30 新たな日々・終
新年の祝賀行事の準備が進むなか、皇帝陛下から重要な発表があった。
“応竜宮に住まう竜妃の子を後宮にて育てることになった”
貴族たちはもちろんのこと後宮の誰もが驚き、しばらくは応竜宮の門前も少しだけ騒がしくなった。それでも大騒ぎにならなかったのは、皇帝陛下が「応竜宮に許可なく立ち入ることは禁じる」とお触れを出し続けているからだろう。
(それでも覗きに来る侍女はけっこういたなぁ)
中には明らかに上級侍女らしき服装の人たちもいた。何となく見覚えがあった顔は鳳凰宮の侍女だったのかもしれない。
しばらくは宦官の詰め所に行くときに呼び止められるんじゃないかと冷や冷やした。ところが想像していたようなことは起きず、遠巻きに「ほら、あの蛇遣いの人が竜妃様の」と囁かれていることで「尾ひれのおかげか」と納得した。
(それにしても蛇遣いって)
思わず吹き出しかけたけれど、虹淳様は元は蛇だからあながち間違いじゃない。むしろわたしのほうが蛇に使われている立場だ。
そんなことを思い出しながら庭を掃いていると、頭から襟巻きをすっぽり被った紅花さんが戻って来た。
「どうでしたか?」
「変わらずお美しかったわ。それにお元気そうだった」
「そうですか。よかったですね」
それには答えず「朝餉の準備するわね」と言って足早に台所へと向かう。
(帝都から少し離れた離宮に行くんだっけ)
今日、早朝に後宮の門をくぐったのは麒麟宮の主人だった黄妃様だ。元妃としての地位を与えられた黄妃様は皇帝陛下が持つ離宮に移り住むのだという。これからは黄妃様ではなく冬麗姫様と名前で呼ぶことになる。
今朝出て行くことを弘徳様から聞いた紅花さんは、昨日の夜まで見送りに行くつもりはないと言っていた。でも、それじゃあきっと後悔する。そう思って「皇子様のことは任せてくださいって、直接言えなくても顔だけでも見せたほうがよくないですか?」と言って見送りに行くことを勧めた。さっき見た表情から、行ってよかったと本人も思ったに違いない。
(ふた月後には新しい妃が来るのかぁ)
紅花さんにとっては従姉妹にあたる姫君が新しい黄妃様だ。きっと複雑な気持ちになっているに違いない。それでも表に出さない紅花さんは強い人だなと心底思う。
いろんなことが起きたけれど、わたしたちの毎日は変わらず過ぎていく。今日も朝から掃除をして朝餉の後には洗濯をし、昼餉が終われば字の練習と髪結いの練習をした。夕餉の時間が近づいてきたから、煮卵を持った弘徳様がやって来るだろう。
トントン。
来た。相変わらず律儀に戸を叩く音がし、虹淳様が「どうぞ」と返事をする。ところが一向に中に入ってこようとしない。変だなと思って廊下に出ると、まるで死人のような顔色をした弘徳様が小振りな壺を持ったまま立ち尽くしていた。
「今度は何があったんですか?」
また何か起きたのだろうか。「大変なことじゃないといいんだけど」と思いながら声をかけると「陛下が……」と掠れた声でつぶやいた。
「はい?」
「陛下が……陛下がいらっしゃいます」
「皇帝陛下が応竜宮にですか?」
「陛下が虹淳様に会いたいと、御子を連れて会いにいくから用意しろと……それもついさっきですよ!? 夕餉の前に行くことに決めたと急に! 急に呼び出されて、わたしは何事かと肝を潰しました! そうではなく、早く用意しなくては陛下が到着されてしまう……! 早く用意を! 虹淳様のお召し物と、それから殿下もということはお菓子も必要でしょうし、ああぁぁ! 紅花! 紅花はいませんか!?」
「ちょっと、弘徳様」
わたしの声が聞こえていないのか、喚くように声を上げながら台所へと去って行った。わたしはというと「あれだけ応竜宮には来ないって言ってたのに」と首を傾げる。
