25 竜妃様の教育
紅花さんが応竜宮に来てから毎日が少しずつ変わり始めている。一番変わったのはわたしの食事だけれど、虹淳様の日常も変わりつつあった。
「今日はこちらの文字を覚えましょうか」
そう言って紅花さんが取り出したのは、虹淳様の部屋にあった一冊の書物だ。部屋の棚には結構な数の書物が置いてあるけれど、これまで飾り同然だったそれらがいまでは虹淳様とわたしの字の先生になっている。
(そういえば竜妃様のことが書かれた書物もあるんだったっけ)
棚の書物を全部確認した紅花さんがそんなことを話していた。中身のことは詳しく聞いていないけれど、どうせ大したことは書かれていないに違いない。皇帝陛下の話では竜妃様に関わるものは禁書になっているそうだし、言い伝え程度の内容だから部屋に置いたままなのだろう。
そうした書物が置いてあるのも、ここが竜妃様の部屋だからに違いない。「大した内容じゃなくても、いつか読んでみたいなぁ」なんて思いながら紅花さんが開いたページをじっと見る。
(これに書かれてるのはわらべ歌だって話だけど、字だとそんなふうには思えないんだよね)
細長い虫が紙の上をうねっているようにしか見えない。わらべ歌を知っているわたしでも字と音を組み合わせて覚えるのが大変なのだから、歌すら知らない虹淳様はもっと大変だろう。
(……と思ってたんだけど)
チラッと隣を見た。毎日煮卵の絵を描いていた虹淳様はすっかり筆使いに慣れたらしく、すらすらと字を書き写している。どうやら真似るのも得意なようで、お手本そっくりの字を書いていた。そんな虹淳様の様子に若干の焦りを感じながら、わたしも負けじと手本の字を見ながら何とか筆を動かす。
「虹淳様は真似るのがお上手ですね」
紅花さんの言葉に虹淳様の手が止まった。
「……そう?」
「えぇ、それに大変よい筆運びだと思います」
「……そう」
嬉しそうな声に再び視線を向けると、完璧な美少女の白い頬が赤くなっている。手元を見れば、すでに次のページの字を書き写しているところだった。思わず「虹淳様はすごいですね」とつぶやくと、「阿繰も悪くないわよ?」と紅花さんが褒めてくれる。
「……どうも」
「お世辞じゃないわよ。わたしが初めて字を学び始めたときよりもずっと上手だわ」
そう言って微笑む紅花さんは、すっかり憑き物が落ちたような穏やかな表情をしていた。「吹っ切れたのならいいんだけど」と思いながら視線を落としたところで、手本の書物のそばに「竜」の文字が書かれた書物があることに気がついた。
「紅花さん、その書物も読んだんですか?」
「えぇ」
「その書物に竜妃様は食事を取らなくていい、みたいなことって書かれてませんでした?」
「どういうこと?」
「わたしがここに来たとき、そういうことを言っていたので……」
チラッと虹淳様を見る。相変わらずわたしたちの会話に興味がないのか、ひたすら筆を動かしているだけで顔を上げることもない。
「食事のことは書かれていなかったけれど、宝珠の話なら書いてあったわ」
「ほうじゅ」
「えぇ。宝の珠と書いて宝珠。竜が持つ尊い珠のことよ」
そう言いながら紅花さんが書いてくれた字をじっと見た。宝という字は行商人がよく使っていたから知っている。珠という字は初めて見たけれど覚えられそうだ。
「宝珠は竜にとって宝と呼ぶべきもの、そんなふうに書いてあったわ」
「そうですか」
てっきり書物に食事のことが書いてあるんだと思っていた。それを掃除に来た侍女が読み、虹淳様に伝えたのだと思っていたけれど違うのだろうか。
(そっか、侍女が虹淳様と話すことなんてないか)
たとえ姿を見かけても幽霊と思っているものに話しかける下女や侍女がいるとは思えない。それなら誰があんなことを虹淳様に言ったのだろう。筆を止めたままあれこれ考えていると、虹淳様が「宝珠」と口にした。
「宝珠、ここにある」
