21 紅花(ホンファ)
弘徳様には先に煮卵を届けてもらうことにした。それを見送ってから麒麟宮の侍女、紅花さんを台所の隣にある板張りの部屋に案内する。
(そういや皇帝陛下もここに案内したっけ)
そんなことを思い出しながら今回はお茶を出すことにした。そのほうが落ち着くんじゃないかと思ったからだ。
「取りあえず簪、返しておきますね」
手巾を開いて簪を茶器の隣に置く。簪は銀製で、べっ甲の花飾りは橙色にも見える深い黄金色をしていた。桃の花のように見えるけれど、やっぱり桃の花とは形が少し違う。わたしがあまりにじっと見ていたからか、紅花さんが花飾り部分を指で撫でながら「この花は薔薇というのよ」と口にした。
「ばら、ですか?」
「西の方に咲く花で、わたしの故郷で見かける花よ。桜や桃に似ているけれど、もっと華やかで香りがとてもいいの」
やっぱり大事なものだったに違いない。花飾りを撫でる紅花さんの目はとても優しく懐かしいものを見るような眼差しに見える。「ありがとう」と言った紅花さんは、摘んだ簪を大事そうに懐に仕舞った。
「あの……、尋ね人って、紅花さんは探されてるってことですよね?」
どうしても気になって、つい尋ねてしまった。わたしの問いかけに紅花さんが唇をキュッと噛み締める。
(探されてるってことは逃げ出したってことよね)
届け出たのは、おそらく麒麟宮の黄妃様に違いない。けれど犯罪者を捕まえるための申し出とは思えなかった。ただ捕まえたいだけなら「尋ね人」にする必要はなく、武官の宦官に話して捕らえさせればいい。
「もしかして後宮から出ようとしてたんですか?」
それなら連れ戻そうと思ってもおかしくない。わたしの指摘に紅花さんの肩がほんの少し揺れたような気がした。
「わたしなんかが差し出がましいかもしれませんけど、もし後宮から出たいのなら家に連絡してからのほうがよくないですか? 上級侍女なら穏便に後宮から出ることができると聞いたことがあります」
「……」
「ええと、小耳に挟んだだけなので、余計なことだったらすみません」
上級侍女は貴族の娘が務める。それも中流以上の家柄がほとんどで、昔は上級侍女から妃になる人もいたと聞いた。そんな家柄なら、家人に頼めば後宮から出ることも可能なはずだ。
それなのに逃げ出すような真似をするなんてどういうことだろう。それでは家の名前に傷が付くだろうし、そもそも勝手に逃げ出すのは罪になる。
「あなた、あまり侍女らしくないのね」
紅花さんがそう言いながら、まるで探るようにわたしを見つめた。きっと侍女らしくないわたしを怪しんでいるのだろう。そう思って「元々は鳳凰宮の下女だったので」と白状することにした。
「そういえば洗濯係が侍女になったという話を聞いたけれど、あなたのことだったの」
「ちょっとした成り行きでそうなってしまいまして」
「蛇を食べる変わった侍女だと聞いたわ。それに蛇の毒も平気で、蛇を操ることもできるそうね」
「あー……食べたことがあるのは本当ですけど、それ以外は嘘ですから信じないでください」
「ちょっとアレな侍女」という噂は尾ひれをつけて麒麟宮にも伝わっていたらしい。わたしの返事に紅花さんは眉をひそめ……てはいなかった。蛇の話なんて気持ち悪いだけだろうに珍しいなと思っていると「おもしろい人ね」と小さく笑っている。
「てっきりもう辞めたのかと思っていたわ。陛下から応竜宮に近づかないようにという命令も出ているし、ここに来るのは掃除をする侍女や様子を確認する宦官くらいだと聞いていたから」
「ええと、成り行きついでにまだこうして働いてます」
「……本当におもしろい人」
褒め言葉には聞こえなかったものの、馬鹿にされているようにも聞こえなかったから「どうも」と軽く頭を下げた。すると紅花さんが「普通の侍女だとここで烈火のごとく怒るのよ」と微笑む。
「あなた、生まれはどちら?」
「帝都です。といっても外れにある荒ら屋ばかりの路地裏ですけど」
「あら、それならわたしも一緒だわ」
「え……?」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。ところが紅花さんは「わたしは帝都の西の外れで生まれたの」と何でもないことのように話す。
「驚いた?」
「そ……うですね、驚きました。だって、紅花さんは上級侍女なんですよね? てっきり貴族のお嬢様かと思っていたので」
「養い親が貴族だったから、こうして後宮で上級侍女をすることになったの」
「養い親……」
「養い親の兄が西方域節吏使を務めているのよ」
「西方……ええと、」
「西方の地を統括する節吏使、陛下に代わって命令を下す役職のことよ」
「それって偉い人……ってことですよね?」
「そうね、偉い人ね」
紅花さんがまた少しだけ笑った。何かを蔑むような笑みに見えるけれど、伏せられたその目はわたしを見ていない。なるで自分自身を……もしかしてその偉い人のことを笑っているのだろうか。
「そんな偉い人が養い親の、ええとお兄さんなら、それこそ家に言えば問題なく後宮を出られるんじゃないですか?」
わたしの質問に紅花さんが「そうね」と寂しそうな顔をした。それからお茶を一口飲み「そうできたらよかったのだけれど」とつぶやく。
「もしわたしがただの侍女なら、そうやって後宮を出られたかもしれない。でも、わたしはそうはできないの」
「どういうことですか?」
「わたしは家の命令を受けて侍女になった。その役目を果たさない限り後宮を出ることは許されないわ」
「役目?」
「でも、その役目ももう果たすことはできない。黄妃様はわたしを怪しんでいらっしゃるから」
「怪しんでる……?」
やっぱり何かしたのだろうか。わたしが知る限りいまの後宮は穏やかに見えるけれど、裏で妃同士の駆け引きがないとは言い切れない。
(それに皇太子になる皇子様も生まれてないし)
そのために新しく若い妃が来るのではという話は、わたしが後宮に来たときから囁かれていた。そういったことに紅花さんも関わっているとしたら、怪しまれているというのもわかる気がする。
「黄妃様はわたしが身辺を探っていることに気づいていらっしゃる。これまでは何とか誤魔化せたけれど、きっともう誤魔化せない。だから逃げることにしたの」
やっぱり何かしでかして見つかったのだ。しかし養い親だという人に命じられたことがあるせいで、後宮から出たくても出してもらえないに違いない。
「黄妃様にはとてもよくしていただいたのに、わたしはそれを裏切ることしかできない。だからそばを離れようとしたのだけど、急なことでうまくいかなかったわ」
紅花さんの微笑みは何だか泣いているように見えた。




