26 身代わりの蛇
(保存食ってどういう意味だろう)
不意に「食べて」と言われたときのことを思い出した。あのときの虹淳様とのやり取りを思い出すと胸がぞわぞわして嫌な気分になる。
(……いま聞いたら話してくれるかもしれない)
聞けば嫌な気持ちになるのだろうけれど、このまま放っておくことはできない言葉だ。
「虹淳様、それって虹淳様が保存食ってことですか?」
質問すると、こくりと頷いた虹淳様が自分の胸を指しながら「保存食」とまた口にする。
「蛇は保存食。ほかにもたくさんいた。みんな竜の鱗を食べて保存食になる。光る玉を触ったら、保存食から竜になる」
「ええと、竜にされる蛇は虹淳様のほかにもいたってことですか?」
頷いた虹淳様が「わたしはここに来る竜になって、あっちから来た」と言って天井を指さした。
「だから、ここで皇帝に会って、食べられないとだめ」
「それも竜に言われたんですか?」
「そう。皇帝は竜を食べる人。食べられた竜は死ぬ。だから、代わりに蛇が食べられる」
虹淳様の説明に「やはり身代わりということのようね」と紅花さんがつぶやく。
「竜は自分の命を守るために蛇を身代わりに差し出してるってことですかね。……もしかして百年前の竜妃様も蛇だったとか……?」
「可能性はなくはないわ。これは弘徳様にもお話したほうがよさそうね」
「そうですね」
いつからかはわからないものの、もし歴代の竜妃様が身代わりの蛇だったとしたら皇帝陛下は蛇の血を引いていることになる。それがいいことか悪いことかはわからないけれど、おそらく偉い人たちにとっては大変なことに違いない。
何とも言えない空気に黙っていると、袖をくいっと引っ張られた。視線を向けると虹淳様が「だから、食べて?」と言いながらわたしを見ている。
「ええと、それは……」
「皇帝は竜を食べる人。だから会って食べられないとだめ。わたしはそんなのいや。どうせ食べられるなら、知ってる人がいい」
「それに蛇を食べるから」と言ってわたしを指した。
「たしかに蛇は食べますけど、さすがに竜は……というより、虹淳様を食べるのはわたしだって嫌です」
「阿繰は知ってる人。だから阿繰に食べてほしい」
じっと見つめてくる黒目からは何の感情も読み取れない。食べられるということは命を落とすことだとわかっているはずなのに、虹淳様はただ淡々と「食べて」と口にする。
「もしかして、役目を果たせなかったら命を奪われるということじゃないのかしら」
紅花さんの言葉にギョッとした。慌てて視線を向けると、眉尻を少し下げながら虹淳様を見ている。
「どういう意味ですか?」
「推測でしかないのだけれど、陛下との間に子を生むのが虹淳様に課せられた役目だとしたら納得がいくわ。そのために蛇だと露呈しないように食事を禁じて、さらに陛下に会うように言い聞かせていたんじゃないかしら」
「じゃあ、もしその役目を果たせなかったら……」
「虹淳様は竜に宝珠をもらったとおっしゃったわよね? 宝珠を授けることができるということは、その逆もできるんじゃないかしら」
「そんな……だからその前に食べてほしいってことですか?」
竜は天空に住まう神のごとき存在だ。きっと虹淳様がどこにいてもその様子を見ているに違いない。もしこのまま皇帝陛下と会わずに子どもができなければ契約を違えることになる。たしかにそんな状況を竜がみすみす見逃すとは思えなかった。
「自分の都合で竜妃様にしておいて、役目を果たさなかったら命を奪うなんて……そんなの酷すぎる」
「竜も人も似たり寄ったりということね」
紅花さんの言葉にハッとした。
「きっと竜にとって虹淳様のような蛇はただの身代わりでしかないのよ。そういう意味での保存食という表現かもしれないわ。どのくらい身代わりの竜妃様がいらっしゃったのかはわからないけれど、どの竜妃様もそうやってお役目を果たされてきたのかもしれないわ。そうなると、陛下をはじめこの国の誰も彼もが竜に踊らされてきたということになるわね」
