29 台所での密談
わたしの提案に弘徳様も紅花さんも呆気にとられたような顔をした。
「皇子様が竜妃様の子どもなら、さすがの貴族も命を狙うなんてことはできないですよね?」
確認するようにそう話すと、弘徳様が「阿繰!」と声を荒げる。
「何を言い出すんですか! 竜妃様は現人神、陛下の次に大事な存在ですよ!? そのように軽率にお子の話などしてよいものではありません!」
「だからです」
「はぁ?」
「皇帝陛下の次に偉い竜妃様が生んだ皇子様なら、たとえ皇帝陛下でも命を奪うことはできないってことですよね? それなら紅花さんのお父さんにだって無理だと思うんです」
「それはそうですが……」
「ってことは、やっぱり竜妃様の生んだ皇子様ってことにするのが一番だと思うんですけど」
「しかし竜妃様はお子を生んではいらっしゃいません。そもそも、いまの竜妃様は虹淳様です。あの方がお子を生んだなどと……お子を……」
弘徳様が慌てたように袖口で顔を押さえた。もしかして鼻血でも出たのだろうか。何を想像したのかは知らないけれど、皇子様の命を守るには竜妃様、つまり虹淳様の子どもにするのが一番いいとわたしは本気で考えていた。
「それは大丈夫だと思います。だって虹淳様を見た人はわたしたち以外いないんですよね? 掃除のときに見た侍女たちも幽霊だと思ってるだろうし、その人たちももう後宮にはいません。十年前に現れたときに姿を見た人もどのくらいいたのかわかりません。年齢だって知らないだろうから、実は子どもを生める年だったと話しても疑う人は少ないんじゃないですか?」
「しかし、お子を取り上げた医者すらいないのはやはり不自然でしょう」
「そんなの竜妃様なんだからどうとでもなります。だって、いま生きてるわたしたちは竜妃様がどうやって子どもを生むかなんて誰も知らないんですよ? 後宮には記録が残ってないし、禁書を読める人もほとんどいないんですよね?」
「たしかにそうですが……」
「それじゃあ、きっと大丈夫です」
話しているうちに自分の考えこそが最善だと思えてきた。これなら皇子様も命を狙われなくて済むし紅花さんが気に病むこともない。黄妃様も胸を痛めなくて済むとなれば万々歳じゃないだろうか。
思わず笑顔になったわたしに「阿繰」と弘徳様の厳しい声が飛んできた。
「たしかにあなたの考えは悪くありません。陛下と竜妃様には絶対にお子をもうけていただかねばなりませんから、噂の御子が竜妃様の生んだお子だと言えば誰も手出しできないでしょう。しかし、その嘘はすぐに露呈しますよ」
「どうしてですか?」
弘徳様が「はぁ」と大きなため息をついた。
「お子がいらっしゃるのに竜妃様が生きていては問題でしょうが」
「……あ、」
「それに宝珠を持たない御子は当然竜の力を持ちません。いずれそのことを御子が知れば傷つくことになります。そんな未来を幼子に押しつけるのはどうかと思いますが」
「それは……」
不意に「流れてもいない百年前の竜の血を感じろと言われても感じられるはずがない」と口にした皇帝陛下を思い出した。幼い皇子様に皇帝陛下と同じ思いをさせるのだと思うと胸がざらざらしてくる。いいことを思いついたと明るくなっていた気持ちが一気にしぼんだ。
「それはどうかしら」
「紅花さん?」
紅花さんが「阿繰の話は悪くないと思うのだけれど」と言葉を続ける。
「以前弘徳様にうかがった話では、竜妃様の詳細を知る人はほとんどいないのよね?」
「もっとも詳しいのは陛下ですが、ほかは老師が二人と宦官の文官が二人、それなりに知っていると聞いています」
「その方々は、出産した竜妃様が命を落とすことはご存知なのかしら?」
「そういう伝承があることは知っていると思いますが」
「伝承……つまり、真実かはわからないということよね?」
紅花さんの言葉に「虹淳様は嘘なんてついてません」と口を挟んだ。そんなわたしに紅花さんは「でも、それを知っているのはわたしたちだけでは?」と微笑む。
「……そっか、そうですよね。皇帝陛下は知ってるみたいでしたけど、ほかの人に皇帝陛下がわざわざ教えるとは思えないし」
「十年前に応竜宮に降臨された竜妃様は、五年前に皇子を出産されていた。隠していた理由はどうにかしなくてはいけないでしょうけれど、皇子殿下のことを陛下がお認めくださればどなたも反論できないのではないかしら」
「それは……」
弘徳様が「うーん」と唸り始めた。途中、何度も眼鏡を押し上げているのは悩んでいるからだろう。そうしてしばらく唸っていた弘徳様が「やはり駄目ですね」と首を振った。
「竜の血を引かないことはいずれ露呈します。そうなれば、いまよりもっと大騒ぎになります」
「そのことだけれど、竜の鱗でどうにかならないかしら」
「竜の鱗?」
「えぇ。虹淳様は蛇だったとき、竜の鱗を食べていたとおっしゃっていたわ。そうした蛇が竜の身代わりになるのなら、同じように竜の鱗を口にすれば竜の力を得られるということじゃないかしら」