とりあえず髪はちょうど結い上がっているから、これでいいだろう。「着替えますよ」と虹淳様を立たせ、紅花さんに教えてもらった妃らしい服装を見繕った。装飾品は皇帝陛下から贈られたものから選び、完成した虹淳様の姿に我ながら上出来だと顔がにやける。
「それじゃ、座って待っててください」
「卵は?」
「それは皇帝陛下に会ってから食べましょう」
「……皇帝陛下」
「大丈夫ですよ。皇子様を連れて来るそうですから、きっと虹淳様に皇子様を見せたいんだと思います」
「おうじさま」
「ええと、いろいろ省略しますけど、虹淳様の子どもになる男の子です」
「……子ども」
「皇子様がいるので、もう虹淳様が皇帝陛下に食べられることはなくなりました。あ、ということは、皇子様は虹淳様の命の恩人ですね」
「そう」
返事は少ないけれど、状況は理解できたらしい。「おうじさま」とつぶやきながらも大人しく椅子に座っている。
それを見届けたわたしは急いで門へと向かった。ちょうど皇帝陛下が宦官たちを連れて到着したところで、門の手前で止まった宦官たちの間から小さな男の子が出てくる。見た目は小さな皇帝陛下そのもので、黒目は凛々しく前を見ていた。
(冬麗姫様は銀の髪に青い目だと聞いてたけど、皇子様は皇帝陛下と同じ黒髪に黒目なんだ)
「やっぱり竜の血を引く皇帝陛下の血のほうが強いのかな」なんてことを思いながら、虹淳様の部屋へと案内する。
「あの、お聞きしてもいいですか?」
「なんだ?」
気になっていることがあると、相手が皇帝陛下でも聞かずにはいられない。いつもどおりの言葉遣いでは怒られるかと思ったものの、あのときと同じように「無礼者」なんて言うことなくわたしに視線を向けた。
「皇子様がこの五年間、どこにいたという話になっているのかなと気になって」
「竜妃の子なら、あそこだろう?」
「あそこ」と言いながら天を指さした。「いやいや、なに言ってんですか」と内心突っ込みながら、そんな言い訳を貴族や後宮の人たちは信じるのかと少しだけ呆れてしまう。
(そっか、竜妃様に関することは何でもありってことか)
そのおかげで最初から食材も届いたし、何だかんだあってもこうして応竜宮の侍女として働き続けられている。
「虹淳様、皇帝陛下がいらっしゃいました」
そう声をかけてから戸を開けた。虹淳様は部屋を出たときと同じように大人しく椅子に座っている。
わたしに続いて部屋に入った皇帝陛下が息を呑むような音を立てたのがわかった。ちらっと見ると、初めて見る惚けたような顔をしている。
(そりゃそうでしょうね。だって、前よりずっと完璧な美少女だもん)
毎日湯浴みをし食事も取っている。皇帝陛下が覗き見ていたときとは違い、今日は濃い紅色に白や淡い桃色の重ね着姿だ。簪は桃を象ったもので、大ぶりの白真珠の耳飾りも青い宝石と真珠の首飾りも似合いすぎるほど似合っていた。
(うん、完璧な美少女だ)
性別は男でも女でもないけれど、どこからどう見ても美少女にしか見えない。そのことに満足したものの、あまりに凝視している皇帝陛下を見ているうちに不安になってきた。
(まさか、いまさら虹淳様を見初めたりはしないよね……?)
あのときの話から絶対に大丈夫と思っていたけれど、目の前の顔を見ると心配になってくる。今日のせいでお渡りが始まったらどうしようと背中を冷たい汗が流れ落ちた。
(お渡りなんてことになったら、虹淳様が少女じゃないってばれるじゃない)
……でも、それなら子どもが生まれることはないということだ。つまり虹淳様が命を落とすこともないということで、それなら何の問題もない気がする。
(でも、竜は皇帝陛下に会えって言ってたのよね?)