「そんな……」
「虹淳様は不憫でいらっしゃる。竜に何も教えられず、応竜宮にいらっしゃっても誰も何も教えない。まるで竜からも人からもいいように扱われるだけの存在としか思えない」
「まるでわたしのようね」とつぶやく紅花さんの声に胸が苦しくなる。
「虹淳様は竜妃様として応竜宮に居続けることしかできない。わたしもあの男が命じるまま麒麟宮にいることしかできなかった。自分の命なのに自分のために使えないところは似ているわ」
フッと笑みを浮かべた紅花さんが、髪に挿していた簪をそっと引き抜いた。銀製のその簪はぶつかったときにわたしが拾ったもので、紅花さんの故郷に咲くという薔薇の花が象られている。
「これはあの男が母に贈ったものなの。見たくないと思っているのに、母の形見はこれしかないからどうしても捨てられなかった。母にしてみれば、あの男の娘だという唯一の証拠だからと持っていたんでしょうけれど、おかげでわたしはあの男に拾われて後宮勤めをすることになった。しかも間者としてね」
何かを思い出すように紅花さんが目を閉じた。ほんのわずか閉じられた瞳がスッと開く。そうして簪を見つめると、もう一度髪に挿し直した。
「本物の竜の化身ではないのかもしれないけれど、虹淳様が竜妃様でいらっしゃることに違いはないわ」
そう言って虹淳様を見る紅花さんの表情は凜としていた。
「わたしはこれからも虹淳様に仕えたいと思っているわ。そして仕えることを何よりも誇りに思ってもいる」
「わたしも虹淳様に仕えたいと思ってます。それに、何も知らない虹淳様をこのままにはしておけません」
わたしの宣言に紅花さんがにこりと微笑んだ。その顔は上級侍女としての覚悟を決めたように見える。「わたしだって気持ちは一緒だ」と思うとともに、紅花さんと二人ならきっと何とかなると勇気が湧くようだった。
はじめは男に頼らずに貧乏から抜け出したい一心で後宮にやって来た。でも、いまはそれだけじゃない。なにより虹淳様をこのままにしておくのは胸がぐるぐるして嫌な気持ちになる。
珍しくわたしたちの話を聞いている虹淳様の手を握り「大丈夫ですからね」と声をかけた。
「虹淳様は皇帝陛下に食べられたりしませんし、わたしが虹淳様を食べることもありません」
「食べてもいいのに」
「いいえ、虹淳様は食べられたりなんかしなくていいんです。それどころか虹淳様のほうがいろんなものをたっぷり食べていいんです。ほら、桃や煮卵なんかを毎日たっぷり食べたいと思いませんか?」
「煮卵」
虹淳様の目がじわりと赤みを帯びていく。味を思い出したのか、舌で唇をちろっと舐めてから「煮卵、とてもおいしい」と言ってにこりと笑った。
(や、やっぱり可愛い……!)
艶々の白い肌にきらきら輝く黒目で微笑まれれば老若男女問わず心を射貫かれるに違いない。皇帝陛下が話していた「竜妃は必ず人心を惑わす姿になる」という言葉に大いに納得した。同時にあらゆる人を魅了し引き寄せるということは、危険をも呼び寄せかねないということだ。
「虹淳様、これからたくさん学んで、それに美味しいものもたくさん食べましょう」
「字を学ぶ?」
「字もそうですし、竜妃様のことや後宮のこともです」
「……阿繰も?」
「はい、わたしも一緒に学びます。そうすれば虹淳様は食べられなくて済みますし、きっともっと楽しいことも見つかると思います」
何より自分の身を自分で守れるようになってほしかった。それに食べる楽しみ以外の楽しみももっと知ってほしい。そう思いながら両手をグッと握り締め虹淳様の顔を見つめる。
「……わかった」
そう言ってにこっと笑った顔はまさに完璧な美少女で、それを正面から見たわたしは思わず仰け反りながら「ほわ」と謎の声を漏らしていた。
(まずは変な虫がつかないようにしないと)
まるで可愛い妹を心配する姉のような気分だ。「わたしがしっかり守りますからね」と気合いを入れるわたしに、紅花さんが「まるで姉妹のようね」と楽しそうに笑った。