「竜の鱗……。たしかに竜像叢書にも“竜の鱗は妙薬にて竜の力を得られる”と書かれていますが……いや、それでも宝珠はどうするのです?」
「宝珠がなくても疑われたりしないわ。現にいまの陛下はお持ちではないのでしょう?」
「紅花!」
「それが現実よ。宝珠がなくても竜妃様のお子だと言えば誰も皇子殿下のことを疑ったりしない。そもそも歴代の皇帝がどんな竜の力を持っていたか誰も知らないのでしょう? きっとうまくいくわ」
「しかし……」
まだ唸っている弘徳様に「わたしもリュウリリンって漢方薬のことを聞いたことがあります」と言うと「竜鯉鱗は鯉の鱗であって竜の鱗じゃありませんよ」と呆れた眼差しで見られてしまった。
「竜と共存していた古の時代、実際にそう言った名の薬があり煎じて飲んでいたという記録はあります。その時代なら本物の竜の鱗が手に入ったでしょうし、の効果もはっきりわかったでしょう。しかしいまは違います。そもそも竜の鱗をどうやって手に入れるのです?」
弘徳様の指摘はもっともだ。でも、いまできることはそれしかないし竜の鱗ならすぐ近くにある。わたしの考えていることに気づいたのか、弘徳様がハッとした顔をした。
「阿繰、あなたまさか……」
「竜の鱗は虹淳様が持ってます」
「虹淳様の体から鱗を剥ぎ取ると言うのですか!?」
「そんな痛そうなことしませんって。さすがにそれじゃあ虹淳様がかわいそうです」
「では、どうやって、」
「もしかして肌着についていたあれ、鱗だったの?」
紅花さんの言葉に「はい」と頷いた。
洗濯するとき、虹淳様の肌着にたびたび鱗のようなものが付いていることに気づいたのは随分前だ。大きな魚の鱗に似た見た目から、すぐに竜の鱗だとわかった。肌にくっついているときよりも透明で宝石のように輝いているものをそのまま捨てるのが惜しくて、気がつけばそれなりの数を保管している。
(貧乏人の卑しい根性が今回は役に立ったってことかな)
「ちょっと待っててください」と言ってから棚から箱を取り出し、テーブルに置いて蓋を開ける。中には魚の鱗よりずっと大きく、それでいて宝石のように輝く鱗が何枚も入っていた。
「これが虹淳様の鱗です。肌着に付いていたものを捨てずに取っておいたんです」
「は、肌着」
上ずった声を上げた弘徳様が、慌てたように眼鏡を何度も押し上げ始める。顔が真っ赤になっているということは……ろくでもない想像をしているに違いない。「頼りにはなるけど、やっぱり変態だな」と思いながら「これを煎じて皇子様に飲ませればいいんじゃないですか?」と提案した。
「しかし、そううまくいくかはわかりませんよ?」
「最初は毒味役に飲んでもらって……って、竜の鱗をほかの誰かに飲ませるのは駄目ですよね。それじゃあ、わたしが飲みます」
「阿繰!」
「大丈夫ですって。わたし、こう見えても丈夫なんです。これまで大きな病気一つしたことないですし」
「しかし、」
「とにかくこれしか方法がないんですから、やってみましょう。あとは弘徳様が皇帝陛下に話をするだけです」
「え!? わ、わたしが陛下にですか!?」
「だって、誰かに知られたらまずいじゃないですか。それなら弘徳様が話すしかないです」
「そ、それはそうですが」
「それに、この話は虹淳様にとっても大事なことです。ここは弘徳様しかいないと思います」
念を押すように「虹淳様のためですから」と言うと、眼鏡を押し上げながら「たしかに」と弘徳様が頷く。
「もちろん虹淳様のためなら一肌でも二肌でも脱ぐ覚悟はあります」
鼻息も荒くそう答えた弘徳様を見た紅花さんが「弘徳様の扱いがじょうずなのね」と囁いた。それに頷きつつ「仕事ができるよい宦官です」と囁き返す。
「わかりました。御子の件は陛下にご相談申し上げることにしましょう。竜の鱗についてはわたしが知る限り大丈夫だとは思いますが、くれぐれも注意してください」
「わかってます」
「まったくあなたという人は……ともあれ、御子の件は何とかできるかもしれませんね。ただし、黄妃様をお救いすることはできないと思います」
「え?」
「御子が竜妃様のお子だとなれば、黄妃様は予定どおり麒麟宮を出て行くことになるでしょう」
「予定どおりって」
「新年のよき日に新しい妃が入られることが決まったのは、つい先日のことです。それもあって陽候王氏は事を急いでいたのでしょうね。子をなすことができない年長の妃の行く末とは、そういうものです」
慌てて紅花さんを見た。わたしの視線に気づいたのか「予想はしていたわ」と悲しそうに微笑む。
「それでも唯一の心残りの皇子殿下が安全だとなれば、黄妃様には安心していただける。わたしにできることは、もはやそのくらいしかないわ」
もしかして紅花さんは皇子様を見守ろうと考えているのではと思った。さすがに応竜宮に皇子様が住むことはないだろうけれど、同じ後宮にいればそれとなく様子を見守ることはできる。
「いろいろうまくいくといいですね」
「そうね」
そう返事をした紅花さんの目は、何かを懐かしむように遠くを見つめていた。