ということは、性別なんて関係なく竜妃様は子どもが生めるのかもしれない。それならやっぱりお渡りが始まったら大変だ。そもそもお渡りの準備なんてわたしにはできないし、紅花さんだって女性じゃない人のお渡りの準備なんてできないはず。
(そもそも男女の交わりはできないだろうし)
じゃあ、どういうことになるんだろう……? 考えてもよくわからない。難しいことはわからないけれど、これ以上皇帝陛下に虹淳様を見せてはいけないような気がした。
そんなことを考えていたわたしの耳に「この人を妃にしたいです」という幼い声が聞こえてきた。ハッとして声のほうを見ると、幼い皇子様が虹淳様を指さしながら「この人がいいです!」とまた口にする。
「これは竜妃、おまえの母だ」
「違います。わたしの母上は銀の髪に青い目の人です。この人は母上ではありません」
「それでも竜妃はおまえの母だ。母を妃にすることはできぬ」
「嫌です! わたしはこの人を妃にしたいです! この人じゃなきゃ嫌です!」
「我が儘を申すな」
「嫌です!」
頬を真っ赤にした皇子様が「この人がいいです!」と必死に訴えている。思わず「美少女っぷりが過ぎると五歳児までも惑わすんだ」と気が遠くなりかけたところで「ならぬ」と強い声が響いた。
「そもそも竜妃はわたしの妃だ。おまえの妃にはせぬ」
「……っ」
皇子様の目に涙が浮かんでいる。それを皇帝陛下は冷たい表情で見下ろしていた。色恋沙汰には詳しくないわたしでも、皇帝陛下がいまどんな気持ちなのかは想像がつく。
(あの目は間違いなく男の目だな)
まさか幼い息子相手に本気になっているんだろうか。「大人げなさすぎるでしょ」と呆れたものの、やっぱり皇帝陛下も惑わされているのではと心配になる。
「竜妃はわたしの妃だ。それを違えることはできぬ。次の皇帝たるおまえが竜妃を手にすることは絶対に許されぬことだと心せよ」
「……っ」
皇子様が俯いた。思わず「皇帝陛下、ちょっと厳しく言い過ぎじゃありませんか?」と囁くと「契約の始まりに戻すわけにはいかぬのだ」と厳しい声が返ってくる。
「どういうことですか?」
「古の時代、一人の男が竜の王子を捕らえた。翼を削ぎ足に鎖を繋ぎ逃げられぬようにした。それに怒った竜の王が天変地異を起こし多くの国が滅んだ。何とか生き残った男の息子は竜の王の怒りを静めるため竜を返すことにした。しかし欲深かった息子は、代わりに竜の妃を賜りたいと交換条件をつけたのだ。それが契約となり、竜の妃を得た男は皇帝となった。それが我が祖先だ」
「……最悪ですね」
「最悪だ。だから呪いだと言っただろう?」
わたしに難しいことはわからない。それでも竜に酷いことをした挙げ句、交換条件まで出すなんて最悪だと思った。もしそのことをいまの竜が知っていたとしたら、蛇を身代わりにするのも納得できる気がする。
「その契約も、いつの間にか蛇を身代わりにされていたとはな。つくづく人とは愚かなものだ。その最たるものが皇帝というわけだ。竜の血どころか蛇の血を尊び必死になっていたのだからな」
「そこまで言わなくても……」
「愚かとしか言いようがあるまい?」
「でも、こんな美少女が現れたら誰だって竜の化身だと思いますよ」
返事はなかったものの、虹淳様を見る皇帝陛下の眼差しは随分熱心に見える。「どうか面倒なことになりませんように」と願ったところで、紅花さんが「失礼致します」とお茶とお菓子を運んで来た。よく見ると廊下には固まった弘徳様が立っている。
(あー……弘徳様が惑わされるのは予想どおりだけど)
あの顔は間違いなく惑わされている。ただでさえ陶酔しているところで完璧な美少女妃姿の虹淳様を見れば固まりもするだろう。鼻血を出さなかっただけよかったと思うべきだろうか。
ため息をつきながら虹淳様に「水蜜桃のお茶、飲みましょうか」と声をかけた。
「桃のお茶」
好物ににこりと笑った虹淳様に皇子様が顔を真っ赤にした。皇帝陛下も片方の眉毛を跳ね上げている。
(……まぁ、きっと何とかなるでしょ)
紅花さんもいるし弘徳様もいる。このまま何でもない平穏な日々が続くことを願わずにはいられなかった。
(わたしももっとがんばろう)
そして虹淳様を助けたい。そう決意したところで、右腕がぽうっと熱くなったような気がした。袖口からのぞく手首が部屋の灯りに照らされてほんの少し光っている。それはまるで虹淳様の肌にある鱗のような見た目をしていた。
(いよいよ本当の蛇遣いっぽくなってきたなぁ)
そんなことを思いながら、紅花さんと一緒にお茶の用意に取りかかることにした。




