第二十七話 特別な糸と、秋へのはじまり
八月の終わりが近づいたある朝。
空気はまだ夏の名残を含んでいるけれど、ほんの少し、風が軽くなっていた。
私は蚕棚の前で、小さく深呼吸した。
「今日、来るんだよね……」 胸の奥がそわそわして、じっとしていられない。
「おはよう、リィナ!」 ミナ姉ちゃんが記録帳を抱えてやってきた。
「もしかして、もうドキドキしてる?」
「う、うん……だって、今日はパスカさんが糸を受け取りに来る日だよ!」
「大丈夫。あの糸、絶対にパスカさんも驚くよ」 ミナ姉ちゃんが優しく笑ってくれる。
私は少しほっとして、蚕棚に目をやる。
小屋の中には、きちんと仕分けされた繭と、すでに紡ぎ終わった糸束が箱に詰められていた。
***
裏庭の作業台では、グレン兄ちゃんが父さんと一緒に最後のチェックをしていた。
「リィナシルクが6束、混合糸が10束、通常糸が16束……品質ラベル、採取日、配合率、全部確認済み」
「よし。これでいつ来ても大丈夫だ」
「おはよう、みんなー!」 元気な声とともに、タク兄が登場。
「運搬係は俺に任せてくれ!」
「ハハ、張り切ってるな。頼りにしてるぞ」 父さんが笑う。
私は木箱のひとつをそっと抱えようとして、ふらりとよろけた。
「うわっ……」
「リィナ、大丈夫か?」 グレン兄ちゃんがすぐに支えてくれる。
「だ、大丈夫。ちょっと緊張してるだけ!」
「まあ、無理もないさ」 タク兄がにやにやしながら言った。
「今日がどれだけ大事な日か、誰よりもわかってるもんな」
私は大きくうなずいた。
「だって、この糸は、私たちがみんなで心を込めてイチから作った大切な糸だもん」
そのとき——
「……来た!パスカさん、来たよ!」 ミナ姉ちゃんが表の通りを指差した。
遠くから、馬車の車輪と蹄の音が近づいてくる。
私は箱を抱え直しながら、門の方へ駆け出した。 心臓が、どくん、どくんと高鳴っていた。
「いよいよだ……」
朝の光が差し込む中、特別な一日が始まろうとしていた。
馬車が門の前に停まると、タク兄と父さんがさっと出迎えに向かった。
私は思わず、木箱を抱えたまま小走りで後を追った。
「よう。元気そうだな、みんな」
パスカさんが、旅装のまま馬車から降りる。
背中には大きな荷袋。今日は商人というより、”目利き”の顔だ。
「お久しぶりです、パスカさん!」
「リィナ、お前、少し大きくなったんじゃないか?」
「えっ、ほんと!?」
「ああ。背も伸びたけど、何より、顔つきが少し”大人っぽく”なってきた」
その言葉に、思わず顔が熱くなる。
(大人っぽい顔……前世ではアラフォーだったんだから、既に”大人”だったんだけど、たしかに、最近は今の実年齢に引っ張られてたところがあったからなあ)
「それで……」
パスカさんの視線が、私の腕に抱えた箱に注がれる。
「例の糸、できてるんだな?早速だが、見せてくれるか」
「はい。これが……私たちたみんなで作った”糸”です!」
パスカさんが箱の前にしゃがみこみ、そっと木の蓋を開ける。
そこには、幾つかの種類の糸束が並んでいた。
その中の1束、 ふわり、と光を含んだような柔らかな白に、パスカさんの目が釘付けになる
「……おお……」
その低い声に、空気がぴたりと止まる。
「これは……まさか、なんだ、この深い光沢は!? これを、お前たちが作り上げたのか」
「それは、”リィナシルク”と名付けた特別な糸だ。
