第二十二話 失われた命と、仮説の芽
七月の風は、乾いていた。
陽が昇るにつれて空気は熱を帯び、桑畑も蚕棚も、じっと我慢するように息をひそめていた。
「……また動かなくなってる」
ミナ姉ちゃんの声が、いつになく小さかった。
私たちは、静まり返った蚕棚の前に立っていた。
棚の中には、動かぬ蚕たち。
葉の上で身を丸めたまま、脱皮も進まず、桑の葉も口にしない。
「温湿度は計画どおりに調整してるけど……」
グレン兄ちゃんが、毛玉湿度計と温度棒を交互に見つめながら呟いた。
「今朝もちゃんと遮光して、水打ちもしたよ」
タク兄が汗を拭いながら言った。
「でも……その対応だけじゃ追いついてないのかも」
蚕たちの命は、静かに、けれど確実に、消えていった。
***
その日の午後。
小屋の裏には、虫かごのように並んだ小さな蚕棚があった。
中には元気に葉を食べている子たちが、ぽつぽつと混じっている。
「この辺りの蚕はすっかり元気になったな」
「本当にね。弱ってたのが嘘みたいにモリモリ食べてる」
「…確か昨日、小屋横の葉をあげてみたって言ってたよな?」
グレン兄ちゃんがミナ姉ちゃんに尋ねた。
「うん。新鮮な葉の方がいいかもって思って。畑の、特に元気そうな葉っぱを選んで採ったけど……どの木だったかまでは、覚えてないよ」
「そうか」
グレン兄ちゃんは、記録帳の余白に印をつけた。
私とミナ姉ちゃんも並んで、それを覗き込む。
「やっぱり新鮮な葉の方がいいのかな。でもなあ、大抵は採ってすぐあげてるし……一日経ってる葉なんて使ってないのに、そんなに違うのかな」
「じゃあ、たまたま元気になっただけかも?」
「う〜ん。そうかもしれないし、それだけじゃないかもしれない…」
「じゃあさ、今度からは木ごとに葉を分けて与えてみるのはどう?」
「ああ、それいいな。同じ種類の木でも甘い実がなる木と酸っぱい実がなる木もあるからな。
蚕が特別に好きな匂いとか味とかがあるのかも」
グレン兄ちゃんが真剣な表情でうなずく。
「そうだよ!葉っぱの違いで蚕の元気さや、繭の出来も変わるかもしれないし!」
私も思わず力が入る。
私はそっと小屋横の畑に目をやった。
畑の奥、風に揺れる一枝が、やけに目にとまった。
***
夕方。
グレン兄ちゃんが集計した記録を前に、父さんとガイルおじさんが黙り込んでいた。
「…今日だけで二十匹以上が……」
ミナ姉ちゃんの手が、震えていた。
「……できることは全部やってる。くそっ、これが現実か」
タク兄が悔しそうに拳を握る。
「悔しいのも悲しいのもわかる。だが、残りの蚕たちのためにも、今は前を向いていかなきゃならん」
ガイルおじさんが静かに呟いた。
「グレンから報告をもらった。エサの違いに注目して観察を続けるんだってな?他に打てる手がない以上、試してみるしかない。観察組には手間をかけるがよろしく頼む」
父さんが静かに言った。
「はい!」
「まずは、大まかに小屋横と第2圃場の葉に分けて、それぞれ別の籠に収穫して印をつける。どの葉を、どの蚕にあげたか記録していこう」
「蚕もグループ分けして、少なくとも1週間は同じ葉だけを与えるようにしよう」
グレン兄ちゃんが具体的な方針を口にする。
「木ごとに印をつけなくてもいいの?」
私が思わず言う。
「できるならそうしたいが……」
「そうした方がいいなら、やってみようよ!私も手伝うからさ」
メイナ姉ちゃんが小さく笑った。
「もちろん私も手伝う!」
ミナ姉ちゃんも声を上げる。
「わかった。じゃあ3人で頼むよ。よろしく」
グレン兄ちゃんが新しいページをめくって、記録欄を描き始めた。
***
夜。
母さんが、じっと小さな繭のかごを見つめていた。
「……あの子たちの分まで、元気に育ってくれるといいわね」
「うん」
私は、小さくうなずいた。
(命は戻らない。…でも、無駄にはしない)
繭のそばには、今日亡くなった子たちの記録が、静かに置かれていた。
ページの隅に、小さな丸印が並んでいた。
元気だった日。少し元気がなかった日。もう動かなかった日。
記録された命の軌跡。
私はそっと記録帳のページを閉じた。
「次に繋げる。きっと、絶対に」
夜風が吹き抜け、桑の葉がかすかに揺れた。