そう言って以前と同じように胸の辺りを指さしている。
「虹淳様は竜妃様でいらっしゃいますから、宝珠をお持ちなのですね」
虹淳様の正体を知っている紅花さんは、驚くことなく虹淳様に微笑みかけた。さすがは上級侍女、驚いたのは弘徳様の説明を聞いた最初だけで、いまではすっかりすべてを承知している。
(やっぱり違うんだなぁ)
生まれや育ちがわたしと似ているとは思えない姿だ。それに何も知らない虹淳様への接し方もうまい。年は姉と同じ二十一歳と聞いたけれど、姉なんかよりずっとしっかりしているし大人だ。穏やかで優しい口調だからか、虹淳様もわたしよりずっと早くに懐いたように見える。
(でもって、それを見た弘徳様が嫉妬したわけだけど)
やっぱり弘徳様はちょっと面倒くさい。そんなことを思っていると、虹淳様が「食べたらだめは、竜が言ったから」と口にした。
「え?」
「死にたくないなら、食べるなって」
「ええと、虹淳様を竜妃様にした竜が、そう言ったんですか?」
わたしの問いかけに虹淳様がこくりと頷いた。思ってもみなかった言葉に、思わず紅花さんと顔を見合わせる。
「いまのって、どういうことですかね」
「書物にはそんなことは書かれていなかったけれど」
「食事をしなくても死なないとして、あえてするなと言うのが気になりますよね」
「理由があってそう言ったのかしら」
首を傾げるわたしたちに「蛇だったから」と虹淳様が言った。
「蛇だったから食べてはいけないということですか?」
「蛇だとわかったら、竜が困る」
「あー……もしかして好物を食べて蛇だとばれると困るってことですかね。でも、虹淳様は竜の化身なんですよね?」
「本物の竜じゃない。偽物は殺される。そうしたら、次は竜が殺される。それは竜が困る」
美少女の口から出てくるには物騒すぎる言葉に眉が寄った。いまいち理解できなかったものの、食べなかった原因が竜のせいだということはわかった。
きっと竜に厳しく言われたに違いない。竜はとても大きいというから、蛇だった虹淳様は怯えて従うしかなかったのだろう。運の悪いことに人間側にも竜妃様は何も食べないという話が伝わっていた。そのせいで食事が用意されることがなかったということだ。
それにしても酷すぎやしないだろうか。竜自身が蛇だった虹淳様を竜にしておいて、殺されたくなければ食べるななんてどういうことだろう。眉を寄せていると、紅花さんが「もしかして契約の話かしら」と口にした。
「契約って、昔の皇帝陛下と竜が交わした契約のことですか?」
「えぇ」
紅花さんが正式に侍女になった日、今後のことを考えてと弘徳様がこれまで確認できた竜妃様に関することを説明した。わたしも隣で聞いていたけれど契約云々のところはよくわからないままだ。そういった部分も紅花さんは理解しているのだろう。
「竜との契約は絶対に反故にできないそうだから、竜のほうも違えることができないのかもしれないわ。だから、虹淳様が蛇に戻るきっかけになることを禁じたのかもしれないわね」
「そうまでして、竜は虹淳様を身代わりにしたかったってことですか」
「そういうことでしょうね」
「どうしてそこまでして……って、そっか。竜妃様になって子どもを生んだら……」
「竜と言えども命は惜しいでしょうから」
竜妃様は皇帝陛下との間に子どもを作らなくてはいけない。そのための契約だと聞いた。ところが子どもが生まれたら自分は死んでしまう。それを避けるために身代わりを寄越したということなのだろう。
しかし、それでは虹淳様はどうなるのだろうか。虹淳様にも宝珠があるということは、子どもが生まれれば死んでしまうということだ。わかっていて身代わりにした竜が段々憎らしくなってきた。
「蛇は保存食。竜の代わりに皇帝に食べられて殺される保存食」
突然そうつぶやいた虹淳様に、わたしも紅花さんも目を見開いた。