数は多くないが、俺たちは”特別な糸”だと思っている」
グレン兄ちゃんがうなずく。
「蚕にあげる葉っぱを色々工夫して、3種類の糸ができたの!」
ミナ姉ちゃんも誇らしげに声をあげる。
「エサを工夫したってことか。それで、こんなにすごいものができるとは…!?」
「あげる葉の違いで糸に差が出るかを記録したものもある。
”リィナシルク”は、その中でも特に状態の良かった個体から取った糸を紡いだものだ」
パスカさんは、糸束を手に取り、光に透かす。
指先でそっと撫で、ぐっと眉根を寄せて唸った。
「……あり得ない。繭から直接紡いだとは思えないほど、均一で細い。
なのに、張力がある。この細さで、ここまでの強さを持つなんて……」
「えっ、そんなにすごいの?」
タク兄が思わず口を挟む。
「都市でも見たことない。けど、この”なめらかさ”と”光沢”は……既存の絹糸を遥かに超えている!」
「布にしてみたら、どうなるんだろうな……」
パスカさんが独り言のように呟き、ふと我に返ったようにこちらを見た。
「そうだ、他の糸も見せてくれ」
「これです」
「こっちは”混合糸”って呼んでます。あげる葉を色々混ぜて与えた子たちの糸で紡いでるの。それで、こっちは”通常糸”、”特別な木”の葉っぱをあげる前に繭になった子たちからとった糸で紡いでるの」
ミナ姉ちゃんが説明する。
「こっちも中々いいな。もちろん”リィナシルク”ほどじゃないが、この”混合糸”でも、今出回ってる最高級絹糸なみ、ひょっとするとそれ以上の品質だ」
「これは、一刻も早く織師に見せなきゃいけない。
できる限り早く”反物”に仕立てて、秋市場の準備を進めたい。
正直……予想以上だ」
「ほ、ほんとに……?」
私は思わず身を乗り出して聞いた。
「リィナ。この糸は”市場に出すため”のものじゃない。
”市場が欲しがる”糸だ。
……もっと言うなら、”市場を変える”糸かもしれない」
ざわり、と背筋が震えた。
「これまで、”糸”なんて布を織るための”原材料”でしかなかった。
だが……この糸は”名前”を持っている。
”リィナシルク”……これは、ブランドになる」
言葉の一つひとつが、胸の奥を震わせた。
グレン兄ちゃんも、タク兄も、ミナ姉ちゃんも、みんなの目が真剣になっていた。
「よし、じゃあ今日中にこの糸を買い取って、都市に戻る。
すぐに織師に持ち込んで、布にしてもらう。
……秋市場には、何としても間に合わせる」
「はい!お願いします!」
私たちは全員、心からの声でそう言った。
「……それと」
パスカさんが少し声を低くした。
「この糸の秘密――”特別な木”のことは、外には絶対に漏らすな。
これは”技術”であり、”戦略”だ。下手に広まれば、最悪、盗まれたり、秘密を知るお前たちに、危害が及ぶ可能性もある」
「はい」グレン兄ちゃんが真顔でうなずく。
「この葉の記録も、取り扱いも、支援隊と家族だけで管理しています」
「よし……」
パスカさんは深くうなずいた。
「みんな、ありがとう。この糸は、間違いなく”未来”を変える」
言い終えたパスカさんの目は、少し潤んで見えた。
そして、父さん達と商談を済ませた後、彼はそっとリィナシルクの箱に手を置き、まるで宝物を扱うように、それを運搬用の箱に詰め替えていった。
(私たちの糸が、未来を変える……)
私はぎゅっと拳を握った。
(絶対に負けない。秋市場、やってやるんだから!)
