両手を握りしめて叫ぶ。
(あの日、前世の記憶を思い出し、蚕と桑を集めて飼い始めると決めた時は、まさかこんなにも早く商品化が叶うなんて、思ってもみなかった)
(でも――今は)
風が吹き抜けた。
マーヴェル村の空に、秋の気配が漂っていた。
(女神さま、どうかわたし達の”糸”が、たくさんの人に受け入れられますように…)
そして、いよいよ――
未来をつかむ秋市場が、始まろうとしていた。