風が吹き抜け、桑の葉がざわめいた。
まるで、出発を見送るように。希望を背にした馬車は、朝陽の中を駆けていった。
パスカさんが去ったあと、私たちはしばらく裏庭の作業台に残っていた。
「……行っちゃったね」
ミナ姉ちゃんがぽつりとつぶやいた。
「うん。でも、なんか、寂しいっていうより、”やるぞ!”って気持ちが強くなったな」
タク兄が拳を握る。
「秋市場、絶対に成功させようって、改めて思った」
「リィナ」
隣でグレン兄ちゃんが、私の肩に手を置いた。
「今日のこと、ちゃんと覚えておけよ。パスカさんが言ってたろ? この糸は市場を変えるかもしれないって」
「うん……!」
私は、胸の奥にぐっと熱いものがこみあげてくるのを感じた。
その時、蚕棚の方からひょっこりとメイナ姉ちゃんが顔を出した。
「ねえ、これからの”リィナシルク”、どうするか決めた?」
「これから……?」
ミナ姉ちゃんが目を丸くする。
「増やしていくんでしょ? 一本しかない”あの木”だけじゃ限界あるし」
「たしかに。繭も限られてるから、糸の量も決まってる」
グレン兄ちゃんが顎に手を当てて考え込む。
「でも、逆に言えば、”限られた量”だからこそ価値があるってこともあるよね」
私は思いついたように声を上げた。
「高くてもいい。特別な人のための糸っていうか、”選ばれし糸”って感じ!」
「それ、いいな!」タク兄が笑う。
「でも、選ばれし蚕たちには、選ばれし葉っぱを食べてもらわなきゃな」
「量は増やせないとしても、木を増やす努力はしてるよ」
ミナ姉ちゃんがうなずく。
「挿し木、順調?」
「うん!あの木から取った枝、今朝見たら芽が出てた!」
「本当!?」
思わず私は立ち上がる。
「それってつまり、もう一本、”リィナシルクの木”が育つってこと!?」
「まだ時間はかかると思うけどね。でも、ちゃんと育てば、来年はもっとたくさん糸が取れるかもしれない」
「……そうか。じゃあ、今は”試練の年”ってわけだ」
グレン兄ちゃんが笑う。
「少ない材料で、最大限の成果を出す。そのために、俺たちでできることを全部やろう」
「うん!」
私は力強くうなずいた。
***
その日の夕方。
パスカさんを見送った興奮がまだ冷めやらぬまま、囲炉裏のまわりでは大人たちが集まっていた。
「……”市場を変える糸”か。あの商人の言葉が、現実になったらすごいな」
父さんが茶を啜りながら言う。
「いや、現実にするんだろ、セイラン」
ガイルおじさんが低い声で言った。
「俺は、あの糸を見た時、震えた。こんなもんが農村の小屋で生まれるなんてな」
「でも、確かにあれを作ったのはあの子達よ」
母さんがにこやかに言う。
「うちの裏庭で、子どもたちが作った桑の葉を、蚕にあげて、それを丁寧に育てて……」
「なんか、”奇跡”みたいな話よね」
セラさんが笑った。
「でもその奇跡は、あの子たちが毎日積み上げてきた努力の結晶よ」
「そうだな。あいつらは、偶然を必然に変える力を持ってる」
父さんが深くうなずいた。
「……でも、これで終わりじゃないよ!」
私は囲炉裏のそばで声を上げた。
「なんだ、リィナ、聞いてたのか」
「まだ秋市場も始まってないし、その先だって。私たち、これからが勝負なんだよ!」
「その通りだ」
グレン兄ちゃんがすぐに続ける。
「だからこそ、次の計画に取りかかろう。量産に向けた準備、品質の維持、桑の確保……」
「そうだね、いつか”ミナシルク”も生まれるかもしれないし!」
ミナ姉ちゃんがにやりと笑う。
「ハハッ、そうだな。新しい品質の糸が、また生まれるかもしれないな」
「まずは、今の”特別な木”から採れる葉を、どう効率よく使うか。
繭にならない子たちにはどう対処するか。
次の世代へ向けて、記録の見直しと対策も必要だ」
「やること、いっぱいだなあ……」
タク兄が頭をかく。
「でも、成功させるためだ。なんでもやるさ」
私は再び、木箱の空いた場所をそっと撫でた。
(ここに、もう一度”リィナシルク”が並ぶ日が、きっと来る)
***
夜、私は布団の中で目を閉じた。
瞼の裏に、朝の光を浴びながら馬車に乗っていった”リィナシルク”が浮かぶ。
(あの糸が、誰かの服になって、誰かの笑顔をつくる)
(そういう未来を、自分の手で作れるかもしれないんだ)
(なら、やっぱり……)
私は小さく口にした。
「次は、もっとすごい糸、作るんだから」
空を見上げると、星がひとつ、きらりと流れた。




